みずのめ
ぴちょん……ぴちょん……と、水の跳ねる音が聞こえた。
首筋を伝う汗を拭い、私は周囲を見回した。瞬いた拍子に、睫毛の上に浮いていた汗の玉が弾ける。
私がいるのは青々とした田園地帯の只中を走る農道だった。灼けるような夏の陽射しがひび割れたアスファルトの路面を焦がし、ぽつぽつと立つ標識のほかに影を落とすものはない。
田園地帯を取り巻くなだらかな山並みには見覚えがあった。父方の祖父の家の近くの風景だ。
実家は市街地にあるが、祖父の家は片田舎を絵に描いたような郊外に建っている。車で三十分あまりの距離で、子どものころは父に連れられて頻繁に遊びへいった。
祖母は早くに亡くなり、伯父も父も独立したため、古い家に祖父だけが暮らしている。いまでも梯子にのぼって庭木の手入れをするような矍鑠とした祖父だが、息子たちにしてみれば年々ひとりで老いていく父親が心配なのだろう。
夏休みに入ると、お盆を祖父の家で過ごすことが恒例行事だった。成人してからもお盆が来ると両親とともに祖父の家を訪れていたが、数年前に結婚を機に県外へ移り住んでからはお盆は夫の実家を伺うようになった。
それなのに、どうして祖父の家の近くにいるのだろう。帽子も日傘もないおかげで、脳天から火が噴きそうだ。
ぴちょん……ぴちょん……と、水の跳ねる音が聞こえた。
私は首を傾げた。農道の周辺には田んぼへ水を引く水路が張りめぐらされているが、こんな風に水音が響いていた記憶はない。
それにしても暑い。文字どおり滝のような汗が溢れ、全身ずぶ濡れだ。
無性に喉が渇いて、引きつったような痛みを覚えた。
暑い。新品の絵の具で塗りたくったような空の青さに眩暈がする。
ぴちょん……ぴちょん……と、水の跳ねる音が聞こえた。
私は農道の先に目を留めた。
路面がゆらゆらと揺らめき、大きな水溜りが広がっているように見えた。ああ、逃げ水だ、とぼんやり思った。
ぴちょん……ぴちょん……と、水の跳ねる音が聞こえた。
汗が目に染みて、私は何度も瞬いた。
手の甲で目元を拭って顔を上げると、逃げ水はあいかわらずゆらゆらと揺らめいている。
――先ほどよりも近づいてきていないだろうか?
汗が背中を流れ落ちた跡がやけに冷たい。私は喉を鳴らして唾を飲みこんだ。
ぴちょん……ぴちょん……と、水の跳ねる音が聞こえた。
そろそろと睫毛を上下させる。次に目を開いたとき、逃げ水は確実に近づいてきていた。
氷の手で心臓を握り潰されたような錯覚に陥った。渇いた喉が悲鳴になりきれない掠れ声を洩らす。
逃げなければと思うのに、アスファルトに両脚を縫い止められたように動けない。
ぴちょん……ぴちょん……と、水の跳ねる音が聞こえた。
止まらない汗がまぶたの内側に侵入する。思わず両目を閉じて、ハッと再び開くと逃げ水は五メートルほど手前まで迫ってきていた。
――あれは逃げ水ではない。
農道を両端まで覆うほど大きな水溜まり。まるでノイズがかかった古いビデオテープの映像のように、アスファルトの上で揺らめいている。
ふと。
陽射しを白々と反射する水面から、ぬぅ……と丸い影が浮き上がった。
ボール――ではない。陽射しにてらてらとぬめる黒い表面は、人間の頭髪だ。
濡羽色の頭がゆっくりと回転する。
青白い頬が垣間見えた瞬間、私はとっさに両目を瞑った。
息が犬のように荒い。早駆けする心臓の音が耳の奥で鳴り響いている。
ぴちょん……ぴちょん……と、水の跳ねる音が足元から聞こえた。
足首まで冷たい水に呑みこまれる。一瞬で出現した水溜まりに膝の震えが止まらない。
澱んだ水の生臭さが鼻腔を塞ぎ、私は激しくえずいた。喉の奥に引きつれたような痛みが走り、熱い血が両手を濡らす。
驚いてまぶたを開いてしまった。吐きだした血が両脚のあいだを伝い落ちていく。
足元に広がる水溜まりは、やはりノイズが走る映像のように不気味に揺らめいていた。血が流れこむと、たちまち水面が薄赤く染まる。
瞬きすら忘れ、視線を逸らせない。
濁った水面の下、水溜まりに浸かった脚と脚のあいだに女の顔が浮かんでいた。
ゆらゆらとうねる濡羽色の髪が足首を掠める。水死体のような青褪めた肌。やけに黒目が大きい両目がじいっと私を凝視している。
女の真っ白なくちびるが開き、ごぽりと大量の気泡を吐いた。
水面がぼこぼこと泡立つ。気泡の下から濡羽色の頭がゆっくりと浮上する。
私を捉えて微動だにしない女の眼球が水面を突き破った。
女の口が何か発しかけたそのとき――
ちりぃ――ん……と、風鈴の音が鳴り響いた。
背後から涼しい風が吹きつける。
埃っぽい建具の匂い、日焼けした畳の匂い、仏間にくゆる白檀の香り。これは祖父の家の扇風機の風だ。
ちりぃ――ん……と、風鈴の音が鳴り響いた。
夏になると、祖父の家の縁側にはガラスの風鈴が吊り下げられる。青や紫の朝顔が描かれた風鈴は、こんな風に澄んだ音色をしていた。
風に乗って低い読経の声が聞こえてきた。
間違いない、祖父の声だ!
幼いころから耳に胼胝ができるほど聞かされた摩利支天の真言を淀みなく唱えている。
祖父の声に導かれ、いつしか私の口も流れるように真言を唱えはじめた。
女の頭は半分水溜まりに沈んだまま、ぴくりとも動かない。
ふと、女の両目が忙しなく瞬いた。大きすぎる黒目が何かを探すようにギョロギョロと蠢く。
代々祖父の家系が信仰する摩利支天は陽炎の化身とされる神仏で、その真言には悪いものを遠ざけ、身を隠す加護があるという。真言の力によって、女は私を見失ったのだ。
女が大口を開けた。黄ばんだ乱杭歯の隙間から気泡が溢れだす。
「み――、――め」
あぶくが湧き立つ音に紛れ、掠れたささやきが鼓膜に触れた。
ちりぃ――ん……と、風鈴の音が鳴り響いた。
私は大きく息を吸いこんだ。
畳の上で体を丸めて激しくむせこむ。腹に力が入って内側から引きつるような痛みを覚え、必死に呼吸を整えた。
ちりぃ――ん……と、風鈴の音が鳴り響いた。
開け放たれた障子戸のむこうの縁側で、軒先に吊るされた風鈴が夏の風に揺れている。
びっしょりと汗で濡れた背中を扇風機の風が撫でる。水から這い上がったように重い体で寝返りを打つと、薄緑の羽根を唸らせて年代物の扇風機が首を横に振っていた。
「目ぇ覚めたか」
扇風機のむこう、座敷の奥に設えた盆棚の前で祖父が正座をしていた。
節くれ立った浅黒い両手に黒水晶の数珠を絡め、合掌のポーズを取っている。
私は呆然と祖父の顔を見つめた。祖父は皺に埋もれた両目を眇めて息をつき、摩利支天の真言をくり返しながら盆棚へ深く頭を下げた。
「摩利支天様のお力で、いまのおめぇはいねぇもんになっとる。じいちゃんがえぇって言うまで、声ぇ出すんじゃねぇぞ」
祖父の言いつけに、私は頷いた。
「よっこらせ」祖父は座布団から立ち上がると、のしのしと縁側まで出ていった。
祖父の猫背を追いかけて縁側のほうへ視線を向けた私は、悲鳴を呑みこんだ。
灼けるような夏の陽射しが照りつける庭先に水溜まりがあった。
ジリ……ジリ……と揺らめく水面から、濡羽色の髪がぺったりと張りついた女の顔が半分覗いていた。奇妙なほど黒目が大きい両目がこちらを凝視している。
「あんたが探しとる娘っ子は、うちにはいねぇぞ」
祖父は淡々と女に告げた。
女の黒目がギュルッと回転し、祖父を睥睨する。
「あんた、どっから来た? この臭い、海のもんじゃねぇな」
揺るぎない祖父の声は穏やかですらあった。
女の黒目が逆回転し、水溜まりに浸かった口が開く。
「みずのめ」
老婆のような嗄声が答えた。
「水の女? 水ん中に棲んどる化生をミズハっちゅうが、あんたはミズノメって呼ばれとるんか?」
「みずのめ」
「住処は川か? それとも沼地か、池か……わざわざよその土地まで追いかけてきて、あの娘っ子に何用かね」
「みずのめ」
女は同じ言葉をくり返す。
水溜まりから異様に長い、枯れ木のような腕がぬるりと伸びた。
爪の腐り落ちた指先がかんかん照りの夏空を指し示す。
「みずのめ」
祖父は押し黙り、ため息をつくように「ああ」と声を洩らした。
「今年は空梅雨だったな。おまけにこの暑さじゃ。……あんたがミズノメになった年は、もっと大旱だったんか?」
今度は女が沈黙する番だった。
祖父はかすかに首を横に振った。
「あんた――雨乞いの人身御供から生じた水霊かね」
女はきゅうと両目を細めた。
その表情は、笑っているようにも泣いているようにも見えた。
「みずがれ」
「やや」
「しんだ」
女がはじめて違う言葉を発した。
「渇水で、あんたの子が死んじまったのか。だから人身御供に?」
祖父は労るような口調で女に尋ねた。
女は両目を細めたまま質問には答えず、さらに別の言葉を継いだ。
「やや」
「かわく」
女の指がくるりと向きを変え、祖父を――奥の座敷にいる私を指した。
摩利支天の真言によって隠されているはずの私の存在を感じ取っているようなまなざし。女は悪いものではないのだと、私は直感した。
「みず、のめ」
私は思わず両手で腹を押さえた。
妊娠の自覚はまったくなかった。結婚して数年経っても子どもを授からないことに焦りはじめていたぐらいだ。
妊婦は熱中症になりやすく、猛暑日の翌日には重大疾患のリスクが跳ね上がるとネットニュースの記事で読んだことがある。
女は最初から警告を発していたのだ――水を飲め、と。
「そうかぁ、娘っ子の腹ん中の子を心配してわざわざ追っかけてきてくれたんか。ありがとうなぁ」
祖父は女に向かって深々と一礼した。
「ちょっと待っててくれや」
女に声をかけて座敷に戻ると、盆棚に供えてあった梨をひとつ手に取って再び縁側に向かう。
「孫と曾孫が世話になった礼じゃ」
祖父がぽぉんと梨を放り投げた。女の手が器用にキャッチする。
「今年は雨が少なかったから実は小ぶりじゃが、そのぶんギュッと蜜が詰まってて甘ぇぞぉ」
祖父の言葉に女の両目が緩慢に瞬き、またきゅうと弧を描いた。はっきり笑っているとわかる表情だった。
梨を持つ手がゆらりと揺れる。
女の頭と腕が水中に沈むと、水溜まりはフッと消えた。
ちりぃ――ん……と、風鈴の音が鳴り響いた。
祖父がこちらを振り返った。
「もう声出してえぇぞ」
私は詰めていた息を吐きだした。
渇いた喉が痛んでむせこんでしまう。祖父が足早に台所へ向かい、ペットボトル入りの麦茶を片手に戻ってきた。
「ほら、よぉく飲んどけ。水分補給すんなら水か麦茶がえぇって診療所の先生が言っとった」
「あ……ありがと……」
ありがたくペットボトルを受け取り、ごくごくと麦茶を飲む。全身が息を吹き返したような心地だ。
汗が引いた首筋を扇風機の風が撫でさする。私はひと息つくと、近くに腰を下ろした祖父へ向き直った。
「おじいちゃん……私、どうしてここにいるの?」
「やっぱりなんも憶えてねぇか」
祖父は険しく眉をひそめた。
「今朝ぁ畑の水やり終わって家ん戻ってきたら、汗みずくのおめぇが家ん前に突っ立ってたんじゃ。盆のあいだは婿さんの実家へ行っとるはずなのに、どうしたんだって声かけてもうんともすんとも言わねぇで、じぃっと前向いて固まっててなぁ。こりゃあ何かに取り憑かれておらぁのとこに逃げてきたんに違ぇねぇと思って、急いで家ん中入れて隠形のめくらましをかけたんだよ」
私は呆然と祖父の説明を聞いていた。
祖父は日々畑や山仕事に勤しむありふれた田舎の老人だが、昔から不可思議な力を振るうことがあった。祖父の家系は修験者崩れの漂流民の末裔で、摩利支天信仰に基づく特殊技能を代々受け継いできたらしい。
この事実を知ったのは祖父の死後だ。当時の私はぼんやりと、祖父は何者なのだろうといまさらのように思っていた。
祖父は私の名前を呼んだ。
「婿さんの実家のほうで、どこか水辺に近づかなかったかい」
「水辺……」
記憶を探るうちに、澱んだ水の生臭さと濃い緑色の水面がよみがえった。
「ダム湖」
「ダム湖?」
「そう、ダム湖に行ったの。旦那と、あちらのご両親といっしょに……日帰りで温泉に行くことになって、ついでに近くのダム湖を観光していこうって――」
「なら、そこであの水霊に取り憑かれたんだろうなあ」
祖父は得心が行った様子で大きく頷いた。
「おめぇのことがよっぽど心配だったのかねぇ。自分の境遇と重なるとこでもあったんだか……」
「……夢の中でずっと追いかけられてたの。すごく怖かった」
「ははぁ、そりゃあ仕方ねぇ。あちらさんはよかれと思って追っかけてきたんじゃろうが、おらぁも最初は悪ぃもんにしか見えんかったからなぁ」
祖父は苦笑していたが、ふと真顔になった。
「おめぇ、婿さんの実家で何かあったんか」
「え?」
「化生に取り憑かれるっちゅうことは、心が弱ってつけ入られる隙があったんじゃ。心当たりはねぇか?」
私は膝の上で両手を握りしめた。
「旦那と喧嘩しちゃったの」
「喧嘩?」
「私、結婚してからずっと子どもができなかったでしょ? 旦那のご両親……特にお義母さんが早く孫の顔を見せてって言ってきて最近しんどくて……」
「うん、うん」
「今回の帰省でもやっぱりいろいろ言われたの。なかなか妊娠しないのは私の体に原因があるのかもしれないから、病院で調べてもらったほうがいい……とか」
「ほんで、婿さんはなんて?」
胸の奥深くまでナイフを刺しこまれるような痛みにくちびるを噛む。私は俯いて声を絞りだした。
「帰ったら病院の予約を取ろう、って。俺が付き添うから大丈夫だよ、なんて、他人事みたいな顔で笑ってた」
「ほう」
祖父は低く笑った。
「婿さんが種なしじゃあなくてよかったなぁ」
言葉の端に滲む静かな怒りに、私はぽかんと顔を上げた。
子どものころと変わらない手つきで私の頭を撫でながら、祖父が覗きこむように目を合わせてきた。
「婿さんが嫌になったんなら、気ぃ済むまでじいちゃんちにおってえぇぞ。おめぇの父ちゃん母ちゃんもすぐ来られる距離だし、都会より空気も水もきれぇだから腹ん中の子のためにもえぇだろ。婿さんの顔も見たくねぇってんなら、じいちゃんがしっかり隠してやる」
年経てたるんだまぶたの下に潜む、木下闇のような眸に、ぶるりと身震いする。
祖父が本気を出せば、夫は永遠に私と子どもを見失うだろう。それは私たちの一族にとって至極まっとうな手段なのだと、すんなり理解できた。
記録にも残らない遥か昔から、私たちは隠匿し、忌避し、漂流し、連綿と血脈をつないできたのだ。
ちりぃ――ん……と、風鈴の音が鳴り響いた。
「そうだねぇ……」
吐息まじりに呟きが洩れ、私は薄く笑った。
「とりあえず、お盆のあいだはお世話になろうかな。久しぶりにおばあちゃんのお墓参りにも行きたいし」
「おう、そうせいそうせい。念のために父ちゃんたちには連絡しとけ」
「うん」
祖父は嬉しそうな笑顔で立ち上がると、「どれ、梨を剥いてきてやろうなぁ」と台所へ向かった。
座敷にひとり残された私は、そっとまぶたを閉じた。
扇風機の唸り声と風鈴の音色だけが響く静寂に耳を澄ませる。
――しゃくり、と。
遠い土地の水脈に棲まう水霊が大口を開け、瑞々しい梨の果肉を噛み砕く音が聞こえた。
渇きを潤すような甘露の味わいに、彼女はうっとりとほほ笑んだに違いない。