知ったかぶり
次の日、思いもしない場所で思いもしない人と出会った。駅前のスーパーで。私は学校帰りに夕食の材料を買いに行き、特に好物でもない「コアラのマーチ」を『おひとり様ひとつ限り』の言葉につられ、買い物カゴに放り込んだすぐあとだった。
「その年でそれはきついですよ」
私はその声に驚き振り返ると、想像通りの人物がいた。そんな凛とした声を出せる人間を私はひとりしか知らない。
「こんなところで会うのは偶然ね、美香さん」
私は教師という仕事が好きだし、それなりに誇りも持っている、けれど、仕事時間以外で学校関係者に会うのは好きではなかった。労働時間外で仕事のことを考えるのは、どちらかというと芸術家に近いと思う。教師はそれとは異なるものだ。いや、生徒を教育するという点は芸術に近いものがあるかもしれない、なんて、都合のいいことを考えてみた。
「ちょっと卵を切らしてしまったので、あとしょうゆと」美香は買い物カゴを胸の位置まで持ち上げた。「あいつ1日1個卵食べないと、気が済まないみたいなんですよ」と白い歯を見せた。
「家の手伝いなんていいことよ」
「世話になりっぱなしはあたしの性に合わないので」
「そうかもね」私は答えながらも、混乱した。今日はこの親子、用事だったはずなんだけど。それは間違いないはずだ、父親の希望で指導日を1日ずらしたのだから。
「時間大丈夫かな? ちょっと聞きたいことがあるからそこの喫茶店に行かない?」
「20分くらいなら大丈夫ですけど」戸惑いながらそう言った彼女を少し強制的に喫茶店に連れ出した。聞きたいことは少しじゃなくて、たくさんあるんだけどね。
私はミルクティーを、美香はアイスコーヒーをそれぞれ注文した。喫茶店は夕方なので、人はまばらで、適度のざわめきを保っていて、話しやすい環境だった。
「いきなりだけど、どうしてこんなところにいるの? 今日は用事だったんじゃなかったの?」
美香は少し驚いた表情であたしの目を見て、少し間を空け、「用事は中止になったんです」
「それどお使いしてるのね、ということは、お父さんは家でいるの?」
「出かけちゃいました」そう言って、アイスコーヒーに手を伸ばす。
「昨日よりも話しやすい感じがするけど、いつもはそうなの?」私は思ったことを口にした。
「そうですか、まぁ昨日はああいう場だったからだと思います。普段はこんな感じですよ」そう言ってストローに口をつける。
「それだけじゃない気がするけど」私がそう言うと、彼女の口へ流れるコーヒーが止まった。どうやら図星のようだ。やっぱり私の予想通り。
「昨日の歌詞カードに挟まっていたやつのお陰でしょ」
「わかってましたか」冷静にうなずく彼女。どうやらビンゴのようだ。私はその内容が知りたくなったので、はったりをかけてみた、普通に聞いても彼女は答えてくれそうにないし。
「勝手に見ちゃってごめんね、でも重要そうだから少ししか見てないよ」
「えぇ、とても重要でした。三上先生はやっぱり切れ者のようです」と少し自慢げに彼女は言った。美香は三上くんの何を知っているのだろう。この2人、いや、三上くんとこの親子の関係性を知りたい。それは単なる好奇心以外の何者でもない。
「でもお陰で手間が省けたよ、まさか向こうからアプローチかけてくるとは思わなかったから」そうだね、と適当に相づちを入れる。
「これで任務完了。こんなことなら喧嘩なんてするんじゃなかったよ」と彼女は溜息をついた。どういうことなんだろ、どうして喧嘩と三上くんが関係するんだ?これ以上わからないことを聞くと頭がパンクしそうになったので、話の方向を無理やり捻じ曲げることにした。
「まぁそのことは、学校で聞くことにするわ、ここじゃあれだしね」
「そうですね、もし聞かれたら危ないですもんね」また彼女は不思議なことを言う。
「ところで先生、シロップの量はもちろん16gですよね」と満面の笑みで言った。
「いくらコアラのマーチを買ってもそこまで甘党じゃないよ」
「鈍いなぁ先生、シロップで思い出せないの?」
「もしかして・・・」
私は、美香の顔をじっと眺めた。
「もしかして駄洒落? シロップ16gとかけて」そういうと、彼女は頬を真っ赤にした。
下らない駄洒落というのは、高校生にとってはむしろ恥ずかしい失態に近いものじゃないの? と言ってみる。彼女は弁解するように、「先生に合わせてみただけです。こういう駄洒落が好きな人だと思ったから。私、相手のレベルに合わせて話すのが得意なんですよ」と苦笑いをした。
「まだ私、23歳だから、そういう感性ないよ」
「え?」
「だから、おばさんじゃないってことよ」
「でも、私より8歳も年上だし」
言い返そうとしたけど、思い留めた。まあいいや、23歳が若いかどうかなんて「スイカは野菜の仲間なんです」というのと同じくらい、生活に支障のないことだ。
「そうだ、先生、私ちゃんと宿題やってるよ」美香はそう言うとカバンからMDプレーヤーを取り出し、ヘッドフォンを私の耳に押し当てる。私が渡したハイロウズのアルバムだろう、曲は知らないけど、声ならわかる。
「持ち歩いてるんだね」何だか少しうれしい気分になった。
「結構いいですね、下らないことを忘れさせてくれます。彼の声は」
確かに、彼ほど弾けて狂った声を出せる歌手はそうはいないだろう。
「こういう音楽は好きなの?」
「あまり聴かないけど、これはなんていうか面白いです。バカっぽくって」
「バカはいいことだよ」私も同意する。バカは時に褒め言葉にもなる。そう言えば高校生のときに付き合っていた彼が、「ごっつええ感じのコントって本当バカだよな」としみじみ言っていたのにも、「尊敬」の意が込められていたのかもしれない。
「これあいつも聴いたよ」
「もしかしてお父さん?」
「三上が貸してくれたものをほっとくわけにいかない、って言って、家に帰ってから2人で聴いたの」
「仲のいいことね」高校生のころの私は、父親を意味もなく嫌っていた覚えがあるので少し驚いた。
「で、あいつ泣いてた」
「あのお父さんが泣くんだ」私はさらに驚く。
美香は、「うん、私も意外に思った。あいつ悲しみの心なんて捨てちゃったような性格してるから、確か、この歌だった気がする」そう言って、美香は14曲目に変えた。最後の曲のようだ。
私はこの歌を知っていた。テレビでも何度か聴いたことのある曲でシングルだった気がする。2人でヘッドフォンを分けて聴く、美香はR、私はLで。
聴き終わると彼女は言った、「どうしてこの歌で泣いたんだろう」そんなことは私にもわからない、人の感情なんてどこから沸いて出るものか見当もつかないし。
「でも、私もこの歌好きだよ」
「私も」そう言って美香はアイスコーヒーを一気に飲み干し、「もうそろそろ時間だね」と言った。そうか、約束は20分間だった。まぁ有意義な時間を過ごせたよ。
すると美香は笑顔で思いがけないことを言った。
「今から、あいつと三上先生に会いにいこうっか?」