10.見込まれた婚約者(2)
「君は婚約を躊躇する気持ちはなかったかい?」
少し考える仕草をした後に、トピアスが話し始めた。
「最初はびっくりしたけど、ラウノは優しいし、一緒にいるのが楽しいから迷う気持ちはなかったよ」
「……そうか」
「トピアス様は何か迷ってるの?」
そういえば乗り気ではないとマーリアが憂いていた。
「僕達獣人は、少なからず本能に抗えない部分がある」
トピアス様も獣人とは知らなかった。
トピアスはゆっくりとした動作で給仕された紅茶を一口飲むと、またゆるりとした動きでカップをソーサーに置いた。何かを逡巡しているように見えて、ニナはトピアスの言葉を静かに待つことにした。
「……子供の頃から、彼女を見ると体が竦んで動けなくなるんだ」
「凛とした美女だから、一緒にいると緊張するよね」
「彼女にはなぜだか逆らえないんだ」
「逆らうどころか、なんでもしてあげたくなるよね」
「いっそ呑まれてしまえば楽になるのかと考えることもある」
「マーリア様包容力ありそうだもんね」
深刻な話だったらどうしようと思ったけどそんな話で良かったと、ニナは胸をなで下ろした。何でもないことのように告げたニナを、婚約者は驚きの表情で見ている。
「……だからなんだろうか?」
どこかほっとしたようにそう呟いた。
「同性の私でもそうだから、男性なら尚更だよ」
ニナは身を乗り出すと、自信満々に大きく頷いた。
「そうか。だからかなのか」
ニナも結婚への不安が全くなかったわけじゃない。ラウノへの不安というよりも、人と獣人についての不安があった。
「ラウノのお屋敷の庭を歩いていて、何気ない物を見つけて二人で笑い合ったりするのは幸せなことだと思ったよ。これがずっと続くなら結婚っていいなと思った。何か困ったことが起きたとしても、ラウノとだったら大丈夫だって思ってる」
考えても仕方ないことで思い悩むのはやめた。
そう言って無邪気に笑うニナの表情に飲まれたトピアスは、深く考えすぎていたのかと肩の力が抜けていくのがわかった。
肩肘を張っていなければならない社交界で、幼い頃から親交のあるマーリアは数少ない心許せる人物だ。マーリアが困った時は助けてあげたいと思うし、そうならないようにできれば一番近くにいたいと思う。
「マーリア様から敬称なしで呼んで欲しいと言われたんだけど、恐れ多くて呼べないよね。きっとこれもトピアス様と同じ悩みだね」
嬉しいけれど、なんだか恐れ多くて未だに呼べずにいる。
むしろ、マーリア様はマーリア様という名前であるとすら思えてくる。
トピアスは目尻に笑い皺を寄せてくつくつと笑っている。部屋に入ってきた時とは打って変わって、性格そのままの朗らかな笑みを浮かべると楽しそうにニナに笑いかけた。
「いつか読んであげてくれ。マーリアはきっとそう呼ばれることを待っている」
人心地ついた様子のトピアスは、まるで家族のことを話すようにそう言った。
「マーリア様は寒いのが苦手って言ってたから、新婚旅行は暖かいところがいいね」
「僕も寒いところは苦手なんだ」
「そうなの? 好みぴったりだね」
ほら、やっぱりお似合いだ。
急いでテラスに戻って来たマーリアは、ニナの迎えがやって来たことを告げた。もう少しマーリアと話がしたかったニナだったが、マーリアと特にトピアスの強い勧めでマーリアの屋敷を辞することにした。
お迎えとはもちろんラウノ。
「お迎えなくても帰れたよ?」
今日は仕事で外出すると言っていなかったかな?
「僕が迎えに来たかったんだからいいんだよ。楽しかった?」
「トピアス様も偶然来てね、ご挨拶したよ。マーリア様とお似合いだった」
特に誰が聞いているわけでもないが、こっそりとラウノに問いかける。
「トピアス様ってなんの獣人なの?」
「蛙のはずだよ」
「そうなんだ。獣人って結構身近にいるもんなんだね」
トピアスの温かな秘密を思い出しながら、二ナは優しい友人が早く好きな人と結ばれること願った。
馬車の窓から見える教会の屋根に白い何かが見える。あっと声をあげたニナは、小さな白い鳥がとまっていることをラウノに教える。
「小鳥がいるよ。可愛いね」
「ニナの方が可愛いよ」
ほら、やっぱり幸せだ。
◇
それから数日後。マーリアから再び招待の手紙が届いた。
「ニナさん、彼と何をお話しになりましたの? なぜかあちらが乗り気になって、早々に婚約が決まりました」
「マーリア様、おめでとう! なんだろうね。特別な話をした覚えはないんだけど」
うーんと唸りながら、ニナは微かな記憶をたぐり寄せる。マーリア様に見つめられるととかそんな話をしたような。
はっと思い出したニナは元気いっぱいに声を上げた。
「マーリア様は美人だねって話をしたよ」
マーリア様といると時が止まったように体が動かないってあれかな。トピアス様一目惚れ続行中?
あとはマーリア様には何でもしてあげたくなるとか。でも、マーリア様は控えめな人だから、何かを強要することなんかないけどね。
それから、マーリア様に呑まれる? 溺れてるだったかな? 結構情熱的だよね。マーリア様が思ってるより随分と愛されてそうだよ。
「そんな話をなさっていたの!?」
眉をひそめながら、マーリアが呆れ顔をしている。
「あとは、マーリア様の新婚旅行の話もしたかな」
「それ以上はもう結構ですわ」
普段は冷静で神秘的ですらあるマーリアの頬が薄紅色に染まっている。心なしか言葉遣いも乱暴だ。
マーリアの素の部分が見えたようで可愛いなと思いながら、ニナは少し冷えた紅茶を味わっていた。いつもであればニナの紅茶が冷えていることにすぐさま気づいてメイドに声をかけるマーリアが、それに気づかないほど動揺している。
「恋は偉大だね」
恥じらって頬を押さえているマーリアの手を取ると、ひんやりとした体温が伝わってくる。
「マーリア様は、ひんやりして気持ちいいね」
「体温は低い方ですわね」
ニナの手を両手で包むと、ニナの体温でマーリアの手が温められていくようだった。
暑い日でも汗一つかいたところを見たことがないマーリアは、いつも涼やかな顔をして隙がない。令嬢のようなドレスを着て、マナーを習い直せばマーリアのようになれるかもしれないと考えたが、その道のりはすこぶる遠そうだ。
そもそも元が違い過ぎて、真似しようとする方が烏滸がましい話なんだよね。
「自分じゃわからないけど、私の体温は高いんだって」
「誰かにそう言われましたの?」
「寒くなると私の体温が高くて温かいからって、ラウノがよくくっついてくるよ」
子供みたいだよねとニナが思い出し笑いをする。
それは体温は関係ないのではと思ったが、また睨まれてはいけないのでマーリアが口にすることはなかった。




