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上武天禄記  作者: ytaka
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⑩吾妻口から迫り来る真田幸隆(中世武士選書4箕輪城と長野氏P144-147)

真田幸隆(幸綱):永正十年(1513年)~天正二年(1574年)

武田氏家臣。天文十年(1541年)五月の海野平合戦で没落し、一族を連れて長野業政を頼るが、天文十五年頃武田信玄に誘われ臣従する。信玄による西上州攻略戦では、吾妻郡に侵攻する。

参考・引用:まんがみさとの歴史P60-62、新・歴史群像シリーズ⑤闘神武田信玄P152、中世武士選書4箕輪城と長野氏P78-80、ウィキペディア


 業政は吾妻方面から武田氏の西上州侵入に不安があった。そのため、大戸氏や羽尾氏に二人の娘を嫁がせたが、武田氏の東信濃の平定、滋野御三家(海野・望月・真田)の真田氏が信玄の麾下に組み入れられたことは大きな脅威であった。真田氏は吾妻郡西部に同族も多く、羽尾氏・大戸氏も真田氏と同じ六連銭の旗印を持った同族である。いつ真田方に付いて、武田信玄に臣従するかわからないのが戦国の世の常だった。

 当時(永禄年間)、吾妻郡の国人衆は岩櫃城を中心にまとまっていた。岩櫃城には斎藤越前守憲広を将とし、羽尾入道幸全らがいた。その羽尾氏は真田幸隆の妻の父であり、箕輪の長野業政の娘が幸全の妻である。幸隆の吾妻侵入は、道義的には苦衷があったはずであるが、たまたま西吾妻において鎌原氏と羽尾氏の間に不和があった。両者の戦いは永禄三年(1560年)十月上旬、羽尾幸全・海野幸光・富沢庸運・湯本善太夫等六百余騎が鎌原氏を攻め、一方鎌原方には西窪佐渡守など嬬恋村地方の武士たちが馳せ参じて激戦となる。このとき、大戸眞楽斎が二百余騎を率いて羽尾に味方し、ついに鎌原氏が降参した。

 この西吾妻の状況を見ていた真田氏は、武田信玄の後楯のもとに吾妻方面に進出した。真田幸隆は鎌原宮内(鎌原城主鎌原宮内少輔)を通じ、鎌原氏と羽尾氏の対立に介入してきた。鎌原父子は永禄三年に武田信玄の麾下に入って羽尾氏や斎藤氏に対抗したが、これを援けて真田氏の吾妻入りは本格化してくる。

 かくして岩櫃城の斎藤氏や羽尾氏は、鎌原氏・湯本氏らとその背後の真田氏・武田氏を敵に廻すことになる。このとき、業政の娘婿の大戸城主大戸眞楽斎が両者の和議を申し入れているが、長野氏も何らかの形でこれに係わったことが予想される。

 ついに真田幸隆は武田軍の吾妻入り総大将となり、鎌原宮内・湯本・西窪・海野など西吾妻の諸士等をして岩櫃城攻撃を始め、永禄六年(1563年)には長野原の要害を抜き、九月には岩櫃城を攻めている。翌七年(1564年)にはついに岩櫃城を降し、同八年(1565年)には武山(獄山)城を手に入れ、吾妻方面は真田幸隆によって箕輪方の勢力が完全になくなり、箕輪城は背後の榛名山方面からの脅威にさらされることになった。

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