つき糸とはがし糸
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
おお、こーらくん、そちらの掃除はもう終わったかな?
師走に入ると、文字通りの大忙しだからね。大掃除を少しでも楽にしようと早めに手をつけたんだが……いやはや、一年たたずにこれほどほこりが溜まるとは。やっぱり、放っておくとあっという間だな。
ん、こーらくん、その髪の毛は? 白髪じゃなさそうだが……ちょい失礼。
どうやら蜘蛛の巣だったようだ。どこかかがんだりしたときに、くっついたのかな? 誰でも一度は、この芸術品を壊したことがあるだろう。
――動物の作るものに、芸術品もなにもないって?
ふふふ、なかなか厳しいことをいうじゃないか、こーらくん。
だがことによると、我々人間の作るものより、彼らの方が込めているかもしれないよ。丹精とか魂とかね。
私自身、そう考えさせる不思議なできごとに、昔、出くわしたことがあってね。
掃除もちょうど区切りよいとこまでいったし、休みがてら、その話を聞いてみないかい?
私の住んでいる地元では、蜘蛛の巣をできる限り壊さないように、という言いつけがされていた。
できる限り、巣が張っていないところを通ること。やむを得ない場合にはその糸、および自分の顔に軽く塩を降りかけてから、必要最低限だけ破るようにと。そのため外出の際、私たちは塩の入った包み紙を持たされる。
私はよく自転車で学区内外を巡ったが、その際にも包みを持たされた。そして運転する際、遊ぶ際にも細心の注意を払うよう、よく注意されたもんだ。
ある年の冬のこと。
夏場と同じように17時くらいまで遊んでいたら、すっかり陽が落ちて暗くなってしまっていた。
自転車のライトを照らし、帰り道で十分気を払っていた私だったが、最後にヘマをしてしまう。自転車をいつもしまっている小屋の引き戸、そこを開けて中へ入ろうとしたとたん、わっと顔全体にねばつく、小さな抵抗があった。
蜘蛛の巣だった。遊びに出る前には確かになかったのに、わずか数時間で作るなんて、にわかには信じられなかったさ。
でも、私は怖さに体を震わせたよ。いままでさんざん注意されてきたことを破ってしまったとき、とてつもない罪悪感に襲われるものだ。
素直に報告して、怒られるのが怖い。そう思った私は、とっさに顔へついた蜘蛛の巣を払い、包み紙の中の塩をひたすら顔に塗りたくった。
破る前にやらなくては意味がないと、これもまた親に注意をされていたこと。それでもやらないよりもましだと、私はありったけの塩を使って顔を清めたんだ。
翌日。登校した私は、ちょっとした異変に気がついた。
クラスメートの頭の上あたりに、虫らしき小さき影がうろついているんだ。この冬場に姿を見せるのも珍しかったが、それ以前に奴らは羽音すら漏らさず、飛び回っているのさ。
人によって、取り巻いている虫の数が違う。二、三匹の子もいれば、すでに蚊柱のごとき密度と高さをもって、頭上に渦を作っている子もいた。けれど誰ひとりとして、自分のまわりにいる虫の姿に気が付いていないようだ。
――どうなっているんだ?
私はそっと席を立ち、最も虫を渦巻かせている子のそばへ寄ってみる。
とたん、虫たちが飛ぶ軌道を変えたかと思うや、いっせいに私の顔へ殺到してきた。
思わず手を出し、声をあげて後ずさり、背後のロッカーにぶつかってしまう私。虫をなくした子だけでなく、周りの人も何事かと私の方を見てきたよ。
顔を触ってみるも、虫がくっついている感覚はない。頭の上に手をやってみるも同じ。そして虫をもともと持っていた子の頭には、まだかろうじて二匹ほどの虫の影が見える。
他のみんなも私を心配してくれるが、やはり虫を視認できている様子はなかった。「なんでもない」と立ち上がって、その場は引き上げたんだけど、一時限目の半ばで。
例の、私の方へ虫が迫ってきた子の父親が、交通事故に遭ったという連絡が入ってきたんだ。ほどなく、学校へやってきた母親に連れられ、その子は早退してしまう。
偶然だと、そのときは思った。けれどもその日のうちに、あの子以外で私に虫を奪われた子が三人、いずれもケガや体調不良で保健室のお世話になるか、学校を後にしてしまったんだ。
さすがにこれはまずい。人知れず不安に駆られ、帰り際の遊びの誘いも断り、まっすぐに家へ帰ろうとする私。
途中、誰ともすれ違わない道を選んだはずだった。やはり道をゆく人々のまわりに、あの飛び回る虫の姿が見えるんだ。私が距離を詰めると、寄ってくる気配があるんだ。そして私に虫を奪われたら、きっとろくなことにならない。そう配慮してのことだったのに。
私の後ろから、自転車に乗ったお兄さんが猛スピードで追い抜いてきた。お兄さんにも虫が何匹もいて、それが余さず私の顔へ飛び移ってきた。快調に飛ばしていたはずのお兄さんだったけど、数百メートル先で、いきなり横転したんだ。
ぴくりとも動かず、すぐそばにいた人たちが近づいていく。騒ぎになるのは目に見えていて、私はその場を逃げ出したんだ。
もう隠してはいられなかった。
私は家へ帰り、親にことの次第を説明する。やはり、すぐ報告しなかったことをひとしきり叱られたあと、私は台所へ連れていかれる。そして母親が、冷蔵庫の上に乗せていたいくつかの箱のうち、ひとつを取ってその蓋を開ける。
中に入っていたのは、蜘蛛の巣だった。箱の底にきれいに張ったそれは、自然にできるものとは思えない。きっと人の手が入っている。
「お前が破ったのは、『つき糸』って奴だ。蜘蛛の中でもごく限られた奴だけが作れるもの。餌となる虫をくっつけるのみならず、文字通り『ツキ』さえも誘い、くっつける。そんな危ういものなんだ」
母親が私にじっとしているようにいい、その顔へ例の蜘蛛の巣を、箱に入れたまま押し当ててくる。
傷をいっぱいこさえた顔面を、塩水に思い切りつけたような激痛が走った。5秒ほどたっぷり味わった後、箱が顔から離される。
中の糸は白から赤へ変わっている。でもそれは私の血ではなかったようだ。顔にはいっさいの湿り気がない。
「『はがし糸』でつき糸をはがした。これであんたのいう虫たち、みんなの『ツキ』も元へ戻ったはずさ。間に合ったならば、ね」
クラスのみんなは、親が事故に遭った子も含め、最悪の事態は免れられたようだった。あの自転車のお兄さんも無事だったらいいんだが。