2−1
人との関わりは幾度となく見てきた。ジェルに人との関わり方を学べ、感情を学べ、と言われてきたが、かと言って私が人と関わってきたことがないと言われればそれは嘘である。幼い頃は両親に愛されて育てられてきたし、今でも買い物をするときに、スーパーの店員とコミュニケーションはする(しかし、あくまでジェルはこれを違うと言う)。
入学してから一年が経つ。私は高校二年生に進級した。学業の成績は常に一位を取ってきた。毎年春に行われる体力テストも一位を取り、体力賞を受賞した。学校では、自分の能力を以って人と競おうものだとするのであれば、私の能力は申し分なかった。ただ、その優越感が私の求める答えではなかった。
一方で、ジェルに教えられた通り、人間関係と感情というものを知る機会があった。学校の男子が私のことに興味を持っているのか、私に好意を伝える人が出始めたのだ。出始めた、というのは、あるキッカケがあったからである。星見台高校には秋季に行われる学園祭、星見祭というものがある。その催し物の中に、どのクラスの女性が美しいかを決めるコンテストが行われた。所謂ミスコンである。クラスの男子からミスコンへの出場を強く希望され、私は出場するに至ったが、そのミスコンで顔を広く知られてしまったが故、このような惨憺な様になってしまったのだ。私は男子からの好意については気にしていない。彼らから受ける目線と表情が、私を私の求める答えに導くほどのものではなかったからだ。どういう理由で私に好意をもったかは知らないが、父が母に抱いた好意と同義であるとしたら、私はその好意を否定しなければならない。私はまず、なぜそういう気持ちになるのかを知らなければならない。一方で、クラスの女子はどうやら男子と私のやり取りを気にするらしい。星見祭以降、気にもしてない私の存在を、嫌悪の眼差しで見始めるようになった。そこから私は、「いじめ」というものを受けた。この「いじめ」こそ、私を満たすものであった。
「何考えてるかわかんない」
「明日から学校こないでくんない?」
聞き慣れた罵倒の言葉である。
高校の名に誇りを持っているわけではないが、このような振る舞いを高校側は求めていないし、星見台の生徒としてふさわしくない、そう思うと彼女らの行動には呆れてくる。また、それと同時に怒りも湧くことがある。なぜしつこく私を虐げるのか、と。私は授業と授業の合間の休憩時間に勉強をするのだが、「いじめ」を行う女子は消しゴムの残りカスを私に投げつけたり、わざと体をぶつけてきたりと、私の時間を妨げる行動をとる。その刹那的な時間に、私が得もしない経験と現象がわき起こるのである。そして次第にその怒りは高揚へと変わる。心の中で踊るのだ。これがジェルの言っていたことなんだ、ジェルに分からないことが私には分かるかもしれないと、興奮が抑えられなくなる。きっと、この興奮は顔に表れているのだろう、と想像すると、それこそが感情なんだ、と答えが導き出せる自分に酔いしれる。
だから私は「いじめ」を欲した。そこから得られる刹那的な何かを求めた。刹那的というように、私はこの快感を常に味わうことができない。快感を得ると同時に、やはり私には必要ないと感じてしまうからだ。この一年間、月見台高校で過ごしてきた成果としてある程度の成績を収めたが、その成績は私の将来のビジョンに何の影響を持ち得ないように、この人間関係と感情も、結局のところ成果物と同義である。
ただし、私はこれまで経験してきたコミュニケーションとは違うものであると、直感的ではあるが肌で感じることはできた。これは確かにジェルの言うとおりだった。だが、それでも私の中で正解を導けなかった。「いじめ」とは何故起きうるものなのかが理解できなかったし、これが人間関係と言うのなら、なぜ私の周りの生徒は「いじめ」を行わないのか。そして、本質的な問いとして、なぜジェルは私に「人の子」として育ってもらいたかったのか。その答えを私は残りの高校生活で探さなければならない。「いじめ」では私は満足できなかった。結局私は一年を棒に振ってしまった。
そうして二年生になった。二年の春。私のことを嫌悪な眼差しで見る女子もいれば、自分の時間を大切にする女子もいる。視線を合わせると目を逸らす男子もいれば、顔を伏せて寝ている男子もいる。ありふれたクラスの情景である。しかし、このクラスの中に一人、私の目を光らせる人を発見した。白いワイシャツの先には紺色のアンダーシャツを着た男、鷹瀬愛斗である。私は彼にしかない、彼だけが持つ表情に注目した。その多種多様な表情は、まるで複数の仮面を持つピエロかのようだった。彼の生き方こそ、私の答えかもしれないと、人としての私の直感が働いた。彼の行動を見るだけで、私の心は若干ではあるが満たされた。彼を見ているだけで、私は人間関係と感情を持つ人になれるような気がした。