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上武天禄記  作者: ytaka
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①河越の夜戦(関東古戦録上巻P36-41)

上杉憲政:大永三年(1523年)~天正七年(1579年)三月十八日

室町幕府の関東管領を務めた山内上杉家の当主。天文十五年(1546年)の河越合戦で北条氏康に大敗、翌十六年には佐久郡志賀城の後詰に派遣した軍勢が小田井原合戦で武田信玄に大敗し、武威を失墜させて国人衆の離反が相次ぐ事態に陥る。永禄元年(1558年)五月、金山城落城により平井城の防衛が絶望的になると、上杉謙信を頼って越後へ逃避する(箕輪軍記P13)。関東古戦録では、天文二十一年(1552年)に越後へ向かったとされる。

参考・引用:新・歴史群像シリーズ⑯上杉謙信P150、口語私訳箕輪軍記P13、関東古戦録上巻P69-70、ウィキペディア


 時は天文十五年(1546年)四月二十日、宵闇の月が山の端に差し登る頃、北条氏康は八千余を四つに分け、一備は遊軍として多米大膳亮に預け、戦いが終わる時まで見物して見守り、備えを乱すなと命じ、三備は戦いに向け、その一備は先陣として突き進み駆け抜ける、その時二備が進み乱れる敵を切り巻いて駆け通り、先備と一つになって三備が懸かるのをみて、引き返して全体で鬨をあげて縦横無尽に敵を切り崩す。夜戦なので深追いせず、敵の首は大将首を除き討ち捨てにせよ、味方の印は白なので、たとえ敵と見受けても白物を着たものは避けて討つな、もし敵を切り倒した時も、味方から引き揚げの法螺が吹かれれば、捨て置きにして引き揚げ一ヶ所に集合せよ、などと軍律を厳しく下知した。また、重い甲冑や鎧をやめ、合言葉を決め、松明を手に持ち、柏原に控えた両上杉陣に子の刻頃鬨の声をあげて攻めかかった。

 上杉方は油断していたので、寝耳に水のように慌てて、刀は槍はと上へ下へと探す所に北条軍が隙間もなく駆け入って刃を振り回した。同士討ちする者、真っ裸で迷う者も多かった。氏康も自身で長刀を取って勇猛果敢に戦い、獅子奮迅の働きによって左右に十四人までなぎ倒した。

 この猛攻によって、上杉方の旗本は蜘蛛の子を散らすように乱れて崩れた。扇谷上杉朝定も討たれ、難波田弾正左衛門は灯明寺口の朽ちた井戸に落ちて死んだ。その他、倉賀野三河守・本庄藤九郎・難波田隼人正・本間近江守・小野因幡守・長野吉業以下の名のある侍三十四人は、大将山内上杉憲政を逃がそうと踏みとどまって奮戦したが、雑兵らに切り伏せられ屍を野にさらす結果となった。その隙に憲政は平井城に向かって落ちのびた。

 この時、河越城内の福島(北条)綱成は敵方の旗・差し物がなびき、裸馬が東・西と逃げ去るのを城の櫓の上から見て、味方が勝ったことを知った。綱成は運を開くのはこの時ばかりと、城門を開いて例の黄八幡の小旗をひるがえして、「勝った。勝った」と叫びながら馬に乗って駆けだした。付き従う三千余騎馬も負けじと全力で喚声をあげながら駆け出し、古河公方足利晴氏の陣所にまっしぐらに討ちかかった。古河勢は、思いも寄らないことに、明け方になってから城中から攻めかけられたので、狼狽のあまり全く支えることもできず、右往左往するばかりであった。城兵は勝ちに乗じて追い立て攻めれば、簗田・一色・結城・相馬・原・菅谷・和知・二階堂などは晴氏を先に逃がしたが、散々に討たれて敗退した。綱成は深追いはせず、速やかに城内へひきあげた。

 今夜の戦いで、古河公方家と上杉家の戦死者は一万三千余りという。


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