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僕の番  作者: 新在 落花


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15/15

15.祝福の歌(5)

 聖堂を出て元来た道を歩き出すと人影はまばらになった。聖堂への道として使われる大路から、一筋外れているからだろう。

 雪がちらつく中、ふたりは手を繋いだまま聖堂を後にする。凍り付くような冷たい空気はどこまでも澄んでいて、星空の先まで見通せそうだった。


 ニナの手を握ったままラウノがは自分のコートのポケットに手を入れた。暖かいねと笑うニナの吐く息は、白く染まったまま宵闇に消えていった。


「ニナは一度帰ってしまうんだよね」


 目に見えてしょんぼりと肩を落としたラウノに、あっとニナが声をあげた。


「帰るのはやめたの」

「え?」

「ベルタちゃんを家に招いたのは私なのに、住み始めた途端一家でいなくなったら困るよね。だから、残ることにしたの」


 但し、ニナの父親と従兄は変更なく一度戻る手筈となっている。

 ニナの父親は娘だけでなく妻までもが同行しないことに、最後まで渋面を浮かべたままだった。


「……こんな効果があったとは」


 番と偽る鳥の存在は業腹だが、それでニナが王都に残るのなら。

 多少物騒なことをラウノが考えていると、呟きを聞き逃したニナが問いかけてきた。


「何か言った?」

「何も。歌手のことには口出ししないけど、今後は少しでもいつもと違うことが起きたら話して欲しい。話すほどのことじゃないと思ったとしても、僕はニナのことで知らないことがあるのが嫌だ」

「ごめんね。約束する」


 隠すつもりも、言わないつもりもなかったのだ。

 ただ、他のことに気を取られて、すっかりとニナの頭の中から飛んでしまっていた。





 ベルタは焦っていた。


「どうしよう。全然上手く歌えない」


 稽古中に怪我をした役者の代役として、初めて名前のある役を演じることになったのだ。

 端役を担当する若手の劇団員たちは、それぞれ何かの代役を務めている。いつもは端役を演じながら、万が一のための稽古代役として練習に参加してはいるが、大きな代役が回ってきたことはなかった。


 出演する時間は長いものではないが、主人公を導く重要な役割を果たす役柄だ。

 あと数日で幕が開くが、出だしの高音のタイミングが難しく練習でもなかなか成功しない。


 今晩もニナの家にある音楽室を借りて、練習を重ねている。

 音楽室といっても貴族の屋敷にあるような大きなものではなく、他の部屋より防音が効いてる個室といった程度だ。たまにニナの父親が、妻のための音楽家を招くときに使っている。


 音楽室の使用許可をもらって練習を開始したベルタの前には、いつもニナとニナの母親がいる。失敗続きの練習風景を見せるのは気が引けると言ってみたが、観客がいることを想定して練習した方がいいと言われ、それもそうかと続けている。


「思うように歌えないの。これで失敗したらもう役がもらえなくなるかもしれない」


 いつもは歌っているだけで幸せと言っているベルタが、重圧と不調に悩まされている。昼間は歌劇団で、帰って来てはニナの家でと練習を続けているが、焦りと不安で心が落ち着かず情緒不安定な日々が続いている。


「十分歌えてると思うよ」

「凄く失敗してるわけでないんだけど、なんかしっくり来ないの」


 演出家にも大きな問題はないと言われたが、このまま舞台に上がっていいものかと考えると夜も眠れなくなる。

 一息ついてソファに座ったベルタの隣に、ニナの母親がそっと腰を下ろした。


「私が初めてベルタさんの歌声を聞いたあの日、歌劇場には声量のある人や技術に長けた人が、他に何人もいたと思うのよ」


 それはそうだろうとベルタは思う。

 主役を演じた美声の男性歌手は歌劇団で一番の実力を持った人物で、彼目当てに歌劇場へ通う客も多い。その恋人役の女性歌手は、技巧的な歌唱と妖艶な容姿で絶大な人気がある。

 ベルタはあくまで舞台の隅に並ぶ、雪の精の一人だった。


「私に音楽の知識はないから、曖昧なことしか言えないけどね。あなたの伸びやかで透き通った高音は、たくさんの声の層の一番高いところで、とても美しく響いていたのよ」


 うっとりと思い出すようにニナの母親が微笑んだ。


「あなたにの歌声はとても綺麗よ。その声を思う存分に皆に聴かせてあげましょう」

「失敗しても逆に堂々としていたら、それなりに上手くいくとお父さんが言ってたよ」

「なにそれ」


 脳天気なニナの発言に、ふっと気持ちが軽くなった。


 面白くもないベルタの練習風景を、ニナとその母親は楽しそうに眺めている。その姿を見ると自分が必要とされているようで、ベルタは安心できるのだった。


「今のとても良かったわ」

「練習の成果が出てるんだね」


「支配人に前より力強い声が出るようになったって誉められたの」


 思えば以前のベルタは常に腹を空かせていた。歌が歌えれば空腹でも関係ないと考えていたが、当時のように痩せこけてふらふらの身では腹から声など出るはずもなかった。

 今はニナの家族によって生きるための環境が整えられている。


 わたしはなんて恵まれてるんだろう。





 不安なまま当日を迎えたベルタだったが、出番を待って袖幕に控えているベルタの両手はずっと震えていた。

 歌い出しは上手くいくだろうか。音を外さないだろうか。代役であるベルタにいい感情を抱いていない観客から、非難する声が聞こえないだろうか。


「ベルタ、出番だ」


 声をかけられたベルタは、一度大きく息を吐くと軽やかに舞台へと滑り出した。

 主役があと一節歌った後にベルタの歌が始まる。


 ふと強い視線を感じて顔を向けた先に、ニナとニナの母親の姿が見えた。祈るように両手を組み合わせてベルタをじっと見つめている。

 ふたりの顔を見た瞬間、ベルタの身体中から力が抜けていくのを感じた。


 ここはいつもの音楽室。いつもどおりニナたちがいる。練習通りに歌えば失敗はしない。


 そこからはベルタ自身もよくは覚えていなかった。とにかく夢中で自分の役柄に没頭した。いつもよりも楽に声が出る。タイミングも音程も驚くほどしっくりきた。


 今日のわたしだったら、一日中でも歌っていられるはずだ。


 夢中で出番を終えたベルタを、先輩歌手たちが笑顔で迎えてくれた。普段はベルタに見向きもしない人もよくやったと褒めてくれた。


「どうしたんだ? 練習と全然違うじゃないか」


 やがて幕が下りると、劇場には割れんばかりの拍手がこだましていた。感動的な演技をした主役ふたりへの喝采だが、ほんの少しくらいは自分への称賛も紛れているかもしれないと、客席を見ながらベルタは微笑んでいた。


「ちょっと図々しいかな。でも……」


 少なくともあそこで必死に手を叩いている二つの拍手は、間違いなくベルタのものなのだ。


 歌手たちが舞台へ出て挨拶をしている端にベルタもいた。ニナとニナの母親は、ベルタに花束を渡そうと舞台に向かって歩いて行く。涙を浮かべたベルタが花束を受け取るために腰をかがめると、受け取った花束に顔を埋めた。


「ベルタちゃん素敵だったよ」

「ふたりの顔を見たらいつもの音楽室にいる気分になって、凄く気持ちが軽くなったの」


 ベルタとニナたちのやり取りをどうなることかと固唾を呑んで見ていた人たちは、和気藹々とした予想外の様子に肩すかしを食らっていた。

 その様子を軽く溜息をつきながら見ていたニナの父親は、空席を挟んで隣にいるラウノに向かって話しかけた。


「ラウノ様はこのような席で観劇するのは、初めてなのではありませんか?」

「そうですね。でも、ニナはこちらの方が喜ぶと思ったので」


 遠いボックス席より近くでベルタを観たがるに違いかないと考えて、席を確保した。隣で生き生きと楽しそうに観劇しているニナを見て、正解だったと思っていたところだ。


「これで噂も払拭できるのでは?」

「ラウノ様のお耳にも入っていましたか?」


 それは大店の会頭であるニナの父親が、娘と同じ年頃の愛人を妻子がいる屋敷に住まわせているという醜聞だった。貴族や有力者が女優や歌姫を囲うことは珍しくはなく、そのような噂が広まったようだ。


「どうでしょうね。同業者も面白おかしく触れ回っていたようですし」


 思わず妻に愚痴ったら、あんな若い子と噂になるなんてあなたもまだまだ若いわねとなぜか楽しそうだった。


 歌劇場のロビーを歩きながら、ニナはいかにベルタが素晴らしかったかと興奮気味に話している。いつもより着飾ったニナは可愛いなと頬を緩めながら話半分に聞いていると、聞き捨てならないことを言われていた。


「もう少し生活基盤が整うまで、ベルタちゃんはうちに住むことになったの。だから、結婚してもたまに様子を見に行くね」


 まさか断られるとは考えてもいないニナは、キラキラとした瞳でラウノを見上げている。


「……なるほど。これが狙いだったのか」


 妻と娘がすべての行動理念である会頭が、善意だけで他人を招き入れたことには驚いていた。しかし、抜け目なく理由があったらしい。


「ベルタちゃんが人気歌手になったら、歌劇場で一番いい席を贈ってくれるんだって」


 それは近い未来なのか遠い未来なのか。

 あの美しい声で(さえず)る友人は、きっといつか約束を守ってくれることだろう。

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