眠れる森の王子様を目覚めさせたら執着されて困っています
悪しき魔女によって、王太子殿下が「眠りの呪い」を受けたらしい。
その呪いは――運命の相手からの口付けによって、のみ解けるという。
まるで絵本の中の話のようだ。
だが現実に、王太子殿下は眠り続けており、どんな手を尽くしても目覚める気配はない。
国王はついに、お触れを出した。「王太子に口付けを試みよ」と。
王太子が目覚めれば、その者は未来の王妃に。
目覚めなかったとしても、口付けを行った娘には、わずかながら報奨金が支払われる。
それを聞きつけて、王宮の前には毎日、若い娘たちが長蛇の列を作っている。
「まだ王太子殿下は目覚めないそうよ」
「まあ……お可哀想に」
呪いをかけられた理由は、いまだ不明だ。
だが王太子殿下は、品行方正で容姿端麗、学問・武芸ともに非の打ちどころがない――と、世間では評判だ。
そんな人物が、魔女の怒りを買うようなことをするとは考えにくい。
いつしか人々は彼に同情し、「あの方なら運命の相手が現れるはず」と信じるようになった。
「そんなに言うなら、お姉様たちも並んでみればいいのに」
そう口にしたクララに、姉たちは揃って呆れ顔を向けた。
「何を言ってるの? とっくに行ったわよ」
「行ってないのは、クララだけじゃない? 王都の娘で行ってないの、きっとクララ一人よ!」
冗談だと思った。だが、姉たちの表情は真剣そのものだった。
「だ、だって……許嫁でもない相手と、口と口を……! そんなの、できるわけないじゃない」
「相手はあの王太子殿下よ! できない理由がどこにあるっていうの?」
「しかも報奨金も出るのよ? 一石二鳥じゃない!」
姉たちは当然のように言う。
あまりに自信満々なので、クララの方が間違っているような気がしてくる。
頭がクラクラした。
だが王宮の前に並ぶ群衆の列を思えば、どうやら本当に――非常識なのは、自分の方らしい。
「クララも行きなさいよ。目覚めれば王妃よ、王妃! しかもあの王太子殿下が結婚相手よ? 最高じゃない」
「そうよ! もし駄目でも、新しいリボンを買うくらいのお金になるんだから。行かない手はないでしょ」
姉たちは目を輝かせ、まるでおとぎ話の主人公にでもなったつもりで語る。
けれどクララには、そもそも結婚する気などない。
「お姉様方……私は結婚はせず、修道女になって一生を祈りと学問に費やしたい。そう何度も申し上げましたよね?」
修道院に入れば、誰にも咎められず哲学も天文学も学べる。
「女のくせに」と鼻で笑われることもないし、誰の妻にもならず、誰の母にもならず、自分の頭と心で世界を見つめていける。
それが、クララの望む生き方だった。
なのに、どうしてみんな――こんなにも“夢見るような結婚”ばかりに執着するのか。そっちの方がクララには理解できなかった。
「修道女? またそれ? あなた、自分の顔を見たことある? 姉妹の中で一番美人なのよ。ほんっと、もったいないわ」
「そうよ! あの王太子殿下に選ばれるかもしれないチャンスを、なぜわざわざ捨てるのよ?」
クララは、ふうっと小さく息を吐いた。
「……見た目が美しいからって、どうして自分の人生を“差し出さなきゃ”いけないの?」
「差し出すって……なんでクララはいつも、そう難しく考えるの?」
姉の呆れた声に、クララは口を閉ざす。
本当は言いたかった。
(お姉様たちが考えなさすぎなんです……)
だがそれを口にすれば、十倍返しで説教されるのは目に見えていた。
だから飲み込む。唇を噛んで、黙ってやり過ごす。
「もっと気楽に考えたら? ……そうね、人助けとか」
「――その通りですよ」
ふいに、談話室の扉が開いた。
入ってきたのは母だった。柔らかい口調だが、その眼差しには芯の強さがある。
「クララ。あなた、修道女になりたいのでしょう? それならなおさら、殿下を助けるべきではありませんか?」
クララは息をのむ。母の言葉は、優しさと責任をひとまとめにしてぶつけてくる。
「……で、でも……男性と……その……口と口を――」
「これは儀式です。あるいは――医療行為のようなもの。違いますか、クララ?」
クララは俯いた。
逃げ場がない。理屈でも、信仰でも、母の言葉は正論だった。
「は……はい。お母様」
小さく答えながら、クララは胸の奥に重たい石を落とされたような気がした。
「馬車を玄関前に用意させました。行きなさい、クララ」
「……はい、お母様」
渋々ながらも、クララは立ち上がり、用意されたケープを羽織る。
玄関先では、漆塗りの貴族馬車が陽光を鈍く反射していた。
車輪の軋む音さえ、今はどこか遠くに感じられる。
その後ろ姿に向かって、母は微笑んだ。
「何も“王妃になりなさい”などとは言っていませんよ。
殿下は、この国の未来そのもの。お助けするのは、貴族に生まれた者の務めです。……気楽になさい」
言葉は優しく、笑みも柔らかい。
けれどその一言に、クララは完全に口をつぐんだ。
“貴族の義務”を持ち出されては、もはや何も言い返せない。
王宮に着くと、すでに大勢の若い女性たちが長い列をなしていた。
その光景は、まるで即席の舞踏会のようだった。
皆、丁寧に化粧を施し、繊細なレースや刺繍のドレスに身を包んでいる。
髪は宝石のような飾りで結い上げられ、香水の匂いが風に乗って漂ってくる。
庶民の娘ですら華やかなドレスをまとい、貴族の娘ともなれば、もはやどこかの王女と見紛うほどだった。
今すぐそのまま舞踏会へ出ていっても、誰も違和感を覚えないだろう。
その中に立つクララは、明らかに浮いていた。
落ち着いた紺のワンピース。機能重視のケープ。結い上げていない髪。化粧どころか香りもない。
ひと目で「目的が違う」とわかる出で立ちだ。
(……美しく装って、結果が変わるわけではないでしょうに)
思わず心の中で呟いたが、それを口に出せば、姉たちにはきっとこう言われるに違いない。
「乙女心がわからないなんて! 一生お嫁に行けないわよ!」
……たぶん、その通りなのだろう。
仕方がないので、さっさと終わらせよう。
そう心に決めたクララは、ためらうことなく一番最後尾に並んだ。
列はゆっくりと、けれど確実に前へと進んでいく。
その間、女性たちは落ち着きなく鏡を覗き込み、髪を整えたり、化粧を直したりしていた。
クララは特にすることもないので、それを観察することにした。
(……口紅を直す人が多いわね。やっぱり“口付け”だからかしら)
前の人の唇に口紅がついていて、そこに自分の唇を重ねる――
想像しただけで、少し顔が引きつる。
(……これ、順番が後ろのほうが損じゃない?)
呪いを解くどころか、違う病が移りそうだ。
と、別の列の女性に目をやれば、今度は小瓶から何かを指先に垂らして唇に塗っている。
(……聖水?)
おそらく、神聖な力で呪いを打ち払おうという意図なのだろう。
でも、そんな手段などとっくに誰かが試しているはずだ。
皆が皆、一生懸命に“自分こそが選ばれる運命”を信じ、工夫を凝らしている。
クララだけが、その中でぽつんと、淡々と順番を待っていた。
やがて扉の前にたどり着き、兵士に名を告げると、無表情なまま言われた。
「……順番です」
クララは小さく頷き、案内されるままに王太子が眠る部屋へと足を踏み入れた。
扉が閉まると、外の喧騒は嘘のように消えた。
張りつめた静寂が部屋全体を包み込む。まるで、時までもが眠っているかのようだった。
寝台の横には、老齢の聖職者と見える男性が一人。
今まさに、儀式用の香油で王太子の額にそっと印を描き終えたところだった。
「……どうぞ、こちらへ」
促されるまま、クララは王太子のすぐそばへと歩み寄った。
そして見た。
そこに眠っていたのは、あまりに整いすぎた、まるで作り物のような美しさをもつ青年だった。
豊かに波打つ黄金の髪。
睫毛に縁取られた瞼の奥にどんな色の瞳が隠されているのか、見えないのが惜しいと思えるほど、輪郭までもが完璧だった。
その容姿は人間の域を超えていた。
神が地上に降り立ったとすれば、こういう姿をしているのではないか――
そんな錯覚を覚えるほどに、神々しく、美しかった。
(……やっと意味がわかったわ)
あれほどまでに人々が熱狂していた理由が、ようやく腑に落ちた。
この顔を一目見るためなら、自分のすべてを差し出す者がいても不思議ではない。
(……これが、魔性の男って言うのかしら)
冷静に観察しているつもりだった。
けれど、気づけばクララの視線は、王太子の顔に吸い寄せられていた。
黄金の髪、整った顔立ち、閉じたままの長い睫毛。
そのあまりに静かな美しさが、まるで重力のようにクララの心を引き寄せる。
――そして、唇も。
自分の意思で動いているはずなのに、身体はゆっくりと、自然と彼の方へ傾いていった。
(どうか……目醒めますように)
もう、修道女の誓いも、王妃になるかもしれない未来も、頭の中からすっかり消えていた。
ただこの人を――助けたい。それだけだった。
かすかに唇が触れ合う。
その瞬間、何かが胸の奥でふわりと震えたような気がした。
クララはそっと身を引き、王太子の顔を見つめた。
(……呪いは、解けていない)
目は閉じたまま、まるで眠り続けているようだった。
クララは小さく息を吐き、肩の力を抜いた。
そして背を向け、部屋を出ようとした――そのときだった。
「……殿下!?」
背後から、老齢の聖職者の驚きの声が飛んだ。
振り返ると、王太子の瞼が、わずかに震えている。
「……奇跡じゃ……!」
老聖職者はその場に跪き、両手を組んで天を仰いだ。
感極まった祈りの声が、部屋に響く。
クララは一瞬、安堵の息をついた。
――けれど、すぐに我に返った。
(ま、まずい……非常に、まずい!)
顔から血の気が引いていくのが、自分でもはっきりわかった。
心臓の鼓動がやけに大きく、身体の内側で響いている。
「……ここは……? 私は……助かったのか?」
耳に届いたのは、よく通る、涼やかな男の声。
まるで澄んだ風が吹き抜けるような声だった。
ゆっくりと身を起こした王太子は、眠気を払うようにまばたきしながら周囲を見回す。
やがて、クララの存在に気づき、その翠色の瞳と目が合った。
その瞬間、クララの身体がピクリと跳ねた。
喉がごくりと鳴る。
「……長い夢を見ていた気がする」
「殿下……ようございました……!」
老齢の聖職者が感極まり、頬に涙を伝わせながら王太子の手を取った。
王太子はゆっくりとその手を握り返すと、再びクララの方へ視線を向けた。
そして、まるで夢の続きを見ているように、じっと彼女を見つめる。
「あれは……?」
クララはまたもや王太子と目が合い、金縛りにあったようにその場から動けなくなった。
「――あの女性こそが、殿下の運命。殿下を救った“真実の花嫁”にございます」
聖職者が神々しい口調で宣言する。
王太子の顔に、ふっと朱がさした。
「……君が……」
「ち、ち、ち、違いますっ! ぐ、偶然! そう、偶然です!」
クララは顔を真っ赤にしながら、意味不明なほどの早口で否定した。
その騒ぎを聞きつけたのか、扉が勢いよく開かれ――国王夫妻が飛び込んできた。
「フィリクス……!」
王妃の震えるような喜びの声が室内に響いたと同時に、クララは反射的にその場を飛び出した。
背後では王妃が王太子の名を呼び続け、何人もの足音が混ざり合って迫ってくる。
クララは王宮内の長い回廊を駆け抜け、広場へ、そして待たせていた馬車へと身を投げ込んだ。
(早く……早くっ……!)
御者に声をかける余裕すらなく、息も絶え絶えに座席へ倒れ込む。
軽い気持ちで来た自分を何度呪ったかわからない。
こんなにも王宮から屋敷までの道のりが長く、心臓の音が煩わしいと感じたことなど、かつてなかった。
ようやく自邸にたどり着くと、クララはスカートの裾を抱えて一気に部屋へ駆け上がった。
「クララ!? なにをしているの!」
姉が廊下から顔をのぞかせて叫ぶが、クララは無視して衣装棚に向かい、必要最低限の荷物だけをまとめ始めた。
持参金はあとで父に頼むしかない。今はただ、ここを出ること――それだけが最優先だった。
扉の向こうから足音が近づく。
「クララ!どこ行く気なの!?」
「……お姉様、お願いです、離してください。時間がないんです」
クララは乱れた息のまま、姉の手をふりほどく。
「落ち着きなさい。あなたらしくないわ」
「違う……今の私は“らしく”してる余裕なんてないの! 早く……早くしないと、王宮から追手が――!」
そのとき――屋敷の外から、馬車の車輪の音と、甲冑の軋むような足音が、重たく迫ってくるのが聞こえた。
姉はすべてを察したようだった。
「……こっちへ」
クララの手を引いて、屋根裏部屋へと急いだ姉は、彼女を中に押し込み、素早く外から鍵をかけた。
「お姉様!? なにを――」
「しっ! 静かに。絶対に声を出してはダメよ」
「……お姉様……」
「大丈夫。私が守ってあげるわ」
その言葉を残して、姉は階下へと戻っていった。
クララは、その時はまだ知らなかった。
姉が、母ともう一人の姉と結託し、王宮からの使者に対して見事な芝居でしらを切り通してくれたことを。
――普段は考えなしなのに。
そして、ほどなくして王太子本人に見つかり、
壮絶な追いかけっこの末に、「未来の王妃」の地位を与えられてしまうことを――。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
実はこの物語、書いているうちに「もっと続きを書きたい……!」という気持ちがむくむくと湧いてきました。
もし読者の皆さまからの反応をいただけたら、この先の「逃げるクララ」と「追う王太子フィリクス」の物語を、長編としてお届けしたいと思っています。
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