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③天文十六年小田井原の戦い(新・歴史群像シリーズ⑤闘神武田信玄P60)
天文十六年(1547年)閏七月から八月にかけて武田晴信(信玄)が志賀城を攻めたとき、城主笠原清繁は後詰を平井城の上杉憲政に要請した。上杉憲政は、家臣の金井秀景を総大将とする三千の大軍を後詰として送った。その情報をいち早く入手した晴信は、籠城兵と後詰めの軍勢によって挟み撃ちされる前に後詰めの上杉軍を倒すのが先決と考え、二千の兵で志賀城を包囲させたまま、残る五千の兵で上杉軍を迎撃した。戦いは、八月六日浅間山麓の小田井原で繰り広げられた。五千対三千という兵力の差がものをいい武田軍の圧勝で終わったが、晴信は討ち取った三百の首を志賀城に運ばせ、生首を城の石垣に並べて城兵を威嚇したという。