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損と得についての妄想と、それの垂れ書き

作者: しらさぎ3号



人は全て「利」で動いていると、僕は思う。

人の頭は思いの外弱く、二択でもってやらねば考えることが難しいらしい。可視化された全てのモノを、それどころか不可視のモノまで、イエスとノーで定義付ける。所謂ところの「全て」を、可否で見ようとする。別にこれを「全て」への冒涜だとも、人の負債だとも、僕は言うつもりはない。それに、これが真理だとも事実だとも言わないが、だからと言ってでっち上げともデマだとも、言うつもりは無い。ただ僅かばかりに疑問に思ったので、少し思考した内容を書き連ねる事にする。




では、まず始めに述べた「利」とは何か。

言葉としての定義は

「利益。もうけ。得。収入から費用を引いた残り」

この一文を見た過半数が、果たしてお金を連想するだろう。実際に少なくとも現代人が数えてきた太陽暦である西暦二〇一六年。この上での生息におけるほぼ全てのモノに対して、基準であり拘束力であり、存在理由となっているモノ。なってしまったモノ。それこそがお金なのである。創造主自身をも拘束し翻弄する獰猛な、しかし冷酷なそれは、言うなれば人そのものであり、自身が生み出した史上最大の病症だ。この病を加速させるもの、それこそが「利」である。




そうすると、この二択の選択肢、では片方に「利」が入るとするならば、もう片方は何か。最早対義語は一つしか見あたらない。「損」である。

言葉としての定義は

「利益を失うこと。益のないこと。不利であること。また、そのさま」

最早、利益やその類いの言葉と組となり初めて、意味をなすような定め方をされている。事実、利益を目指さないなら損も失もへったくれもない訳で、言い得て妙である。正しくそうだろう。お金を用いる以外の具体例が残念ながら発想できないので使用するが、すなわち不等価なのである。例えば五〇〇円した品物が、不良だったり、低品質で一〇〇円の品物で全く代替が可能であったり、自らが出した価値に相当しないような場合に損をしたと感じる。不等価の内でも特に、自分にとって金銭などが不都合となる場合に損と言う。




つまりは、ここまでをまとめると「利」と「損」は則ち自分基準の都合、不都合の物差しであり、言い換えである。モノを買い、売り、経済というとても大きな数字を動かす為の、その中心から末端まで何処かに関わる者全てに共通する価値観な訳である。この「価値観」という言葉すら、利と損との為に生まれたと言っても何ら過言では無いだろう。目に見えるもの、理解できるものに頼りたいという深層心理内で確かにお金はとても、とても重要な物差しになり得ると言える。




では全ての人類は、文明人は、お金の損得で動いているかといえば、やはりそういう訳ではないだろう。

ここで、先ほど持ち上げた「二択」という言葉を思い出してみる。はいかいいえか、右か左か、イチかゼロか。こういう二択が折り重なり複雑化して、初めて思考が完成する。生憎ながら脳科学の分野は専門外なので、雑学程度ではあるが、それをまとめるならば、人は、脳細胞の神経パルスが送られるか送られないか、の二択でもって思考の最小単位となっているらしい。これは西暦二〇一六年時点で存在している、鉱物系コンピュータのプログラミングにおける発想とほぼ同じと言えるだろう。長大なYESとNOの分岐の果てに思考と呼ばれるモノが完成する訳である。しかしながら、両者には並列であるか直列であるかという決定的な違いが存在している訳だから、双方が模倣したところで、双方の模倣止まりとなる訳だが。


ならばその決定的な違いに何が内包されるかと言えば、人には「程度」というものが存在するというところだろう。それもプログラムのように基準がある訳ではない、その瞬間、その場所、その相手によって全く曖昧な、設定した当人ですら時に再定義不可能なものである。この時会ったこの人はこうだったが、あの時会ったあの人はああだったと、全く同じ行為を全く異なる評価にしてしまうことも少なくない、本質を見ないフリをするのだ。これこそ、所謂ところの「好き嫌い」であり、好きであれば本来の目的を欠片でも達成できなくとも良しとしてしまうという、外部からすればまるで不可解な行動に終始する所以である。




この好き嫌いこそ、人の損得の根幹かつ、全ての行動を制御する力だと思うのだ。


具体例を提示してみよう、ここでもやはりお金が絡んできてしまうが。

あるベンチャー企業の社長をする、年収1000万の男が居る。結婚して妻がおり、子供が1人。来年高校生で、この先お金が必要だ。

そんな中、ある事がきっかけで会社の経営が捗らず、とうとうそのまま倒産してしまった。それに伴う取引先の損失補填等で、手元に少なくない借金が発生したのだ。当然家庭にも大きな影響がおよぶ。

そんな中、妻は別れ話を出すどころか、夫を必死に支え、約五年の歳月さえ掛けて立て直しに成功。子供の進学する大学費も余裕を持って払う事ができた。

そして月日は流れ、定年を間もなくとしたある日、その男は唐突に、妻から離婚話を切り出された。自他共に認める程夫婦仲は良好で、老後を過ごすには十分な貯金もあった。

男は悩む。理由が見当たらないので当然だ。しかし妻は着々と別居の準備を進め、果てに諦めた男は離婚を認めてしまった。しかし後悔は残り、そのまま一人淋しい最後を遂げたのだった。

この時、何故妻は離婚を切り出したのか。それは妻が、お金が好きでたまらなかったのだ。定年になれば、残る貯金を崩すだけとなり自らにとって無価値となる。倒産時に離婚をしなかったのは、まだ利用価値があると見込んだためだった。




好きなモノの為であれば、例え他を騙し、損失を被ろうとも行動をする。それがある種人の、一番の恐ろしいところではないかと思う。「好き」を満たすためだけに、数字的な損得を超越した行動をする。時に、その為に自らを滅ぼす事も辞さないのである。他者には狂気的とも言えるこれを、常に全ての人が内包しているのだ。いつ、どこかで顕現化するそれを、もはや自らで制御することは不可能なのだろう。


この好き嫌いが存在し続ける限り、人間という種が滅ぶことは、きっと無い。





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