迷い
その日の帰り、私は美香の家に寄っていた。美香との生活指導はというと、あっけない幕切れだった。
4時限目が終わり、私が割り箸を割ろうとしたとき、小学生と見間違えるほど幼い少年が私の前に現れ、美香が暴力事件を起こしたわけを話してくれた。どうやら、下校途中に新入生を狙った恐喝が自転車置き場で行われていたらしい。確かにあの場所はよくタバコの吸殻なども落ちていて、教師の目が付きにくい所である。そして彼が脅されているときに、美香が来て華麗に2人の生徒をやっつけてしまったということだ。生徒、いや人道の鏡である。何故彼が今になってその事実を伝えに来たかと言うと、想像すれば簡単なことだ。先生にその事実を伝えることで下手をすれば自分に危害が及ぶだろう、その危険を1度味わうと中々勇気は出ないということだ。
なんであれ、放課後の指導はしなくていいということになり、私は通り道といえないこともない美香の家の方向へ歩いていた。ようするに気がかりなのだ。
認めたくないけれど私は、「母親を殺した父親とそのアリバイ工作をした娘」という三上くんの、恐ろしくでたらめだけど、どこか的を付くその推測を、心のどこかで気にしていた。
美香の家に行く理由として、彼女が暴力事件を起こしたそのいきさつを保護者に報告する、ということが大前提なのだけど、言うまでもなく、私はそんなことがどうでもよくなっていた。今は教師よりも探偵なのかもしれない。
大和家のドアの前まで来て、少し思い悩み、そして決心して呼び鈴を押そうとすると、ドアが開いた。出てきたのは美香の父親だった。「美香の中学の先生だよな」
「は、はい」私が名乗ろうとしたとき、彼の方から口を開いた。
「ちょっとつきあってくれないか?」
「はい?」
美香の父親は、少し自棄気味に酒を飲んだ。フリーターからの誘いだからチェーンの居酒屋と思っていたけれど、当てが外れた。まぁこれはいい意味でだけれど。雑誌でも見たことのある個人経営の焼肉屋に彼は連れて行ってくれた。「匂いが付くけどいいかい」なんて言葉は耳に入らず、私は肉の高さに驚愕していた。「特上ロース・・・3500円」
「この間のあれ、よかったよ」美香の父親は3杯目のビールを飲んでから言った。私はまだ1杯目のジョッキを飲み干していなかった。「あれとはなんですか?」
「ハイロウズのCD」
「ああ」
「昨日はずっと聴いてたよ、ヘッドフォンをつけて音楽聴いたのなんて何年ぶりだろうな」
「フリーターに音楽は不要ですか」
「そうだろうな、けどいいものはいい」まるで他人事のように彼は言った。冗談を言ってるのかどうかわかりづらい顔をしている。もう少しハッキリした表情が出来ないのだろうか。
「どの歌が好きですか」
「最後の曲だなやっぱり」やっぱりその曲か。私は息を飲んだ、もう回りくどいことは無しにして、単刀直入に訊こう、いや少しくらいのと遠道も必要だ。
「美香さんはいい子ですね」
「あぁそうだな、何だかんだいって、あの子はちゃんということを聞いてくれるしな」彼は予想通り、すぐ認めた。「いい子だよ」
「お父さんと三上くんはどういう知り合いなんですか」思い切って私は言ってみた。
「なんだ、聞いてなかったのか」そう言って、6杯目のビールを一気に飲み干す。「あいつは俺にとって弟子みたいなものでな、よく色々面倒かけてくれたよ」そう言って、大きな声で笑った。「そうだったんですか、あの人、大事なことは教えてくれないので」
「そうだよな、あいつはいつも肝心なことを言わない、そこがいいとこでもあり悪いところでもあるんだよ」
そこで思い立ち、「今、奥さんはどこにいるんですか?」と質問をぶつけた。「殺して、あのバーのどこかに隠してるんでしょ」とは言えないので、遠まわしに訊ねた。
「あんたは意地悪だね、聞かなくたってわかるだろ、遠い所さ」私は、その返事を聞いて、鳥肌が止まらなくなり、逃げ出したくなった。しかし彼の眼光の鋭さがそうさせてくれない、酔っているのになんて迫力のある眼なんだろう。恐る恐るたれにつけて食べる肉は旨味などを無視され、私ののどを通っていく。
私は怖くなって、それ以上その話はしないことにした。どうやら三上くんの推理は間違っていないようだ。そして私の目の前では片手にジョッキを持ち、もう片方の手で肉を焼く殺人犯がいる。そう冷静に考えると、一気に酔いが冷めた。せっかくほろ酔い気分でいい気持ちだったのに。
店を出る直前、ふと彼が、私に言った。不意に良いが冷めたかのような、はっきりとした口調だった。「先生は、未来を変えれると思うかい」
「え」
「あなたたちは、3年間子供達と触れ合うことによって、それで、未来が変えられると思うか?」
「いいように、変えれればと思ってます」それは本心だ。「現実はそうじゃないかもしれないですけど」
「そりゃいいな、現実。大事なのは現実なんだよ」酔っ払い特有の舌が溶けた様な喋り方だ。「よく大人だって、『未来が見えればな』とほざく奴がいるじゃないか」
「そうですね」私だって、そうなりたいよ。
「そんなの現実逃避もいいところだ、未来が見えてどうなるんだ、超能力なんてどうするんだよ」
「まぁ、そうですけど」一体これは何の話題なんだろう、と思いながらも私は未来の世界を想像してみた、遠くを見ようとしても見えるのは「ユッケ 680円」の文字だけだ。「でも、自分が超人なんて思える人がいれば、それはそれで幸福なんじゃないですか」
「本当にそう思うのか」
「私は誰でもない、他の誰にも出来ないことを出来るなんて、思って生きていければ、それだけで生きがいになるんじゃないですか」
「アホみたい」彼は目を逸らしてから、「先生は、天才、超人になりたいってのか」
「そこまで思ってないですけど、正直わからないですね。三上くんが言ってたように人は何にでもなれる気だってしますし、何にもなれない気だってします」
「それは俺が三上に言った話なんだけどな」むすっとした顔で彼が言う。偉そうに言ってたくせに三上の野郎、受け売りだったのか。私は3杯目のジョッキを一気に飲み干した。
焼肉屋の代金は割り勘ではなく、おごりだった。フリーターのどこにそんなお金があるんだろう?2人だけなのに3万円は超えていた。ファミレスなら10人前は大丈夫だろう。
焼肉の煙が霧のようになっている店を離れ、大通りへ向かって歩いた。美香の父親は思ったよりも酔っていなくて、呂律は回らないけど、それなりに足取りはしっかりしていた。
「実は先生、話があるんだけど」改装中というビラが貼られた弁当屋の前で細い路地に入ると、彼はそう言った。
何ですか、と返事をしようとしたけれど、そこに背後から足音が聞こえてきて、話は立ち消えになる。それどころではなくなったのだ。
見るからにサラリーマンでとは違うスーツの男達が、私を横に突き飛ばした。あれ、と思ったときに脇にある自販機に腰をぶつけていた。
サングラスをかけた男が2人立っていた。彼らは、「物騒」を体にまとったようにも見えた。美香の父親の肩を軽く叩いてから、睨みつけた。十数年ぶりの同級生との再会出ないことだけは間違いない。
「どこまで逃げるつもりだ」と低い声を発した。「奪って消えるとは、最低な野郎だ」
すると美香の父親は私の耳元でささやいた、「早く逃げろ、そして三上によろしく伝えてくれ」そう言うと彼は、近くに置いてあるゴミ箱を男にぶつけ、ダッシュで大通りに駆けて行った。私も取り残されないようについていったけれど、男の足に追いつけるはずもなく、人ごみに混じって行く彼を見送って、帰路に着いた。
巡る言葉は、「三上とは弟子のような関係」「大和親子は殺人犯」そして「三上くんは何者だろう」
私はパニックを通り越し、急なことに脳が着いてこれなくなったのだろう、急激な睡魔に身を任せた。夢を見る余裕もなく、次の朝を迎えたことは言うまでもない。