7.獣化(2)
ラウノが獣から元に戻った次の日に、ラウノの両親が屋敷に帰ってきた。ラウノの父がニナとラウノがいるサロンに顔を出すと、ニナに労いの言葉をかけた。
「ニナちゃん大変だったね」
「私は特に何もしていないんです。気が付いたら戻っていたので、遊びに来ただけみたいになってしまいました」
結局何が原因だったのか分からず終いだ。獣人のことはニナにはさっぱり分からない。アンテロもやっと家に帰れると言って屋敷を出ていった
「ラウノが元に戻れたのはニナちゃんのお陰だよ。ほら、お土産があるんだ。一緒に見ないかい?」
渋い顔をして父親を見ている息子を無視して、ニナに手招きをする。
「どちらに行かれていたんですか?」
「使者として他国にね」
従者が運んで来たたくさんの荷物の中からラウノの父は、珍しい文様の器や、幾何学模様の布などをニナに広げて見せる。見たこともない品物に、商人の娘であるニナの目の色が変わった。父の店でも見たことのないものばかりだ。
「これは珍しいものだと聞いたんだ。なんだと思う?」
鎖に繋がれた蓋のついた杯のような容器を差し出した。高さのある杯には幻想的な模様が描かれている。吊り下げて使うもののように見えるがなんだろうかとニナが首を傾げた。
「異国の香炉だよ。不思議がことが起きる香炉だと言われたんだけど、火をつけて見るかい?」
興味津々に広げられたものを見ていたニナが、目を輝かせながらこくこくと頷く。
ラウノの父が執事に火をつけさせると、香炉をニナに差し出した。受け取ったニナは鎖をゆっくりと揺らしながら香り立つのを待っている。しばらくすると蓋の隙間から香りを含んだ煙が上がった。
「いい香りがしますね……」
ガチャン。
ニナが持っていた香炉が床に落ちて、中に入っていた香料が絨毯に散らばった。
何事かとニナを見れば、ニナの立っていた場所に残されていたのはドレスの抜け殻だった。そのドレスの間からもぞもぞと顔を出したのは若い猫。
ミルクを入れた紅茶のような色をした猫は、驚きで固まったラウノとその父を見ると、腰を落として後ずさった。
「……ニナ?」
ラウノが手を差し出すと、猫はじりじりとラウノとその父から距離を取って壁際に後退していく。尻尾を体に巻き付けてラウノから目を離さない猫は、毛を逆立てて警戒を隠さない。
「ニナちゃんが来ているのですって」
その時、扉を開いてラウノの母が現れた。部屋の中を見渡すがニナの姿が見えない。部屋にいるのは夫と息子と執事のみだ。
夫人の声を聞いた猫は素早く壁際ギリギリを駆け抜けると、夫人の足下にすがりついた。
「まあどうしたの?可愛い猫ちゃんだこと」
「ニナ、こちらへおいで」
「え?ニナちゃんなの?」
ラウノが猫に近づくと、夫人の足下にいた猫はドレスの後ろに身を隠した。
「どうした?ニナ、僕だよ」
猫はドレスからちらっと顔を出すが、頭の位置を下げたまま逆毛を立てている。
「……父上、何なんですかこれは?」
「不思議なことが起きると言っていたんだが、冗談だと思っていたんだよ」
「まあまあまあ、ニナちゃんはラウノよりもわたくしの方が好きなのね」
夫人がニナを抱え上げると、猫はひしっとその胸に抱きついて離れようとしない。小刻みに震えているのが分かって、ラウノもそれ以上は近づくのをやめた。
獣の本能がラウノを恐れるのか。
ニナと出逢って何年にもなるが、こんなにはっきりとした拒絶を受けるのは初めてで、さすがのラウノも動揺を隠せなかった。ラウノが獣化した時は恐れることなく抱きついてきたのに、今のニナは明らかにラウノを恐れている。
「ほらニナちゃん。わたくしのお部屋にいらっしゃいな」
「母上!」
気色ばむ息子に冷たい視線を送ると、夫人は猫の額を指でなでた。
「女の子が怖がっているのだから、少しは我慢なさい」
◇
元々動物が好きな夫人である。部屋へ連れ帰った猫とリボンで遊んでいると、疲れた猫は夫人の膝の上でくうくうと寝息を立て始めた。特上の天鵞絨のような感触はいくらなでていても飽きることがない。
「可愛らしいわ」
夫人は可愛いお嫁さんも欲しかったけど、可愛い猫もいいわねと眠った猫の背をなでながら考えていた。
でも、ラウノが泣いちゃうから駄目ね。
「……母上」
猫の鳴き声がしなくなったのを見計らって、ラウノが静かにノックをするとその身を母親の部屋に滑り込ませた。
「……ニナ」
「それ以上近づいては駄目よ。目を覚ましたら可哀想でしょう?」
「僕の方が可哀想だ」
その場に足を縫い止められたように動かなくなったラウノが、悲痛な顔をしてニナを見つめている。
「旦那様はなんとおっしゃってるの?」
「効果は少ししか持続しないと言われたと」
香炉をもらったものの冗談だと思って受け取ったと言っていた。まさか香を嗅いだことで獣になるだなんて誰が予想できただろうか。忌々しい香炉はすぐに廃棄させた。
「じゃあもうすぐ元に戻るんじゃくて?」
「ニナの体に影響がないのかが心配だ。それに……」
ニナに怯えられて逃げられている現状が我慢できない。
◇
翌日になってもニナは猫のままだった。夫人の部屋で眠りについて、目が覚めた時にはとっくに日が昇っていた。夫人の手から小さく切ったハムを食べさせてもらうと、再びうとうとと眠りに落ちた。
「猫になったニナちゃんは、随分とよく眠るのね」
クッションの上で眠った猫をそのままに夫人は部屋を出て行った。
しばらくすると猫が目を覚まし、微かに開いた扉から廊下に向けて顔を出した。廊下に誰もいないことを確認すると、階段を下りて窓に近づいた。窓の外には庭園が広がっている。猫は外に出られる場所を探して、ご機嫌に尻尾を揺らす。
廊下を歩き続けてようやく外に出られそうな場所を見つけると、身軽な動作で出窓に飛び乗った。すると遠くからニナを呼ぶ声が聞こえた。
「外に出るのは危ないよ」
長い廊下の先にラウノが立っていた。その姿を見た猫は目を大きく開けて、耳を伏せたままその場に固まっている。
「そちらには行かないから怖がらなくていいよ。でも外は危ないから出てはいけない。散歩は屋敷の中だけにして欲しいんだ」
猫は上半身を低くしたまま、ラウノから目を離さない。猫はラウノを警戒しながら身を翻すと、近くにあった食堂へと滑り込んだ。逡巡した後にラウノがその後を追うと、食堂の床にニナが倒れていた。
何も身に纏っていないニナにテーブルクロスをかけて抱き起こすと、呼吸が正常であることを確認する。特に異変はなく眠っているだけのように見える。
しばらくするとニナが小さなうめき声をあげて目を開けた。泣きそうな顔をしているラウノに驚いて、テーブルクロスを身に纏っていることには気づかない。
「……なんか怖い夢を見てた気がするよ」
「僕も恐ろしい目に遭ったよ。こんなことは二度とごめんだ。本当に辛かった」
テーブルクロスにくるんだニナをぎゅっと抱きしめると、ニナの肩に顔を置いたラウノが弱々しく呟いた。
「なんで私何も着てないの!?」
「本当に恐ろしかった」
「ちょっと待って!全然今の状況の分からない私の方が恐ろしいよ!」
猫になっていた間の記憶がないニナは、ラウノの膝の上で一通りの説明を受けている。
ラウノからニナが離れることを許してもらえず、ずっと膝の上に横抱きにされている。いい加減重たいんじゃないかと思うが、決してニナを側から離そうとしない。
「ニナが獣人じゃなくて良かったよ。獣人だったら怯えられていたかもしれない」
「そうなのかな?覚えていないから、ラウノの何が怖かったのか分からないよ」
◇
「おや、ラウノ達はどうした?」
ラウノの父が屋敷を歩き回るが、ニナとラウノの姿が見えない。不思議に思って執事に声をかけると、執事はラウノから預かった父親宛ての手紙を差し出した。
「坊ちゃんでしたら、朝早くニナ様のご自宅へとお出かけになりました。当分帰らないと伝言を残しておいでです」
父親に怒ったラウノは家の仕事を放棄して、ニナの街へと向かっている。しばらく帰るつもりはない。家のことに追われて苦労すればいい。
「家のお仕事のお休みもらえて良かったね」
「そうだね」
とにかく少しでもニナと離れていては不安が募る。
隣りに座るニナの肩に寄りかかりながら、ラウノは結婚の日取りを決めるまでは屋敷には帰らないと心に決めていた。