⑨輝虎、上州和田城を攻める(関東古戦録上巻P116-118)
永禄五年(1562年)五月、群馬郡和田城主和田兵衛太夫は武田家に内通し、深谷・倉賀野・高山らと語らって箕輪城を乗っ取る謀略を企てた。兵衛太夫の弟喜兵衛は幼少の時から輝虎(上杉謙信)に近侍していたが、折から和田に来てこの企てがあることを、厩橋に密使を送った。近習仲間の小野伝助に書状で、
「このような企てがある。御人数を少し向けていただければ、某が手引きをして城中の者共をたやすく追い出すように計らいましょう。」
と申し送ったので、輝虎は小勢を率いて急に箕輪城まで出張し、それから和田へ向かって進んだ所、計略が露見して和田城から逃れ出て烏川の辺りまで来た喜兵衛と出会った。喜兵衛が顛末を告げると、輝虎はもっての他と怒り、
「中途半端な計略で、無駄な出兵を勧めた事は許せないことだ。」
と述べて、腰の刀を抜いて喜兵衛・伝助の両人とも即座に殺害し、
「この上は、手筈が間違ったからといって、せっかく出陣したのに何もなくて厩橋城に引き返せば、彼らの笑い物になるであろう。考えがあって小勢を引きつれてきたが、勝敗はわからない。ひと攻めしてこそ考えも出てくるだろう。」
と一目散に和田城へ押し寄せ、自身で槍を取って大手門を破ろうと突きかけた。さらに直江山城守らが続き、「吾劣らず」と槍を持って力戦したので、一の城戸・二の城戸も押し破り、詰めの城まで攻め入った。しかし、和田も有名な勇士であり、味方も戦いに疲れたので、輝虎は麾を執って退却を下知した。味方は郭外に放火し、早々に厩橋に帰城した。