②真田幸隆への思いやり(中世武士選書4箕輪城と長野氏P78-80)
長野業政(業正):明応八年(1499年)~永禄四年(1561年)六月二十一日
上野国箕輪城主。関東管領上杉氏の家臣。長野氏は、在原業平の子孫と伝えられる。享禄三年に父憲業が戦死すると、家督を相続した。智・仁・勇の三徳を備えた名将の誉れが高く、上野国平井城の関東管領上杉憲政が越後に亡命すると、西上州の国人衆のほとんどを統括し、北条氏康や武田信玄の攻撃を度々撃退する。上杉謙信の関東侵攻後に発病し、永禄四年六月二十一日に死去する(箕輪軍記では六月二十二日)。享年六十三歳(長純寺の記録より)。
参考・引用:口語私訳箕輪軍記P2-3、新・歴史群像シリーズ⑤闘神武田信玄P169、中世武士選書4箕輪城と長野氏P142-143
真田幸隆(幸綱):永正十年(1513年)~天正二年(1574年)
武田氏家臣。天文十年(1541年)五月の海野平合戦で没落し、一族を連れて長野業政を頼るが、天文十五年頃武田信玄に誘われ臣従する。信玄による西上州攻略戦では、吾妻郡に侵攻する。
参考・引用:まんがみさとの歴史P60-62、新・歴史群像シリーズ⑤闘神武田信玄P152、中世武士選書4箕輪城と長野氏P78-80、ウィキペディア
天文十年(1541年)十二月、真田幸隆の父幸義(海野棟綱嫡男海野幸義)は村上義清と戦って討ち死にし、幸隆は箕輪に遁れて長野業政の許に身を寄せた。やがて、山本晴幸にすすめられ武田晴信(信玄)の麾下に入ると志を固め、ひそかに箕輪城を去ろうと企てた。しかし、長野業政に敵対の気配を見せている晴信に投じようとするのであるから、幸隆は健康が勝れないという理由で引きこもり、家人にも容易に面会せずに機会をうかがっていた。業政はこれを見て、何気なく使いをやって「今度の病気は尋常の医薬では治るまい。甘楽の奥の余地峠を越えて良薬を求めるよう、今日明日中に決心されたい」と言って馬などを贈った。幸隆は驚いたが、それとなく「御志はありがたいが、病が思いのほか重く、なかなか出立できない」と答えた。それに対して、業政は「病気が重いとの事だが、療治のためだから一日も早い方がよい」と促した。幸隆も意を決し、その暁に出立し道を早めて下仁田に着いた。そこへ数多の馬が荷を積んで追いすがって来るのを見ると、皆自分の家具で、その後から妻や家僕がついてくる。何事かと怪しんで尋ねると、業政の命令にて老臣一,二名が来ていろいろ世話をして出立させたと、添え状一通を差し出した。幸隆が開いて見ると、「武田晴信は年若に似合わず立派な武将であるが、箕輪に業政がいる間はたやすく碓氷川を越えて馬を飼おうと思ってもなるまい。本領に帰られたら、旧交を忘れられぬよう」とこまごま書いてあった。幸隆は深く恥じて、こんな事ならば打ち明けねばならなかったと、馬を止めてしばらくたたずんでいたという。