5
手頃な宿で一夜を明かした翌日。ミノルたちは、件の学院を訪問した。昼過ぎの明るい陽光を浴びる学院は、昨日と比べて外観が鮮明に見えた。ミノルは知らなかったが、やはりイタリアの魔術学院は観光地としても名所らしい。辺りには観光客が大勢いた。
人垣を潜り抜け、門の前に立つ守衛に声を掛ける。
「すみません。昨日、調査協力を頼んだ者ですが」
「ああ、話は聞いてるよ。どうぞ中へ」
今度は第三許可証を見せる必要もなく、学院の敷地内へと案内される。
門を超えた瞬間、何か薄い、玻璃のようなものを通り抜けた感触があった。思わず立ち止まって、上空を仰ぎ見る。この感触は知っているものだ。
「『言語統一結界』か。そう言えば、そんなものあったな」
その空間内であれば、いかなる言語も適切に翻訳される。要は全ての言語を理解することができ、また全ての人種に言葉を伝えることのできる世界だ。それを構築するのは、学院をすっぽりと覆う結界。よく見れば、空の手前に薄緑の天蓋が張られていた。日本の学院にもあった結界だ。魔術学院は海外の生徒も多いため、この魔術は重宝されている。
「そう言えば今更ですけれど、お二人とも、凄くイタリア語が上手ですよね」
「ん? ああ、それはこれを使ってるんだ」
そう言ってミノルは襟元から、ネックレスを取り出した。
「それは……?」
「言語翻訳機。まあ、要は『言語統一結界』の個人用だ」
「へぇ、そんなのあるんですね」
セラが知らないのも無理はない。なにせこの翻訳機は非常に高価な代物で、まだ一般には普及していない。いわば日本の魔術社会が誇る、技術の結晶のひとつである。当然、ただの魔術師が手に入れられるものではなく、ミノルがかつての威光を駆使して、どうにか手に入れた道具だ。こんなものが普及すれば、通訳の仕事が消えて無くなる。
この道具の動作は感覚で分かる。セラと会話している間、翻訳機は一度も動作していなかった。つまり、彼女が話している言葉は元からミノルの理解できる言語、日本語だ。
「折角結界があるんだから、翻訳機は外しておくか」
「そうじゃな……うむ、ちょっとだけ楽になったのじゃ!」
ミノルに続き、ヤコもまた、和服の襟元からネックレスを取り出した。
首飾りに限らず、装飾品の類いは普段つけないミノルたちにとって、言語翻訳機は窮屈な道具だった。外せるというならば、素直にありがたい。
ふと、懐かしい香りがした。結界が切っ掛けになったのだろうか。目の前の学院は、日本のそれとは外観がまるで違う。けれど校舎が醸し出す厳格かつ開放的な雰囲気や、グラウンドが帯びる日光の熱。そして休暇中とは言え、ちらほらと姿を見せる生徒たち。そうした光景が過去を想起させる。
「懐かしいのじゃ」
「ああ、懐かしいな」
感慨に耽るヤコに、ミノルは同意する。だが、徐々にミノルの顔が、青白く染まった。
「懐かしくて…………吐き気がする」
「えぇっ!? ミ、ミノルさん? 大丈夫ですか!?」
「ごめん、ちょっと待ってくれ。暫くすれば収まるから……おえっ」
膝から崩れ落ち、途端に具合を悪くするミノル。
「まーた発作が始まりおったな……どれ、妾に任せるが良い」
戸惑うセラの傍で、ヤコは手慣れた動作でミノルの近くに寄った。任せろ。そう告げた彼女は小さく溜息を零す。そして、ミノルの耳元でそっと呟いた。
「ミノルは最低最悪の落ちこぼれじゃー」
「ちょ、ちょっと!? ヤコさん!?」
任せろと言ったのは、まさかトドメを刺すことか。追い打ちをするヤコに、セラは焦った。しかし、ヤコは極めて真剣な面持ちで言う。
「今のミノルは、ちょびっと過去のトラウマに囚われておる。……そこから引っ張り出すには、こうやって適当に悪口を言うのが効果的なのじゃ」
「え、ええ、なんですかそれ……」
ドン引きだった。セラが引き攣った表情を浮かべる中、ヤコはミノルを責め続ける。
「ミノルの馬鹿者ー。ミノルの甲斐性なしー。……ほれ、セラも」
「わ、私もやるんですか……え、ええと、その、ミノルさんの、よ、弱虫っ!」
「もっとじゃ」
「は、はい! ええと、ミノルさんの、忘れん坊!」
「もっとじゃ!」
「ミ、ミノルさんの、勿体振り! ミノルさんの、む、むむ、無能っ!」
「もっとなのじゃ!」
「ミノルさんの鈍感! ミノルさんの堅物! ミノルさんの朴念仁! 仏頂面! 唐変木! 変態っ! ミノルさんの――って、ヤコさんも何か言って下さいよ!」
「い、いやぁ、妾はその、セラほどストレス溜まってないし……」
「私だって溜まってませんよ!」
乗せてきた癖に、ヤコはいつの間にか引いていた。心外だと告げるセラ。その喧しい応酬に、ミノルがよろよろと立ち上がる。
「そうだ……俺は、無能で、朴念仁の、変態。決して……天才では、ない……」
ブツブツと呟きながらミノルは顔を上げる。
青白かった顔は、すっかり元通りになっていた。
「……ふぅ。ありがとう、二人とも。助かった」
トラウマから抜け出せたからか。それとも、ある種の快楽に浸れたからか。清々しい表情を浮かべるミノルに、セラは心底、胡乱な目を向ける。
それこそ心外なのだが、話せば長いのでミノルは何も言わない。
「じゃ、行くか」
「だ、大丈夫なんですか?」
「ああ。……まぁ、良くあることだから」
「……それ、大丈夫じゃ、ないような」
大丈夫と言えば嘘になるが、慣れたことではあった。
校舎手前のところで、案内板を確認する。目的地は
「倉庫」と呼ばれる施設。武器庫や宝物庫、道具部屋など、呼称は様々だが、魔術学院の倉庫と言えば基本的に、精霊回路を含む、魔術に縁のある道具を整理するための空間だ。
「ミノルさんって、確か、私と同い年でしたよね? その、日本の魔術学院には、通ってなかったんですか?」
目的地に向かいつつ、セラが質問する。
「通ってたぞ。ただ、中等部二年が終わった後、自主退学したんだ」
「あぁ、だからさっき、懐かしいって……」
初等部、中等部と順調に進学していれば、この時期は丁度、中等部三年が終わった直後の春休みだから、懐かしいなんて言葉は出てこない。事情を聞いて、セラは納得する。
「逆に、セラはどうなんだ」
同い年の魔術師は、どういった進路を考えているのか。日本とイタリアでは、学院に対する考え方も違うのか。純粋な疑問を、ミノルは発す。
「私は初等部の一年から三年までの間だけ、神奈川県の小さな学院に通っていました」
「ぬぅ……妾たちより、セラの方が懐かしかったのじゃ」
「あはは……でも、私の場合はあまりにも昔の話ですので、もう、殆ど覚えていないんです。ですから別に、懐かしいという感覚は、特に……あ、でも私、この春からイギリスの魔術学院に入学する予定なんですっ」
少し弾んだ声で、セラが言った。
「イギリス? イタリアじゃなくてか?」
しかし、ミノルが質問すると、次は少し落ち込んだ素振りを見せる。
「はい。その、イタリアは入学試験に落ちてしまって。……実は、その試験を受けたのがここなんです……」
「え、そうなのか」
なんとも気まずい話題になってしまった。ミノルは口を噤む。
「ここは、魔術の中でも特に神聖術を重視しているようですから、試験にも、神聖術に関する問題が沢山出てきたんです。努力したつもりなんですが、日本育ちの私には、どうしても苦手な分野みたいで……も、勿論、単に実力不足というのも、あるんですが……」
国ごとに異なるマナーがあるように、学院にも異なる長所・短所がある。イタリアの魔術学院は「神聖術」の才能が重視されている。それは簡単に言えば、神を信じることによって成される魔術であり、無宗教が多い日本で育った者にとっては苦手な分野だった。
「その点、イギリスの学院には試験がないので。私でも入ることが出来たんです」
「イギリスの学院には、試験がないのか」
「はい。あちらは規模も大きいですし。来る者拒まず、去る者追わずといった感じです」
「成る程。……転入で試験がないのは珍しいな。アメリカの学院にそういうタイプがあるのは知っていたが、イギリスも同じなのか。正直、もっと硬いイメージがあった」
「イギリスと言ったら、魔術の名門ですもんね。でも、ピンからキリまであるみたいですよ。入学申請も長い間、受け付けていますし。……ミノルさんもどうですか?」
学院が始まるとしたら、来月の話。にも関わらず、イギリスの魔術学院はまだ学生を求めているらしい。冗談混じりに誘ってくるセラに、ミノルは苦笑して応えた。
「遠慮しておく。あまり学院には、いい思い出がない」
先程のトラウマを思い出したのか、セラも何かを察し、それ以上は追求しなかった。
ふと、ミノルはヤコが暗い表情を浮かべていることに気づいた。どうやら誤解されたらしい。確かに、学院にはいい思い出がない。――だが、ヤコと出会ったことだけは、例外だ。あれだけは、今のミノルにとっても誇らしい記憶である。
「お前と会えたのは、いい思い出だぞ」
顔を伏せるヤコの頭を、無言でガシガシと掻く。「ふん、当然じゃ!」と叫ぶ少女の顔は、本来の明るい調子に戻っていた。
「ここか」
本館とは離れた位置にあり、生徒が魔術を実践するための演習場に隣接した建物。案内板の情報が正しければ、ここが今回の目的地だ。
鍵は掛かっていない。鉄製の扉を開き中に入ると、雑多な道具が一斉に姿を現した。精霊回路は勿論のこと。それらを動力として用いた魔術道具や、それを制作するために必要な工具。膨大な量の設計書と、使い道に困った余り物の部品。その乱雑さは、まるで体育会系の部室を覗いたような気分になり、思わず顔を顰めた。
「こ、これは……骨が折れそうですね」
「被害に遭ったのはもう少し奥の区画だ。……おいヤコ、足下に気をつけろよ」
「ミノルは心配性じゃのう……ぬおっ!?」
「ほれみろ」
足下に転がったガラス瓶を踏みつけ、ヤコが激しく転倒する。転がったその小さな身体は部屋の奥にあった扉と衝突した。その勢いで、扉は開く。宙に舞う埃を掻き分け、そして涙目になっているヤコを無視して、ミノルは奥へと進んだ。
「ここは、片づいているんだな」
「みたいですね。……成る程。どうやら手前の区画とは、扱う代物が違うようです」
ミノルに続いてやって来たセラが、近くにあった道具を手に取り言う。見れば、この区画に置いてある道具は、手前の区画と比べて何れも上質なものだった。
「学院が用意するという資料の方は、いつ届くんでしょうか」
「この場に持って来て貰う手筈だ。取り敢えず先に、調べられるところを調べておこう」
全体を見渡し、各々が手分けして調査を開始する。
こう評しては拙いかもしれないが、二件目の現場である個人経営の店と比べて、遙かに品揃えが豊富だった。魔術学院の運営には国民の血税も使われている。国としての力の入りようが違うのだ。きっと、あらゆる国の、あらゆる文化の、あらゆる背景に染まった精霊回路がこの場に集結しているのだろう。
「綺麗に整理されていますね」
セラの呟きに首肯する。この区画の回路は、状態に応じてきっちりと棚が分けられていた。成長状態の回路は入り口から向かって左側に固まり、打ち止め状態は右側にある。
「ひえっ!?」
「ひっ!?」
唐突に、ヤコの悲鳴が聞こえた。それにつられ、セラも似たような声を発す。
「ヤ、ヤコさん? どうかしたんですか?」
「……あのビビり方は、A級だな」
相変わらず情けない声を出す。溜息を零し、ミノルはヤコの元へ向かった。
「ミ、ミノル。これは……」
震えた声でヤコが呼ぶ。その細い指先は、ある一点を指していた。綺麗に並べられた精霊回路たち。その中央に、一際明るく発光するものがあった。
「何か見つかったんですか?」
「ああ。……この回路、A級の精霊と契約していたな」
強靱な回路だ。形状はシンプルで、象牙のように太く、鋭い。ガラス瓶に貼り付けられたラベルには三十年前の西暦が記されている。一昔前に摘出されたにも関わらず、それは桃色の光を絶えることなく発し続けていた。光の輝度、見た目の劣化具合。それらからミノルは、この回路の持ち主を想像する。よほど、優秀な魔術師だったのだろう。
「不自然だな。何故、これだけのお宝が盗まれていない」
「それは警備が優秀だからだ」
疑問を発すミノル。それに答えたのは、第三者だった。声の方へ振り向くミノルは、大柄な男を視認する。ジーンズに白いシャツを着た、チャラチャラとした男だった。
「……警備が優秀なら、そもそも何も盗まれないと思いますが」
「はは、言うじゃねぇか。糞餓鬼」
その口調にミノルが眉を潜める。妙に機嫌が悪い。いや、敵意を向けられている。
何処かこちらを試すような、不愉快な視線を感じ、ミノルは思わず皮肉を語る。男は悪びれもせず、寧ろ愉快そうに返した。
「生憎と、その日は非番だったんだ。それで、来るのが少し遅れた」
「遅れていなければ全て守り切れたと?」
「そう言っている」
「……それは警備が優秀というより、優秀な警備がいるだけですね」
「成る程。確かにそうだな」
褒めているわけではない。男も察しているのだろう。笑みを浮かべるが、こちらへの態度が軟化したわけではなさそうだ。
「貴方が、その警備で?」
「ああ。戦闘魔術の講師、兼学院の警備を務めている、ゴーラン=ザッカスだ」
「日本魔術連盟所属、ミノル=フジサキです」
互いに身分を明かし、それから軽く握手する。掌から伝わるのは力強い感触。戦闘魔術講師というのは、読んで字の如く戦闘に纏わる魔術を教えている講師だろう。筋骨隆々とした体格に、鋭い眦。この男からは戦士の風格を感じる。
耳のピアスや、染めた金髪が許されるのも、その余裕ゆえかもしれない。羽目を外したその容姿を見て、事件の協力者として信用して良いものか、悩ましく思う。
「第三許可証を持っていると聞いたが、事実か?」
不意に、ゴーランが訊いた。
「そうですけど」
「よし、なら俺と一戦交えろ」
そう告げるゴーランの瞳は、見るからに挑発的な意図を込めていた。……意味が分からない。ミノルは眉間に皺を寄せる。
「……資料を用意するとは聞いていましたが、戦闘狂がついてくるとは聞いてませんよ」
「資料兼戦闘狂だ。俺ほどのベテランにもなると、四つくらい掛け持ちできる」
「どれも中途半端だから盗まれたんじゃないですか?」
「耳が痛いねぇ。でかい口叩くだけはあるぜ」
「でかい口……?」
何を言っているのか分からない。
戦意溢れる笑みを浮かべるゴーランに、ミノルは違和感を覚えた。
「第三許可証を持っているなら、俺が相手しても死なねぇだろ。……安心しろ、勝敗には興味ねぇ。だが、俺と勝負しねぇと、協力は無しだ」
頭がイカれている――隠すことなく、ミノルは舌打ちした。
正直な話、この勝負を受けるメリットは一切無い。何せ、自分たちにとって……この事件は、日本を発つための、ただの建前である。
死人の回路が奪われたからといって、その用途には限りがある。動力化か、医療分野への転用か。それ以外だとしたら精々、金の種になるくらいだ。一件目のホテル襲撃が派手だっただけで、政府は最早、この事件を重要視していない。三件目以降は犯人もなりを潜めている。だったら無理して犯人を捕らえなくとも、今後起こるかもしれない四度目の襲撃を、国民に警戒するよう促せばいいだけの話だ。要するにイタリアの警察は、犯人捜しを辞め、こうした事件に対する防止策を国民自らが考えるよう促し、それで一件落着ということにしたのだ。妥協とも言える結論だが、現実問題、国は回路強奪の事件に、既に必要以上のコストを支払っている。成果の出ない案件に、これ以上労力は割けない。
勿論、警察もまだ犯人の捜索は行っているが、それは体裁上のこと。ミノルが犯人を突き止めたら重畳。失敗しても、特に変化はないだろう。
「ミノル、どうするのじゃ?」
どちらかと言えば、戦いを受け入れたがっているヤコが尋ねてくる。元より、彼女は精霊……魔術師としての戦いで、真価を発揮する存在だ。
「……仕方ない。やるか」
「うむっ!」




