4.運命の赤い糸(1)
これはなんだろう。
ニナが自室で目が覚めて目に入ってきたのは、左手の小指に結ばれた赤い糸だった。ベッドに垂れた糸は、部屋を縦断し扉の下を潜って外に続いている。
普段から落ち着きがないと両親に小言を言われ続けているが、とうとう糸で縛るという強硬手段に出たのだろうか。すぐさまベッドから起き上がると、用意されていた服に着替えて父親の元へと急ぐ。
糸は廊下の先まで続いている。
「お父さん、これは何?」
今日も朝から元気いっぱいのニナに、父親の相好が崩れる。同じ年頃の少女よりも幾分小さい愛娘の額に、軽いキスを落とした。
一人娘に甘い父親はニナの婚約を喜びつつも、まだ手元から離したくなかったと相反する気持ちに苛まれている。
一人娘なのだから、いずれは結婚して家を継いでもらうつもりだった。まさかよその家に嫁いでいくとは思っていなかった。しかも相手は獣人の高位貴族で、ニナが番だったのだという。
ニナも相手を好ましく思っているようなので、きっと幸せにしてもらえるだろう。
分かっているが、父親とは切ないものだ。
海千山千の猛者達と対等に渡り合っている大店の主人だが、毎夜しょんぼりしては妻に慰められている。
「何って、なんだい?」
予想外の反応だ。父が縛ったものではなかったのか。確かにこんな細い糸では行動は縛れないんじゃないかと、目の前で赤い糸をぷらぷらさせながらニナは思った。
ニナの行動を抑制するには、こんな細い糸ではなくもっと頑丈な縄が必要だ。用意されても困るけど。
「お父さんが結んだんじゃないの?」
「何を結んだんだ?」
父親の目の前に手のひらを掲げるが、困ったように首を傾げている。
こんなに鮮やかな赤い糸が見えてない?
「何かおかしなことになっているね」
「ニナはまだ寝惚けているのかな?」
「起きてるよ。そうだ。今日は角のお姉さんの家に行くんだった」
しばらく里帰りするから遊びにおいでと、誘いをもらったのが今日だったと思い出す。久しぶりに近所のお姉さんの息子くんを抱っこできると、急いで支度するとニナは通りの角にある家に向かった。赤い糸は屋敷の門を越えて、まだまだ先へ続いている。
◇
「それにしても、まさかニナちゃんがこんなに早く結婚するとはね」
「私もそう思うよ」
誰よりも自分がそう思っているとニナは何度も頷いた。
「しかも相手が獣人なんてね」
「獣人との結婚は大変?」
「全然。だって夫は私のことが大好きだもの。こんなに安心できる結婚って他にあるのかしら。彼が私以外を好きになることなんてないのよ」
「なるほど。浮気の心配はないね」
気持ちの通じた獣人と人は、意外に上手くいくのかもしれない。でもそれは獣人にとって相手が番だからだ。
「それよりも相手は貴族のご子息なのでしょう? そっちの方が心配だわ」
「お家はまだまだお父さんが現役だから大丈夫」
ラウノの実家で初めて会ったが、本当に親子だろうかと、血の繋がりを疑いたくなるほど陽気なお父さんだった。ラウノに冷たく遇われて父の威厳なんかあったもんじゃなかった。どちらかというとあれは弟だ。
「他の貴族にいじめられたりしてない?」
「してないよ。それに最近、学園で一緒だったご令嬢と仲良くなったの」
マーリアは卒業してからも、あれやこれやとニナの世話を焼いてくれる。最近では少しずつ他の貴族令嬢とのお茶会にも慣れてきたところだ。
もっと貴族間のドロドロとかあるのかと思っていたがご令嬢達は優しい。年の離れた妹に似ているとか、うちの姪っ子に似ているなどと言って、美味しいものを振る舞ってくれる。小さい子限定で似ていると言われるのが未だに謎だが。
マーリアにどうして皆こんなに親切なのかを聞いてみた。すると、ニナはすでに結婚相手が決まった身で、他の令嬢と結婚相手を競うことも牽制しあうこともない相手であることも含まれると言われた。
含まれるとは? 主要な理由はなんだ?
『つまりは、ただ愛でたいだけなのですわ』
『目出度いだけだなんて、いい人達!』
ニナは先日のお茶会を思い出していた。結局理由は分からずじまいだが、ご令嬢達におめでたいと結婚を祝ってもらった。皆いい人達。
「ご令嬢から私を放っておけないって言われた。思わずきゅんとした」
「それ婚約者に言ったの?」
「言ったよ」
お姉さんが微妙な顔をしてニナを見ている。
「うちの子と遊ぶの嫌がらない?」
「前に止められた。でも可愛いんだもん仕方ないよね」
今もニナの膝の上でパタパタと尻尾を動かしている。ピコピコと動く耳を触ると、頬を舐められた。可愛い。
獣の時も、人の赤ちゃんの時もどちらも可愛い。連れて帰りたい。
「獣人は番が他に気を取られることを何より嫌がるものね」
「獣人あるあるだね」
「この子本当に分かってるのかな?」
相手はきっともの凄く嫌がってるんだろうなと想像に難くない。獣人と結婚した先輩として、何か言っておいた方がいいのか迷ったがやめた。それも含めて身を以て知った方がいいだろう。
「今日はこの後どうするの?」
「ヘンリのお店に行くよ。美味しい茶葉が入荷したんだって。わざわざ連絡くれたの」
「……意外に諦めが悪いわね」
「何が?」
思わせ振りなことを言ってお姉さんは、なんでもないと首を振った。
まだニナと遊びたいと離れない息子くんに後ろ髪を引かれながら、ニナは街の中心へ足を進めた。
赤い糸は街の中に向かっている。
◇
「あら、ニナちゃんいらっしゃい」
「おばさんこんにちは。ヘンリいます?」
ヘンリの家は主に高級食材を取り扱う食料品店だ。ニナが重厚感ある扉を開いて店に入ると、かすかに茶葉の爽やかな香りが鼻腔をくすぐった。
奥から顔を出した店の女主人が、奥にいるヘンリを呼んでいる。しばらくすると幼少からの友人が顔を出した。
「連絡ありがとう。お勧めを買いに来たよ」
「お前が前に好きと言っていた季節物が入荷したんだ」
二つ上のヘンリは昔から面倒見がいい。小さい頃はからかわれて泣かされたこともあったが、いつからか頼れる兄貴分になった。
茶葉について説明を受けていると、意を決したようにヘンリがニナの手首を掴み、しばしの無言の後口を開いた。
「お前、今幸せか?」
「どうしたの?ヘンリは何か辛いことでもあったの?」
唐突な質問にニナの方が動揺した。
ニナは割と幸せいっぱいだ。心配されるようなことは微塵もない。ということはヘンリに幸せではないような何かが起きたのだろうか。
「私は結婚して街から離れるけど実家はこの街にあるし、いつでも相談に乗るよ。ヘンリは大切な幼馴染みだからね」
「……結婚するのか」
「結婚するね」
「……結婚するんだな」
「結婚するんだよ」
「……そうか」
「もしかして結婚焦ってるの? 大丈夫、ヘンリは優しいし頼れるお兄さんだから、きっと素敵なお嫁さんが来てくれるよ!」
握り拳を作り、ニナは力強くヘンリを慰めた。
「ニナちゃんがとどめを刺した」
物陰から切ない息子の片想いを見守っていたヘンリの母親が、目頭を押さえながら呟いた。
結婚祝いと言って茶葉はプレゼントしてもらえた。宮廷に献上するくらいの稀少で高価なものなのに申し訳ない。
兄貴分は流石に心遣いが細やかだ。
流石のニナも他の人の目に映らない赤い糸が、普通の糸ではないことは気づいていた。ではこの糸は何なのか。ひたすら糸を辿って街を歩く。