⑥武田晴信(信玄)、甕尻の戦い(関東古戦録上巻P89-91)
弘治三年(1557年)春、武田晴信は嫡子太郎義信・舎弟左馬助信繁を先発として、飯富兵部少輔・同三郎兵衛昌景・馬場民部少輔信房・内藤修理亮昌豊・諸角豊後守昌清ら一万三千余騎を率い、西上州の甕尻へ進入した。
これに対して、上州軍は長野業政を大将として、小幡・藤田・安中・白倉・金井・甘尾・多比良・尻高・後閑・長沼らは協力して、二万余騎で馳せ向かい、四月九日に一戦に及んだ。
長野は陣頭で味方を励まし、臨機応変に下知を下したため、武田家の先陣はこれに翻弄された。長野はこの機に乗じて白旗を振らせ、「味方は勝った。進めや進め」と叫んだ。ここで踏ん張って諸将が心を一つにして一気に攻め込めば、武田勢は支えきれないところを、寄り合いの勢のこと、諸将が長野の指揮には従わずに躊躇したため、百戦錬磨の武田勢は先陣を入れ替え、踏みとどまって奮戦した。そのため上州衆は次第に崩れ、ついに敗勢になった。長野勢も退散したが、それでも五・六度まで取って返し、追ってきた敵を払って殿になって逃れた。
同十二日、武田勢は箕輪城に迫った。法峯寺口に陣を張って攻めかかったが、長野はうまくこれをかわし、寄手の手負い・死人が増えるばかりであった。武田方が攻めあぐねている時、長尾景虎(上杉謙信)の信州出馬を伝える飛脚が来たので晴信は兵を引き、信濃路に向かった。