卒業式
その少女と出会ったのは、今から4ヶ月前、桜が舞い散りそうで、舞い散らない、まだ肌寒さが感じれる4月の初旬だった。その日の朝も、入学式だというのにいつも通り、隣の席の三上くんから話しかけられていた。新聞記事ではなく、雑誌に書かれた記事のことで。
「ギリギリセーフ」三上さんは機嫌のいい口笛を鳴らした。
「なにがギリギリなんですか?」興味もなく聞き返すのは、日課のようなもので体に染み付いていた。
「ほらこれ。中学生が同級生をいじめをやって、それが過激になってきて、いじめられた奴、半身不随だってさ」
「それのどこがギリギリセーフなんですか?」
「いじめが、同じ県で起きたんだよ。でも」その後三上くんは、いじめの起きた中学校を口にした。隣の地区だ。「あそこなら教育委員会も別だろ。その隣の中学校だったら、アウト。教育委員会からお叱りで、意味の無い説教を、聞きに行かなきゃならなくなってたんだぜ。定時以外の労働は、俺は嫌だよ。な? ギリギリセーフだろ」
「あ、そうですね」
「何だ、大香山、元気じゃないな」三上くんはついさっきまで、「モテル男のここが違う」と言う記事にぶつぶつ文句を言っていたくせに、私の鬱な心を過敏に察知したみたいに、そんなことを言う。
「そうですか? いつもと変わりませんけど」
三上くんは溜息を吐いた。「まだ引きずってんのか? あの暴力事件だろ」
私も溜息を吐く。
それは卒業式に暴力事件を起こした、男子生徒のことだ。他校の生徒と喧嘩をしたらしい。それは、決定事項のように。きっと、義務感で。そういうことで、他校との争いを行い、自分の名を広める。その行為を私は理解できなかった。
その子はそれ以前にも暴力事件を起こしていて、私が若いということと、教科の担任で微妙な位置にいることで、そのときに指導を行った。
彼は、会ってみると思った以上に聞き分けがよく、素直な子だった。いや、思えた。「俺が悪かった。もう殴ったりはしない」と頬を伝う涙は私の心を打ったし、「好きな女がいるけど、こんなんじゃ嫌われるよな」とうつむきながら頬を赤らめ、指遊びしていたときには、仲を取り持ってあげたいと本当に思った。
だから私は校長に、「3日間の停学処分でいいのでは?」とお願いした。先生達の大方の予想では2週間の停学は避けられないと言われていた、しかし、中学3年生の2月を過ぎた停学2週間という期間は、普通の1ヶ月以上に及ぶのではないか、そう思えた。確かに彼は他校の生徒に殴る蹴るの暴行を加えたけれど、このまま好きな女子と仲良くなれないまま卒業式を迎えることは、彼の人生にとってもマイナスになると思えた。その意見は他の先生方にもわかってもらえた。何よりの決定打は彼が「死んでももう喧嘩はしない」と誓ったことだろう。
それなのに、卒業式が終わった後、その子はまた暴力事件で捕まった。
そういうことはよくある。出雲先生の言葉を用いれば、「教師という職業が普通の仕事よりも多く経験できることは出会いと別れ、それよりも裏切られること」らしい。でも、そのときの私はいつもよりも数倍も悲しかった。悲しすぎて、彼と再び会ったときも「何でなの」と迫ってしまったくらい。きっと、生理とか、そういう女特有の症状のせいで私はそんなことを言ったのだろう。そう思いたい。彼は、「反省なんてするわけねぇよ、俺が悪いわけじゃないし、ただ、課題をたくさん出されるのが嫌だし、卒業前だしさ、それに大香山だし、ちょっと反省したフリでもすれば罪が軽くなるかなっと思って」と舐めた口調で言って、「まだまだだね」と嘲笑した。
というわけで、私は未だに落ち込んでいた。彼は、その暴力事件がきっかけで、高校に進学できなかった理由もあったのだろう。嘘をつかれた、もてあそばれた、というよりよも、ただ自信をなくしていた、と言うより自信なんて私にあったんだろうか。
「仕方ないことだ」三上くんは軽々しく言う。「俺たちは、子供の言い分を聞いて、他の上司に適当に相談して、それを校長に報告して、それで終わりなんだよ。あの学籍簿に載っている子供の数を想像してみろ。ひとりひとりに真摯に向かい合っていたら、教師なんて出来ないぞ」
「そうかもしれませんね」
「俺たちは何千といる生徒達と友人になれるわけが無いんだよ。本当に仲良くなりたいんなら、駄菓子屋でもやった方が早い話しだ」
本当、三上くんはそういう棘のある言い方をする。「適当だよ、て・き・と・う。人のことでそんな真剣になれるかよ」
でも、三上くんは、私が出会った先生の中でも、これほど抜群の人気を誇る先生は見たことがなかった。受け持った生徒が卒業した後も、彼の為に来校する生徒は、数え切れないほどだった。本当に不思議だ。
空気を和ませる雰囲気を持つ出雲先生は、私にいつも言う。「三上先生の天職は教師だろうね。でも、彼を見習っても何もないよ、ダメになるだけ」