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上武天禄記  作者: ytaka
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⑦業政の最期(長野氏興廃史P29-30)

長野業政(業正):明応八年(1499年)~永禄四年(1561年)六月二十一日

上野国箕輪城主。関東管領上杉氏の家臣。長野氏は、在原業平の子孫と伝えられる。享禄三年に父憲業が戦死すると、家督を相続した。智・仁・勇の三徳を備えた名将の誉れが高く、上野国平井城の関東管領上杉憲政が越後に亡命すると、西上州の国人衆のほとんどを統括し、北条氏康や武田信玄の攻撃を度々撃退する。上杉謙信の関東侵攻後に発病し、永禄四年六月二十一日に死去する(箕輪軍記では六月二十二日)。享年六十三歳(長純寺の記録より)。

参考・引用:口語私訳箕輪軍記P2-3、新・歴史群像シリーズ⑤闘神武田信玄P169、中世武士選書4箕輪城と長野氏P142-143


長野業盛(氏業):天文十七年(1548年)~永禄九年(1566年)九月二十九日

上野国箕輪城主。永禄四年、父の死により十四歳で家督を継ぐが、信玄に西上野衆を次第に調略され味方を失い、永禄九年(1566年)に滅亡した。享年十九歳(長年寺所蔵「長野氏系図」では二十三歳)。辞世の句は「春風に梅も桜も散りはてて名のみぞ残るみのわの山里(箕輪軍記P19)」。

参考・引用:新・歴史群像シリーズ⑤闘神武田信玄P169、口語私訳箕輪軍記P19、ウィキペディア


 長野業政、老病に悩むこと数月。余命いくばくもないことを悟った業政は、息子業盛を枕元に呼んで曰く、

「わしが長年戦ってきたのは、関東管領上杉家を平井城に戻すためである。しかし、志を遂げること能わずして、ついにあの世へ旅立つこととなった。わしが死んでも墓など作ってはならぬ。ただ埋めればよい。卒塔婆も建てるべからず。仏事も営むべからず。汝は父の志を継ぎ、四方の敵を退けて山内上杉家を再興せよ。武将である以上、討ち死にはしても降参だけはするでない。汝の父に対する孝行、これに勝ることなし」と。

 在五中将業平の末葉にて、智仁勇の三徳を兼備せる名将、その志を遂げずして遂に他界、口惜しきことなり。時に永禄四年(1561年)六月二十一日、享年六十三歳という(長野氏興廃史P30では七十三歳)。


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