陽子さんの隔離世界と肉体装置への気づき
陽子さんの隔離世界では、なんでもありということを体験した魂は、
あることに気づいた。
それは、いわゆる肉体というものが、自分の本質ではなく、それが体験装置であるということに。。。
どういうことか?
陽子は、その隔離世界において、いわゆる肉体の常識的限界を超えた体験を魂に提供する。
望まなければ、肉体的な痛みや暑さ寒さなどは、陽子の隔離世界では、まったく存在しなかった。
スプラッタ状態で、それが、とほうもなく気持ちよい、、、という状態も簡単に実現してしまう。
つまり、魂たちは、陽子の隔離世界でいろいろな体験をして遊ぶ中で、今までの肉体とは、なんだったのか?ということが客観的に理解できるようになったのだ。
それは、相当に不自由な体験装置であったのだと。。。
自分で飢えや寒さや暑さや痛みを取り除くことすらできない。
自分の過剰な性欲や自己中心的な願望などの多くも、その肉体の仕組みから発生していたことなどに気がつき始めたのだ。
例えるなら、肉体とは、遊園地のメリーゴーランドやジェットコースターなどの乗り物のようなものだと気がついた。
それは、魂にいろいろな体験を与える、または、強制する装置のようなものであると。
陽子さんは、自分の隔離世界というシステムに最大限の自由を付与し、かつ、危険な場合には、その乱用を認めない、というような管理を自然にしていたので、
では、今までの世界や肉体装置では、どうだったのか、、、ということが、明確にわかるようになったのだ。
なぜ自分たちが、そんな不自由極まりない装置を、後生大事に守ろうとしていたのか、、、すら疑問になりはじめる。。。
肉体というメリーゴーランドは、誰かを喜ばすためにも使えたが、誰かに酷い体験を与えるためにも使える代物であった。
陽子さんの隔離世界でのように、自分の自由になどならない。
一見、自由に手足を動かせているように思うが、思い通りに動かせるわけではない。
相当な努力をしてすら、肉体の限界がある。
空を飛ぶことすらできない。
痛みを消すことすらできない。
飢えや渇きを取り除くことすらできない。
暑さ、寒さを無視することすらできない。
性欲を消すことすらできない。
自分の生命エネルギーを自分で望むようにコントロールすることすらうまくできない。
自分の思考を自分の望むようにコントロールすることも簡単ではない。
自分の気分や感情を自分の理性で望むようにコントロールすることもできない。
理性で、笑おうと思っても顔が引きつって、、、笑えない。。。。
理性で自分の欲望や衝動を消すこともできない。
そうしたことは、陽子の隔離世界では、ありえない ことであった。
そうして魂たちは、理解するのだ。
今までの自分たちが、今までの肉体システムによって、いかに操られていたのかということに。
それなのに、、、、自分たちは、皆、その不自由なシステムを失うまいと必死になっていたのだと。。。
あろうことか、死んだ後に、また、何度でも、そのようなシステムのもとに生まれ変わりたいとすら思っていたのだ。。。
魂たちは、思った、、、
自分たちは、今まで何を させられて いたのだろうか。。。と。。。
何を 願わされて いたのだろうか。。。と。。。
百聞は一見にしかず。。。という。
繰り返される輪廻のおびただしい生存体験は、陽子の隔離世界体験にしかずであった。
陽子は、魂の本当の必要を満たし、、、
今までの肉体システムにおける輪廻の生存体験は、、、魂たちに不要な酷い苦しみをずっと与え続けていたのだと、、、
魂たちは、気がついた。
陽子の隔離世界体験が、あらゆる世界を駆逐してしまうのには、そういう理由があった。
それでいて、陽子に食われ、駆逐された世界のすべてが、陽子の隔離世界に取り込まれ、安全に配慮された体験の選択肢として消化再構成されてしまうのだから、あらゆる世界が、陽子に食われることを望み、自らと自らの世界を食べてもらおうと、駆逐してくれと、乞い願うようになったのも当然といえば、当然であった。
一度知れば、もう、後戻りはできない、陽子さんの隔離世界だ。
陽子さんは、食わず嫌いたちのために、いたずら を続けているようだ。
化身して、嬉々として食われたりするのも、どうもそういうことらしい。
陽子体験は、、、百見聞にしかず、、、である。
ああ、とてつもない。。。