④上州碓氷峠の合戦(関東古戦録上巻P55-58、中世武士選書4箕輪城と長野氏P92)
武田晴信(信玄)は今春(天文十六年:1547年)信濃戸石城の村上義清と戦い、近臣数名を加え四千余にのぼる手負い・死人を出して敗北した。信州の敵方は勢いを得て、武田家の重臣たちはそれに対応するだけで精一杯であった。武田家の威勢が弱まった上に、晴信はおこりの病にかかり、命もあぶないとのうわさが流れた。(寵臣の)菅野・上原らは、この機会をとらえて信州佐久郡へ攻め込めば武田家はたちどころに滅亡し、北条家も上杉家の威光を恐れて従うであろうと主張し、評定で佐久侵攻を決定した。この時、長野信濃守業政は頭を振って、
「何たる評定であろうか。信濃への出兵は全く理由のない企てである。近年、上杉家の力は次第に衰え、政道も正しく行われないため、人の恨みを買い、家中の和もない。これは一部の家臣の独断が原因である。この春の河越合戦に敗北したのは時の運というが、つまりは軍法をおろそかにしたためである。そうであれば、当家の敵は氏康一人にしぼるべきであり、北条家を倒す謀が先決であるのに、当家とは全く関わりのない武田家と戦うのは本末転倒である。自分はこの戦いには同心できない」
業政は顔色を変えてこう述べ、退座した。菅野・上原らは苦笑いし、「長野のいつもの分別顔は上杉家のためにはならない」と言って、憲政を説得したので、信濃への出陣は許可された。
この合戦は、「関東古戦録」には碓氷峠とあり、「鎌倉九代記」「高白斎記」には笛吹峠とある。
戦死者数は、「関東古戦録」では上杉方四千三百余人、武田方二千百四十三人、「高白斎記」では上杉軍の首一二一九討捕」と書かれている。
この合戦で甲州攻めに失敗した憲政は、関東管領上杉家の権威を失墜させ、南から北条、西から武田の脅威にさらされ、ついに越後の守護代長尾景虎(上杉謙信)に助けを求めることになるのであった。