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「ミノルさん!」


 自分を呼ぶ声が聞こえたのは、相棒の姿を探し求めて小一時間が過ぎる頃だった。

 振り向くと、落ち葉色のワンピースを着た少女がこちらに駆け寄ろうとしている。生憎と今は愛想笑いも出来ない。ミノルは溜息交じりにセラを迎えた。

 傍に来るなり、セラが周囲をキョロキョロと見渡す。恐らく、自分と同じ人物を探しているのだろう。少しだけ、気持ちが楽になった。


「ヤコさんは、その……まだ」


「ああ。見つからない。……ごめん、セラ。俺はもう一度探してくる」


「ま、待って下さい! そんな走り回っても、この人混みじゃそう見つかりません! 一度、落ち着きましょう。もしかしたら、入れ違いになっているかもしれません」


 ミノルにとっても、ヤコにとっても、ヴェネツィアに来たのは初めてだ。時刻は午後五時。夕暮れに染まる街中は、まだ観光客で賑わっている。この人混みの中で小柄な少女を探し出すのは、かなり難しかった。

 狐耳に和服という珍しい容姿にも関わらず、目撃情報はあまり無い。人を避けて移動しているのだろう。正直、お手上げに近い状況だった。

 気がつけばミノルは全身汗だくだった。そう言えば、ずっと走りっぱなしだった気がする。そしてそれはセラも同じだった。きっと彼女もヤコを探してくれていたのだろう。


「ごめんなさい。兄さんが酷いことを言って」


「……確かに、あれは酷かったかもな」


「ご、ごめんなさい……」


「別に、セラが謝ることじゃないだろ」


 セラの場合、本気で自分の責任だと思い込みそうだ。これ以上下手に拗れても困る。ミノルは克明に指摘したが、それでもセラは暗い表情のままだった。


「……正直、あんな風に言われるのは初めてじゃないんだ」


 昔を思い出して、ミノルは言う。


「俺もヤコも、互いに初めての契約相手だからな。何年も続けていると、言われることもある。でも、なんでだろうな。互いに、契約を切るという発想は浮かばなかったんだ。回路が打ち止めでも、何か他に、強くなれる手段があると信じて、二人で我武者羅に努力して……そうしている内に、俺たちはきっと、これからも一緒に過ごすんだろうなって、思うようになっていた。でも……」


 そう、思い込んでいただけかもしれない。まだ解決していない問題なのに、既に結論は出たと都合良く考えて。そして先程、そんな仮初めの繋がりが剥がれ落ちた。

 あの時、何故、言ってやれなかった。

 お前との契約を破る気はない。――その一言を、どうして口にできなかった。自覚が薄かった証拠だ。自分はヤコとの契約を、心のどこかで軽視していたに違いない。


「ヤコさんのこと、大切にしているんですね」


「……まあな」


「羨ましいです。私は、精霊と契約できたことがありませんから」


 僅かに寂寥感を含んだ笑みを、セラは浮かべた。


「お二人はどこで出会ったんですか?」


「日本の魔術学院。丁度、中等部の入学式の日だな」


「ちゅ、中等部でB級と契約したんですか……流石は神童ですね……」


 驚くセラに、ミノルは苦笑する。気がついたら、唇はまた開いていた。


「ヤコが入っていたのは、入学後の基礎能力検査で使う、心回路検査球という道具だ」


「心回路検査球って……確か、精霊回路の原動力となる要素のひとつ、意志を検査する道具ですよね? 私も、初等部に通う時に、それで検査したような……」


「ああ、それで間違いない。日本の魔術学院なら、入学時に必ず受けると思う」


「学院の備品に入っていたんですか?」


「そうだ。でも、かなり古びていたし、長い間、普通の道具として扱われていたから、俺も含めて殆どの人は、それが憑霊器であることを知らなかったんだ。だから、偶々俺が検査して、中に入っているヤコが出てきた時……学院は、大騒ぎになった」


「なんだか、凄く想像できます。ミノルさんって昔から騒ぎを起こしていたんですね」


「いや、その評価はちょっと、心外だ」


 無垢な笑みと共に告げるセラへ、ミノルは微妙な顔で言う。


「心回路検査球は、使用者の意志の強さを問う。まあ、その意志が何なのかは、俺も良く知らないんだが……要は、その意志の強さとやらを、成績に落とし込むための道具だ。使用者がその球に触れる際に生じる光によって、評価が決まる。光が強ければ優秀、弱ければ劣等だ。俺は他の二つは平均的だったが、意志だけは人一倍強かったらしい。やたら眩しい光を放つと思ったら……次の瞬間、目の前の球から、一体の精霊が現れた」


 ミノルが心回路検査球に触れた時、かつてないほどの真っ赤な輝きが放たれた。

 今でも鮮明に思い出すことができる。あの時、自分はまるで太陽の中心にいるかのようだった。そして、その輝きこそが、ヤコにとっての目覚ましだったのだ。


「まあ、ここからが問題でな。……普通、精霊との契約は対話形式で行われるだろ? ところが、あいつは憑霊器から出てきた途端、そのまますぐに、俺と契約を交わしやがったんだ。後になって、どうして俺と契約したのか質問してみたら……あいつは何て答えたと思う? 『気持ちよく寝ていたら、なんだか急に周りが明るくなって、気になって外に出てみたらミノルがいたのじゃ』だ。あいつ、完全に寝起きの気分で俺を選びやがった」


 不満を口にするかのように。でも、薄らと笑みを浮かべながら、ミノルは話す。


「後悔してるんですか?」


「まさか。ヤコは俺にとって最高の相棒だ。多分、今の腑抜けた俺じゃ、あいつを憑霊器から呼び出すことはできない。でも、だからこそ、あいつには傍にいて欲しいんだ。あいつは、かつて神童と呼ばれていた俺の、最後の忘れ形見みたいなものだから」


 神童と呼ばれることは好きじゃなかった。だが、神童と呼ばれていた頃の自分は、それなりに誇らしく生きていた。ヤコを見ていると、当時の自分を思い出すことができる。今は腑抜けているが、そんな自分がかつて宿していた力を、彼女は思い出させてくれる。

 ミノルにとって、ヤコは自分自身だった。強く、理想を体現した、自信に満ちていた頃の自分だ。彼女が傍にいるだけで、どこからか力が湧いてくる。

 逆境に立ち向かう度、いつも思うのだ。

 コイツと契約した自分が、この程度で終われる筈がない――。


「お二人とも、昔から変わらないんですね」


「そうか?」


「はい。ミノルさんもそうですが、ヤコさんだって。憑霊器の中で寝ていたことも。その後、特に悩むことなくミノルさんと契約したのも。簡単に思い浮かびます」


「らしい、で片付けられてもな……考え無しの馬鹿ってだけだ」


 素直な感想を述べているらしい。少なくとも、こうして少女ひとりが笑ってくれるのだから、あの時の形容しがたい悩みも報われたと言っていいだろう。


「ああ、でも、契約する時……ひとつだけ、訊かれたな」


 より深く、鮮明に、あの時のことを思い出したミノルは、思わず呟いた。

 あまりに脈絡が無く、あまりに馬鹿馬鹿しい会話を、想起する。


 ――なんじゃ、この光は?

 ――これは、そうだな。俺の意志ってやつだ。

 ――意志? よく分からんのじゃ。

 ――俺もよく分からねぇや。夢みたいなものじゃないか?

 ――夢? そうか、夢か。では、お主の夢は何なのじゃ?

 ――それは簡単だ。俺は――。


「何を訊かれたんですか?」


 声を掛けられた瞬間、ミノルは記憶の繭から飛び出した。

 必要以上に思い出に浸っていたらしい。冷静に考えれば、訊かれたことも一つだけではない。ただミノルにとっては、最後の問答だけが、とても鮮明に焼き付いていて――。


「……さぁな。忘れた」


 再び思い出に浸る前に、適当な言葉ではぐらかすことにした。


「えぇ、絶対嘘じゃないですか。ここまで言ったんですから最後まで教えて下さいよ」


「なんのことだかさっぱりだ」


「もぅ。……お二人は本当に、仲がいいんですね」


「どうだろうな。まあ、魔術師と精霊の関係としては、ごく普通じゃないか?」


「いえいえ、お二人のそれは一線を画しています。本当にもう、妬けちゃうくらいです」


「妬けるって……その言い方は誤解されるぞ」


「誤解じゃないかもしれませんよ?」


「え?」


 どこか、熱に浮かされた様子でこちらを見ているセラに、ミノルは思わず見とれた。今の言葉の意味は、どういうことだろう。九割九分、こちらをからかっているだけだとは思っていても、残る一分を信じてしまうのは男の性だった。意識した途端、急にセラが一層魅力的に見えてくる。紅潮した頬、艶やかな唇、潤んだ瞳。声を詰まらせ、言葉に悩んでいると――少女の顔が、息のかかる距離まで近づいてきた。


「ミノルさん」


「は、はい」


「あれ……ヤコさんじゃ、ないですか?」


 耳打ちされた言葉を、頭で何周も回して漸く理解する。

 視線だけ横にずらして、ミノルはセラの指す方を見た。


「あいつ……何やってんだ」


 遠くにある、お洒落な生け垣。その上と横から、見慣れた耳と尻尾がはみ出していた。


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