⑤氏康の平井城攻め(関東古戦録上巻P69-70、中世武士選書4箕輪城と長野氏P92-93)
天文二十年(1551年)初秋、北条氏康は春に続いて再び上州発向を決めて、領国内に陣触れをした。しかし、憲政の人望は益々失われ、さらに今春の戦いで敗北したため、北条氏への恐れからか軍勢は集まらなかった。その上、無二の寵臣であったはずの上原兵庫介は逐電して行方不明、菅野大膳亮は甲州へ落ちたと知って、近習・小者まで我も我もと逃げ去り、今や平井城へ集まった者は五百騎を越えないほどであった。憲政もあきれはて、岩築に逃げるか箕輪に籠もるかと悩んでいる時、曽我兵庫介・三田五郎左衛門・本庄宮内少輔らが憲政にこう進言した。
「長野・太田はまたとない忠臣で、公を迎え入れて守護することは間違いありませんが、少ない兵で勝ち誇る大敵を防ぐのは難しい。越後の長尾景虎(上杉謙信)は辺境にあってまだ若輩ではあるが、知勇に優れるとの噂があります。かつて信州更科の村上義清を助けて、武田晴信(信玄)と義戦に及び、恩を着せなかったと聞きます。勿論、その父信濃守為景は上杉顕定公・房能公兄弟を殺して国を奪った逆心ですが、もともとは上杉家の譜代、今回罪は許して筋を通して頼めば、二の足を踏むことはないでしょう。再び関東に戻る日もないとは言えません。」
曽我らが強く進言したので、憲政は「お前らの計画に任せよう」と、わずか数十騎に護られ、夜半ひそかに平井城を脱出し、越後の長尾景虎のもとへ落ちていった。