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「ミ、ミノルさん。大丈夫なんですか?」
「……やってみなくちゃ、分からないな。けど、まあ、慣れている。第三許可証を持っていると、よくこうなるんだ」
第三許可証が持つデメリットだ。血気盛んな魔術師たちが、こぞって勝負を仕掛けてくる。まるで市民が歌姫に駆けつけるかの如く、彼らはある種の信望を向けてくるのだ。
「よし、じゃあ隣の演習場に移動しよう。必要な装備があれば用意するぜ」
「このままで問題ありません」
「服、一張羅じゃねぇよな? 引き裂いても文句言うなよ?」
「そこは手加減して下さい」
ゴーランの案内に従い、三人は一度倉庫を出て、隣の演習場に向かった。外からは分からなかったが、中に入ると既に照明がついていた。広々とした空間を眺めていると、その中心に、一人の女性が立っていることに気づく。
「ミ、ミミミ、ミノル……っ!」
「……最悪だな」
女性の姿を見て、途端にヤコが怯え出す。しかし、ミノルも同じ気分だった。
「人の姿を見るなり、嫌な顔をするのは止めて欲しいわね」
目の前の女性が溜息交じりに言う。
彼女もまた、ゴーランと似たような風格を纏っていた。身体は細く肌も白い。だが、佇まいとでも言うべきか。整った体幹からは、大きな存在感が表れている。揺るぎない自信を灯したその瞳は、幾多の苦難を超えた者のみが許される代物だ。
「初めまして。私はソフィー。そこの男、ゴーランの精霊よ」
「ミノル=フジサキです。こっちは相棒のヤコ」
「ふぅん、ミノルに、ヤコね。……なんだ、思ってたより、覇気ないわね」
「覇気って……」
やはり戦闘狂の相棒は戦闘狂か。平和な日本ではあまり聞かない単語を耳にして、ミノルは苦笑する。覇気なんて、こちらも求めていない。
しかし、ゴーランと比べると、ソフィーの血の気は低い。戦うとは決めたが、何も本気を出すとは決めていない。手加減をしてくれるなら、是非そうして欲しい。ゴーランの存在を無視して、ミノルはソフィーに言葉を発した。
「あの、ソフィーさん。俺たち、はっきり言って、この戦いは乗り気じゃ――」
「悪いけれど、本気で行くから」
ミノルの言葉を遮るように、ソフィーは言った。
「私はね、今日、本当は彼氏とデートする予定だったの。それがどうして、こんなところにいるのか。わかる? ――アンタの呼び出しがあったからよ」
「よ、呼び出しって、俺たちはただ、情報を提供して欲しかっただけで……」
「はっ。笑わせる。あんなものを送っといて……被害者ぶるのは止めなさいよ」
ソフィーの言葉に首を傾げて、それから、漸く気づいた。
――おかしい。どう考えても、何か誤解がある。
だが、そう気づいた頃には遅かった。ソフィーはゴーランの傍に寄り添い、今にも魔術を行使しようとしている。もう、理由を議論している段階ではない。
二人は戦うための準備を終えている。
「……戦いの報酬は、勝っても負けても貰えるんですよね?」
最後の問いをしたミノルに、ゴーランは愉快そうな様子で答える。
「ああ、約束しよう。但し、わざと負けるだなんて下らない真似はしないでくれよ。手を抜くのは自由だが、俺が満足するまで、試合は続けるからな」
「分かりました」
小さく頷き、ミノルは相棒へ目を向けた。
「ヤコ」
「う、うむ。いつでもいけるのじゃ」
怯えながらも差し出される小さな掌。それを掴み、どちらからともなく詠唱を紡いだ。
「『劫火ゆえに影は無く、鋭利ゆえに情は無し。愚かにも滾る華よ、永遠に燃え続けるがいい。我等は刃にして焔。語るに足らぬ――《狐火》なり』」
同時に、ゴーランとソフィーも唱える。
「『戦禍に轟く咆哮よ。靡く弱者に語るなかれ。天へ、頂きへ、万物をも超える強さを我に与えよ。《鬼餓》は戦を糧に応える。くべる死骸は――そら、そこだ』」
ヤコが真紅の炎と化し、一振りの刀と成る。同様に、ソフィーが鉛色の風と化し、何かしらの武器になろうとする。戦いの火蓋が切られた直後――ミノルは、一閃を放った。
「――《狐火》」
風と化したソフィーが確たる姿を見せるよりも先に、ミノルは先制攻撃を仕掛ける。
球状の劫火が放たれた。容赦は一切無い。元より不本意な戦いだ。真面目に立ち会うつもりはない。
だがそれ以前に、直感が訴えていた。
ソフィーが精霊としての力を発したことにより、その実力が垣間見える。魔術師であるミノルと精霊であるヤコは、彼女の能力を鮮明に感じ取ることができた。現に、こうした卑怯な手段を取っても、ヤコは文句一つ言わない。普段なら真っ先に指摘する筈だ。
案の定、放った炎は霧散し、中からは完全無傷のゴーランが現れた。
「せっかちだな。びびってんのか?」
余裕綽々といった様子を見せるゴーランに、ミノルは舌打ちした。
ゴーランの武器を見る。凝った装飾もない、鉛色の無骨な籠手だった。尋常ではない圧力を感じる。表面についた無数の傷は、これまで彼らが歩んできた戦場の数そのものなのだろう。間違いなく、自分たちより場数を踏んでいる。
魔術師の武器として拳は珍しいが、類を見ない程ではない。リーチは近接武器の中でも最も短いため、遠距離からの攻撃が有効な筈だ。だが、遠くからの、ちまちまとした攻撃では、あの男に傷をつけられそうにない。
「間違いないな……」
ソフィーを一目見て、なんとなく察していた。その感覚が正しいと確信する。
怒りを通り越して呆れが沸いてくる。これほどの実力者が、どうして学院の教師など生温い仕事をしているのか。ミノルが嘆息すると同時、ヤコが叫んだ。
『や、やっぱり、A級じゃあああああ!?』
「うるさっ」
『き、聞いてない! 聞いてないのじゃ! こんなの無理ゲーなのじゃ!』
「俺だって聞いてねぇよ。こうなったら、二人仲良く死ぬしかない」
『ああああああああああああ! 死にたくないのじゃあああああああああ!』
刀から聞こえる悲鳴にミノルが顰めっ面をする。
その悲痛の叫びには、流石のゴーランも苦笑した。
「おいおい、まるで俺が悪役みたいじゃねぇか」
「実際悪役じゃないですか……」
寧ろ正真正銘の悪党だ。断れないのをいいことに無意味な勝負を吹っかけてきたり、齢二十にも満たない餓鬼に対しA級精霊の力を存分に発揮したり、この期に及んで善人面が許されるとでも思うのだろうか。目に角を立てるミノル。ゴーランは無視を決め込んだ。
「見たところ、あいつらの属性は風。なら、火属性の俺たちの方が、相性は有利だ」
『相性で覆せる次元じゃあ、無いのじゃぁあああ……』
戦意を喪失してしまったヤコを無視して、ミノルは刀を構える。
魔術には属性の相性がある。炎が水に弱いのは直感的にも理解できるだろう。同様に風は炎に弱かった。どれだけの強風でも、炎はそれを火種に、より強く燃え盛ることができる。ミノルは炎の魔術使い。対し、ゴーランの属性は風で間違いない。相性的には、ミノルが有利なのだが……ヤコの言う通りだ。それでも勝てる気がしない。
「……ちっ、モチベーションを崩されても困るな。……おい、餓鬼、情報は小出しにしてやる。だから、死ぬ気で攻めてこい」
「死ぬ気って……これ試合だろ」
文句を言うミノルを無視して、ゴーランは考える素振りを見せる。吐き出す情報を絞っているのだ。戦いを長引かせるために決まっている。つくづく、腹の立つ男だった。
「奴が盗んだ精霊回路は、二十六個だ。その際、不可思議な道具を使っていた」
「道具……?」
「ああ。続きは、俺の攻撃を凌いだら教えてやる」
その言葉を聞き届けた直後、強烈な風がミノルの前面から吹き荒れた。戦場の風だ。それも惨憺たる地獄の風。血生臭い悪臭と、夥しい怨嗟が聞こえる。
「呆けるなよ、行くぜ」
途端。ゴーランの声が、間近から聞こえてきた。次の瞬間、ミノルの鼻先に、鉄の拳が肉薄する。咄嗟に刀を構えて防ぐも、拳の勢いが強すぎて身体が宙に浮いた。――おかしい。対応が遅れたとは言え回避運動は取っていた。だが、それが間に合っていない。
――風だ。ゴーランの拳から、見えない風がミノルに巻き付いている。右にも左にも力を逸らすことができない。刀に吸い付くような豪腕に、ミノルは呻き声を漏らす。
「ぐ、ぉおおぉおおおッ!」
刀から膨大な炎を発す。爆炎は風に乗り、視界を真っ赤に染めた。
気流が乱れ、ゴーランが形成する風の処刑台に綻びが生じる。すかさずミノルは身体をねじ込んだ。それだけで逃げ切れたとは思わない。相手は格上だ。僅かな隙すらままならない。右方へ弾けるように跳んだミノルは、そのまま更に一発、《狐火》を放った。
「やるな」
あっさりと。燃え盛る火球を甲で弾いて、ゴーランは言った。
「約束の情報だ。……奴の使っていた道具は、精霊回路を用いた魔術兵装だった」
「魔術兵装……精霊じゃあ、なかったんですか?」
「精霊と契約していたかは不明だが、奴が魔術兵装を使っていたことは間違いない。俺の見た限りじゃあ、奴は二種類の力を使い分けていた。その内のひとつは、確実に精霊ではなく、道具によるものだ。お前も精霊と契約した魔術師なら分かるだろう。精霊と魔術兵装くらい見分けられずして、魔術師なんざ名乗れねぇ」
精霊回路を動力として用いた兵器。その中でも、使用に魔力が必要であるものを、魔術兵装と呼んだ。その兵器の力は、精霊と契約した魔術師の魔術と遜色ない。生じた奇跡だけを切り取れば、精霊の力か、魔術兵装の力か、区別もつけられないだろう。
だが、奇跡を起こした道具そのものを視認すれば、ゴーランの言う通り、精霊によるものか魔術兵装によるものかは、簡単に見分けることができる。
息を止め、ミノルは駆けた。袈裟斬りからの斬り返し。閃く刃は、容易く拳に受け流される。素早い攻防が続く中、ミノルは質問する。
「奴の使っていた、二種類の力というのは?」
「一つ目は、物体を異空間へ放り込む力だ。もう一つは……また後で教えてやるよ」
「ちっ、面倒だな」
だがこれで、犯人がどうやって精霊回路を持ち帰ったのかが判明した。
回路の回収方法については疑問に思っていたことだ。協力者の線も疑っていたが、本人に回収の術があるなら、誰かを雇うこともあるまい。単独犯であることが予測できる。
と、なれば。ゴーランが言う魔術兵装のもうひとつの機能は……十中八九、破壊に長けた力だ。一件目の事件現場の、あの惨憺たる光景を生み出した力に間違いない。
「余裕じゃねぇか、ミノル=フジサキ」
再び懐に潜り込んでくるゴーランは、拳を振り抜き様にそのようなことを告げた。
「何処を見て、そう判断したんですか」
「そうやって言い返せるところだよ。……その精霊、B級だな。なのに俺のソフィーと渡り合えるってことは……魔術師本人の実力か。少し見直したぜ」
『当然じゃ! ミノルの腕は、一流じゃからの!』
ミノルが謙遜するよりも先に、ヤコがまるで自分のことのように自慢した。
『さっきまで怯えていた癖に。随分と強気になったわね』
『……ひ、ひえっ、A級に、話しかけられてるのじゃ……ッ!』
『貴方、それ普通に失礼じゃない?』
力の抜けるやり取りが聞こえる。自身に活を入れるように、ミノルは大きく踏み込んだ。
フェイントの入り交じったゴーランの連撃を、的確に回避、そして防御する。籠手と刀が幾度となく衝突し、火花を散らした。刃にのし掛かる拳の重量に顔を歪めながら、ミノルは炎の出力を上げる。飛び散る火花を迸る火炎に変え、目潰しを試みた。
「小細工だ」
通用しない。驚くことに、ゴーランは目を閉じたまま攻撃を続けてきた。ミノルはすぐに他の五感にも対処する。音を潜め、焦げた匂いは分散させた。けれど、間に合わない。
「ヤコ!」
『うむ! ――もっと、強くじゃなっ!』
小細工が潰された以上、力押しで対応するしかない。猛々しい炎が更に勢いを増す。突発的な威力の向上は、これで限界だ。全力の斬撃を、ミノルは放つ。
「しッ!」
「ぬんッ!」
二人の攻撃。二体の精霊がぶつかり合い、大きな金属音が響く。
籠手と衝突しても質量の違いから敗色濃厚であることは見えている。ならばと、ミノルは刃を振り抜きながら身体を捻った。拮抗していた籠手と刀の関係が崩れる。回転を加えられた打撃はミノルの頬を掠めた。ミノルは短く持った刀の刃先を鋭く切り替える。腕が邪魔だ。ゴーランの右腕の付け根を、そのままブツ切りにする勢いで刀を振り抜いた。
「やるじゃねぇか」
すんでのところでゴーランの左拳が刃を阻んだ。
掴まれては拙い。素早く後退するミノルだが、ゴーランは追い打ちを掛けなかった。代わりに、ニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべている。
「いいぞーっ!」
唐突に、大きな声が聞こえた。慌てて振り返ったミノルは、思わず目を見開く。
いつの間にか、周囲にはこの学院の生徒と思しき人たちが多数集まっていた。自分たちを円形に取り囲み、観衆と化している。……全く気づかなかった。
「学院、休みじゃ無いんですか……?」
「休みさ。だからこそ、今この場にいる連中は、とびきりやる気のある教え子たちだ。熱心に、細部まで観られるぞ。さあて、日本代表。恥を掻きたくなければ本気を出しな。日本人は謙虚とは聞くが、まさかマゾってわけじゃあ、ねぇだろ?」
「誰が、日本代表だ……っ!」
刃を振り抜く。当然のように、弾かれ、避けられ、反撃された。
日本人代表。残念ながらそう思われているのも事実だろう。許してもいないのに、彼らは立って歓声を浴びせたり、どっかり腰を下ろして観察に努めていたりしていた。中には律儀にメモを取っている生徒もいる。
「次の情報は……何処まで話したか。ああ、確か。奴が使っていた能力だったな。俺が確認できた力は、物体の収納の他にもう一つ。火の魔術を使っていた」
「……火だと?」
「ああ。そっちの方は出所が見えなかった。だから、精霊の魔術かもしれねぇし、こっちも魔術兵装かもしれねぇ」
思い出すのは一件目の現場。かつてホテルだった廃墟は、盛大に破壊されていた。しかし、炎に焼かれた痕跡はない。あれはもっと、物理的な暴力の跡だった。
今のは、いい情報だ。少し、モチベーションが向上する。
「……ヤコ。同調率、今どのくらいだ」
『七〇%、といったところじゃな』
ゴーランの拳が迫り来る。連打勝負では長引くと判断したのか、その拳は大きく、力強い一撃を意識していた。鉄の砲弾が間近で放たれている気分だ。掠るだけでも危うい。
「八〇に……いや、九〇%に上げるぞ」
『了解――じゃっ!』
四層にもなる炎の壁を形成し、ミノルは勢いよく後方へ飛び退いた。同調を深めるには集中する必要がある。追撃が来ないことを確認し、瞼を閉じた。
意識を切り替える。此処は戦場であると理解した上で、戦いのことを忘却する。イメージするのは一切揺らぐことのない静謐たる水面。その中心に立つ己は、とても小さな灯火である。月明かりのない夜の帳。足下は底なしの闇。それらを照らす一点の火となる。
風は要らない。油も要らない。ただ、己の内側から、より強く、より熱い炎を呼び起こす。自分とヤコ。二人の意志が――波紋が重なった瞬間、それは燃え盛った。
「――ほう。上げたか」
真紅の柳葉刀が大気を灼いた。最早、意識せずとも刀からは炎が溢れ出る。抑えきれない熱量は眩く周囲を照らし、ゴーランは目を細めながらこちらを見据えていた。
同調率。精霊との繋がりの密度を表すそれは、高ければ高いほど、魔術の出力が増していく。繋がりは深ければ深いほど、互いの相乗効果は強化される。ミノルとヤコは今、繋がりを一つ深くした。魔術師の魔力と精霊の力が、より高密度で交わる。
「行くぞ」
足裏に炎を纏わせる。爆発――炎の破砕による勢いで、ミノルは風よりも早くゴーランに接近した。ゴーランは不敵な笑みを浮かべながら、対応してくる。大柄だが小回りの利く肉体を駆使して、僅かに後退しながら拳撃を放ってきた。
「パワーだけじゃなく、スピードもあるのか! ははっ、多芸だな!」
「これでも色々と苦労してるんで!」
放たれた拳に重みはない。その程度の威力なら真正面から撃ち合える。振り抜いた刀の軌道はそのまま、ミノルの袈裟斬りは鉄の籠手と激突した。
吹き荒れる衝撃波は――風と見なされる。ゴーランが再び、ミノルの動きを束縛するための牢獄、風の処刑台を形成した。だが――炎は、風を巻き込んで昇華する。
「ヤコォ!」
『特大のぉ――《狐火》なのじゃあッ!!』
近距離から放つ巨大な火の玉。これは確実に避けられない。ゴーランは分が悪いと判断したのか、片腕で《狐火》を防ぎながら、大きく後退した。
「ちっ、ソフィー!」
『はいはい。――喰らいなさい、《鬼餓》』
ソフィーが告げた途端、ゴーランがもう一方の腕を火球に向ける。直後、ミノルの放った《狐火》は、内側から食い破られるかの如く霧散した。砕けた炎の残骸も、舞い散る火の粉も、全てがゴーランの籠手に吸い込まれていく。
『ご馳走様。まだまだスパイスが足りないわね』
「……当店一の、激辛メニューなんですけど」
『世界を知りなさいな、坊や。キャロライナ・リーパーって知ってる? 世界一辛い唐辛子のことで、ギネスにも登録されてるやつ。あれを食べたらきっと、口から火炎放射器みたいに火が出ると思うんだけれど――』
ソフィーが喋る。その時、引き絞るゴーランの籠手が、赤く発光した。脳が警鐘を鳴らす。何か拙い。嫌な予感がする。無意識に、ミノルは横に回避行動を取った。
『――貴方の辛さじゃあ、このくらいしか出ないわね』
籠手から放たれたのは、先程ミノルが放った《狐火》だった。吸収と放出。一目見るだけで理解できるその魔術は、単純ゆえに隙がない。
迫り来る劫火は、当然、自分たちの制御下から外れている。
直感に従って良かった。このタイミングなら、無事に避けきれる――。
「俺の属性を忘れちゃいないか?」
遠くから聞こえるゴーランの言葉に、ミノルは目を見開いた。炎は風によって勢いを増す。そして――ゴーランは、風属性の使い手だ。
「くうっ!?」
火球が途端に膨れ上がる。ミノルの身体は再び火球の射程範囲へと入った。避けきれない。ならば、相殺するまで。刀を引き、再度《狐火》を放つ。どちらもミノルが放った同じ技だ。だが、ゴーランが返したソレは、ミノルが周囲の風を利用して生み出した、独力以上の威力を持った灼熱。二発目の《狐火》は打ち負け、熱波がミノルを吹き飛ばした。
靴底が演習所の床を滑る。――その先に、拳を振りかぶるゴーランの姿があった。
「さあ、シンプルにやり合おうぜッ!」
冗談じゃない。マトモにやり合って勝てる相手じゃないのだ。しかし――。
『きょ、距離が取れんっ、のじゃ!』
ゴーランの魔術《鬼餓》の効果が、一発一発の拳撃に乗せられている。触れるモノ全てを口腔へ引きずり込もうとするその引力が、迎撃するミノルの刀を離さない。
「日本人! 負けるな!」
無意識の内に現実逃避していたのか。途端に、観客たちの声が聞こえてくる。
「お前、俺たちと同い年くらいだろ! すげぇよ! 天才だ!」
「ていうか、その精霊、B級じゃないのか?」
「あいつ、日本の学生なんだよな? 学生でB級って、契約できんのかよ!」
「ジャイアントキリングだ! B級ならいける!」
「ゴーラン先生が遂に負けるぞ!」
下手したら自分たちよりも熱気を放つ観客たち。ミノルはただ、黙ってそれを聞く。
「……周りはこう言ってるが。どうなんだ、実際。お前は俺に、勝つ気でいるのか」
ゴーランが言った。その言葉に、ミノルは思わず冷静さを失った。
「勝てるわけ、ないだろうが……ッ!」
相手はA級で、こちらはB級だ。加えて、実戦経験もゴーランの方が上だろう。何度もその拳を間近で見れば分かる。最初からこちらに、勝てる要素などない。
「そうかい」
戦意に燃えていたゴーランの瞳に、失望の色が混じる。
直後、放たれる拳撃の威力が増した。
「格下には好戦的な態度を見せるくせに。格上が相手になると、途端にやる気を失ったフリをする。みっともない姿を晒したくないだけの、見栄を張りたいだけの餓鬼。俺は、てめぇらみたいな連中が、殺したいくらい大嫌いだ」
「……俺は、格下が相手でも、格上が相手でも、戦う気なんてない」
「惚けてんじゃねぇ。俺たちを舐めて、先に喧嘩を売ってきたのは、てめぇの方だろ!」
「だから、それは、何のことだッ!」
心当たりのない罪を被せられているようで、ミノルは徐々に怒りを募らせる。
しかし、どれだけ憤怒に燃え上がっても、戦況が好転することはない。
――勝てない。
全力を出した筈だ。それでも傷一つ、つけることができない。防戦一方の応酬は身体に痛みを走らせるだけでなく、心をも蝕んでいった。
――どうやっても、勝てない。
手詰まりで八方塞がり。飛び越えられない壁が迫り来る。それでも負けじと抗っていると――過去の、思い出したくもない、餓鬼だった頃の自分が脳裏を過ぎった。
「くそっ!」
どうして今更、あんなのを思い出すのか。無垢で青臭く、そして、まだ希望を抱いていた頃の自分。あんなもの、とうの昔に決別した筈だ。
――俺は、世■■■の■■師になる!
思い出しそうになるソレを、強引に掻き消した。
たかが三年。されど三年。ソレを捨て去るには、十分過ぎる時が流れた。それでも、偶に胸の奥底から競り上がりそうになる。気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い――往生際が悪すぎる感情。まるで宿痾のように、心に巣食う。
「俺、は……ッ!」
強くなんて、ならなくてもいい。
そんな風に思いながら振るった一撃は、きっと今までで最も弱々しいものだった。
「糞餓鬼! 勝手に負けた気になってんじゃねえぞ!」
負けた気になんか、なっていない。
傷つきながら考える。この男に勝つためには、どうすればいい。
――出力を上げるしかない。
いいや、駄目だ。それでも勝てる気がしない。
ならば、もっと。更に上の段階へ、至るしか――。
――それは駄目だ。
「――っ!?」
不意に、予期せぬ結論が浮かんだ。自分の中から出てきた筈なのに、頭を埋め尽くしたその拒絶感は、ミノルにとって、あまりに想定外のものだった。
何を拒んだのか。何故、拒んだのか。何も分からない。
気がついたら――目の前に、拳が迫っていた。
『――ミノル!』
相棒の呼びかけに、意識が覚醒する。
次の瞬間、ゴーランの拳が刀を通して、ミノルの全身を強く叩いた。
「ご、あ――っ」
ミシリ、と。身体の内側から骨の軋む音が聞こえた。肺に溜め込んだ酸素が強引に口から漏れる。少し遅れて、ミノルは自分の腹に鉄の拳が埋まっていることに気づいた。
呻き声が出る。吹き飛んだ身体は演習場の床を何度か跳ねて、最後は頼りなく横たわった。たった一撃。たった一発の直撃で、ミノルは敗北した。
その手に握っていた刀が発光し、ヤコが元の姿で隣に現れた。ミノルと同じく、全身傷だらけだ。艶やかな砥粉色の髪は乱れ、玉のような汗をかいている。
「ミノルさんっ! ヤコさん!」
セラが慌てた様子で駆け寄って来る。
遅れて、この戦いの勝者であるゴーランも歩み寄って来た。
「ちっ、第三許可証を持つ奴が。その程度かよ」
乱れた衣服をただしながら、ゴーランが言う。既に、鉄の籠手は外していた。やや離れた位置では、青髪の美女ソフィーが腰に手を当て、こちらを見守っている。
「情報については、試合の最中に話したことで全てだ。用は済んだろ。さっさと帰れ」
「…………ご協力、感謝します」
情報がもう無いなら、そこで勝負も終わらせろよ。そんな怒りを抱くも、口に出す余力は残っていない。ミノルはゆっくりと身体を起こす。生徒たちに見られている手前、一応は手加減してくれたのだろうか。痛みはそれほどない。
何か誤解をされているような気もしたが、それを解くよりも先に、本来の目的を果たしてしまった。なら、これ以上、この場にいる理由もない。
周囲の歓声に見送られながら、ミノルたちは学院を去った。
「――なんなんですか、あの人は!」
学院の校門を出た途端、セラが大きな声で怒鳴る。演習場を出た辺りから、何かを堪えているような様子を見せていたが、どうやら怒りを抑え込んでいたらしい。怒りの発散に慣れていないのだろう。セラは顔を真っ赤にして、身体を震わせていた。
「初対面なのに、無茶な要求ばっかりして。あんなのが学院の教師だなんて――私、あの学院に行かなくて良かったです!」
「まあ、そう言うな。向こうには向こうの事情があったんだろ」
「事情ってなんですか!」
「い、いや、知らないけど」
被害者本人よりも怒りを抱いているセラに、ミノルは僅かに動揺した。しかし、すぐに優しく笑む。心優しい少女だ。他人を、自分以上に心配してくれるとは。
「でも、確かにあの男、なんか変な様子だったのじゃ。……妾、たまーに悪戯とかするけど、A級に目をつけられるようなことだけは、絶対にしないのじゃ」
基本的にミノルとヤコは共に行動している。そのミノルに心当たりがないのだから、ヤコにもある筈がない。今となってはどうでも良いことだが、確かにゴーランの敵意は、ただ者ではなかった。昨日は、こうした面倒な事態を避けるためにも、きちんとアポを取ってから、学院に入ったのだ。どこで食い違いが起きたのか、検討もつかない。
「あんな人、どうせすぐに、ミノルさんに追い抜かれますよ」
セラが言う。――その一言を聞いて、ミノルは足を止めかけた。
心臓が一回、激しく揺れた。すぐに落ち着いて、平静を装う。何か、返事をしなくてはいけない。でも普段通りの表情はできそうにない。ミノルは顔を伏せ、口を開く。
「……いや、そんなことは、ないと思うぞ」
「いいえ、あります! だって、ミノルさんは今、私と同じ十五歳ですよ。その歳でB級の精霊と契約しているなんて、少なくとも私は、他に知りません! それに、試合の途中で、ミノルさんの力が増大しているのを感じました。あれは……きっと、同調率を高くしていたんですよね? あれだけの力を精霊から引き出せるのも、凄いことです。ミノルさんなら、将来はA級……いいえ、S級の精霊とも契約できます!」
まるで機関銃のように、セラは言葉を吐き続ける。
あぁ、そうか。結局はまた――同じか。
途端に頭が重たく感じた。思考をするのが面倒くさい。足だけでなく、全身が気怠さに包まれていく。歩く速度を落としたミノルに、セラが首を傾げた。
「セラ、止めるのじゃ」
「で、でも、私、間違ったことを言っているとは――」
「それ以上、言うでない」
ヤコにしては珍しく深刻な声音。自分を気遣ってくれているのだろう。相棒の心優しさには感謝の念を抱くが……それが返って、やるせなさを生むこともある。
「……今のうちに、話しておくのも、いいかもな」
ポツリと、ミノルが呟いた。
零れた言葉を聞いて、ヤコが唇を引き結ぶ。何か言いたそうだが、何も言わないと決めた顔だ。これは、ミノル個人の問題だから、彼女は口を挟もうとしない。
後でアレコレ言われるくらいなら、この場で伝えた方が良い。特に、彼女は自分のファンだというのだから、今後もミノルが罵られたら、今みたいに反論するだろう。
協力者として。的外れなことを豪語するのは、これっきりにしてもらいたい。
足を止めて、ミノルは正面からセラと向き合った。
張り詰めた空気が生まれ、セラが目に見えて狼狽える。だが今ばかりは、笑って誤魔化すことはできない。ミノルはゆっくりと、口を開いた。
「皆、そう言うんだ」
「は?」
「将来は、もっと凄い魔術師になる。A級やS級の精霊とも契約できる。……どいつもこいつも、そんなことを言ってくるが――生憎、それは絶対に有り得えない」
辛うじて言葉を理解しているセラ。ミノルは、最後にはっきりと、告げる。
「俺の精霊回路、もう打ち止めなんだ。だから、俺はこれ以上、魔術師として成長することはない。契約できる精霊も、B級が限界だ」
呆然と、反応に困ったセラを見ると、実に爽やかな気分になった。
理不尽なことを考えている自覚はある。それでも、毎回このやり取りをしていると、思わずにはいられない。
ちょっとくらい、こういう可能性も、考えてくれていいじゃないか。




