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混沌のバベル  作者: じしゃくまん
ケルベロスの樹
6/6

籠目の中に

 それから数日後のことである。

「うーん……アイスはもうちょっと多い方がいいかな?九月って案外暑いし。あーでも予算がなぁ……」

 放課後の教室で、壱矢は窓から部活に励む生徒たちをぼんやりと見下ろしていた。雲が所々に浮かぶ夏空の下、陸上部は柔軟をし、サッカー部は列をなしてぐるぐるとグラウンドを走り、野球部はノックをしている。

「淡路はどう思う?」

 不意に前に座っているクラスメイト、井上杏子に話を振られて、壱矢は視線を彼女に戻した。

「どっちでもいいんじゃね、別に……180個も170個も変わんねぇよ」

 手元の注文書に目を落として投げやりに答えると、杏子は壱矢を睨みつけた。

「変わるわ!ていうか、ちゃんと真面目に考えてる?さっきからやる気ないでしょ」

「かもな」

 高く煩い声に顔をしかめて投げやりに言うと、彼女は消しゴムを投げつけてきた。ぎょっとして放電しかけるのを堪えて、右手でそれをキャッチする。

「…危ねぇな」

 一歩間違えれば、感電の危機だ。が、杏子がそんなことを知る由もなく、立ち上がるとシャーペンを壱矢に突き付けて捲し立ててきた。

「係なんだから真面目にやりなさいよ 。自己責任は社会の常識でしょ!」

「……分かったから座れよ」

 優等生か、と壱矢は密かに溜め息をついた。そして改めて会計などという係を選んだ己を後悔した。

 四月のホームルームで年に一回しか仕事がないと聞いて選んだのだが、とんだ過ちだったらしい。その一回こそが文化祭の会計という、とんでもなく厄介なものなのである。文化祭があるのは九月の中旬だ。まだ七月だというのに、些か張り切り過ぎではないだろうか。

 元々学校自体好きじゃない。壱矢は極力クラスメイトとの関わりを避けてきた。力が漏れないように常に気を張るのは疲れるし、そもそも人と関わることが面倒臭い。

 詰まる所、文化祭も同様だ。だがそれを口に出したら杏子に文句を言われることは明白なので、これ以上は何も言わないでおく。

 杏子は暫くシャーペンを突きつけたまま壱矢を睨んでいたが、何も言わないでいると、椅子に座り直した。そして壱矢の前に一枚の紙切れを突きつけた。

「…淡路は装飾費の計算しといて」

「おう」

 どうやら諦めたらしい。

 壱矢は紙切れを受け取って電卓を使って計算を始めた。一方、杏子は「ドーナツは五十個ぐらいでいっか……いや、六十個?」などとでかい独り言を呟きながら注文書を書いている。それを聞いて、そう言えばうちのクラスは喫茶店をやるんだったな、と思い出す。

 しばらく数字とにらめっこをしていると、不意に杏子が口を開いた。

「ねぇ、淡路」

「あ?」

 顔を上げずに答えると、彼女は何かを言いかけ、口をつぐみ、再び何かを言いたそうに口を開いて閉じた。それから挙げ句、首を振った

「やっぱ何でもない」

「…いいから言えよ」

 言いかけられて止められるのは非常に気分が悪い。というか、気になる。シャーペンを動かす手を止めて顔を上げると、彼女はようやく口を開いた。

「淡路ってさぁ…マジで放電出来るの?」

「……」

 瞬間、聞かなければ良かったと後悔した。答えに詰まる。どう誤魔化すべきか。黙っていると杏子は言い訳をするかのように付け加えた。

「い、いやぁ東中の子が噂してたからさ、あんたのこと」

「……何て?」

「え?ま、まぁいろいろと……?」

 杏子は壱矢からそっと目を反らす。

 東中は壱矢の母校だ。わりと近隣だからここ上野高校にも、そこそこの数の生徒が来ている。恐らく杏子の友達もその一人なのだろう。そして噂は十中八九あの時のことだ。

 黙り混んだ壱矢に、杏子は慌てて笑いながら頭を掻いた。

「ウソウソ……いや嘘じゃないけど。ちょっと気になったから聞いただけ。電池じゃあるまいし、冗談だよね。変なこと聞いたわ。ごめん、忘れて」

「……あぁ」

 これ以上、口を開いたら逆にボロがでそうだ。壱矢は沈黙に徹することにした。杏子もそれ以上突っ込んでくることはなく、他愛ない会話が流れただけだった。壱矢は密かに胸を撫で下ろした。


 一刻ほどの後、下校終了を報せる曲が流れ出した。ドヴォルザークの交響曲第九番「新世界から」の「遠き山に日は落ちて」だ。聞いていると無性に悲しくなってくる。

「げ、もうこんな時間?」

 杏子は黒板の上の時計を見てハッとする。それからいそいそと携帯を取り出すと

「ヤバい、部活に連絡してない」

 慌ててメールを打ち始めた。机の上を片つけながら、壱矢はそれを横目に言った。

「部活やってんのか」

「そ、ハンドボール部。これでもキャプテンなんだから。まぁうちは毎回予選敗退の弱小チームだけどね」

 彼女は素早くメールを打って、携帯の電源を切る。それから壱矢を見上げた。

「淡路は青空クラブだっけ?」

「はぁ?青空?俺何もやってないけど」

「帰宅部のことよ。青空見上げて下校すんでしょ」

「…あぁなるほど」

 中々のネーミングセンスだ。感心していると、杏子は自分の頭に手を当てて壱矢と背を比べ出した。

「あんたでかいねぇ。帰宅部なんて勿体無い。うちの部入れば?」

「…今更だろ」

 鼻を鳴らすと、彼女は肩を竦めた。

「男子五人しかいないから大歓迎で迎えてくれるよ。あんた運動神経良さそうだし」

 と、不意に携帯のバイブ音が鳴り出す。どうやら杏子の方らしい。杏子は電源を入れ、途端にぎょっと目を見開いた。素早く筆箱の中にシャーペンを詰め込みだす。

「やば、無断欠席だって友ちんが怒ってる!ちょっと部活に顔だして来るわ」

 そう言って、間抜けな顔のキャラクターが舌をだしているリュックさっと背負うと「じゃあね!」と風のように教室を飛び出していった。





 家から高校までは、乗り換えなしで電車で約十分。頑張れば自転車で通えない距離ではないが、この辺りは坂が多いので、壱矢は電車通学を選んでた。

 杏子を見送った後、学校を出て電車に乗り、地元の駅で降りると、向こうから見覚えのある人影が歩いてきた。何やら大量の荷物を持っている。

「あ、いっちー」

 彼女は壱矢を見ると声をかけてきた。

「薫子さん」

 壱矢は足を止めて、彼女の持つ荷物を見下ろした。買い物帰りらしく、レジ袋とエコバッグが片手に二つずつ。ネギやら大根やら飛び出している。

「…持ちましょうか?」

 声をかけると、彼女は笑って首を振った。

「平気、へーき。パン屋はあれで肉体労働だからね。あたしはこう見えても力持ちなのです」

 そう言って、両手でビニール袋をひょいと持ち上げてみせる。どうやら見かけによらず、彼女は力があるらしい。

 が、その時悲劇が起こった。ただでさえパンパンなレジ袋が、持ち上げた衝撃でピリっと破れ、みるみるそれが広がっていく。

「あ」

 そして待っていましたと言わんばかりに、圧迫から解放された中の品々が道路に巻き散った。



「ごめんね、いっちー……」

 住宅街の坂道を下りながら、薫子はどんよりとしたオーラを漂わせて、壱矢に謝罪を述べた。

「大丈夫っすよ、別に」

 壱矢は張りつめたレジ袋を右に二つ、左に一つ持ちながら言った。

「もうだめだ、あたし……情けなすぎる……」

 薫子は両手に抱えた果物類を見下ろして溜め息をつく。彼女の腕に抱えられた物々は全て破れた袋から飛び出したものである。

「今日セールやってたからさー……つい沢山買っちゃって……」

 郵便ポストの角を曲がりながら、彼女は落ちかけていた林檎を抱え直す。が、すると他のものが落ちそうになり、いたちごっこだ。薫子は諦めてショルダーバックの中にそれを突っ込んだ。

 それから壱矢のブレザーを見て尋ねた。

「いっちーは学校帰り?制服懐かしいなー」

「あーはい……文化祭の打ち合わせで」

 答えると、薫子は顔を輝かせた。

「ますます懐かしー。あたしも高校ん時、お化け屋敷やったんだけどさ、思った以上に凝っちゃって子供には泣かれるわ、道は破壊されるわ散々だったよ。いっちーは何やるの?」

「多分、喫茶店的なものを……」

「へぇ、見に行こっかなー。紬さんでも誘って」

「やめて下さいよ…」

 にやにやと笑う薫子に顔をしかめると、彼女は「えー」と口を尖らせた。

「あ、そこ右ね」

 顎で布団屋の曲がり角を示す。すると、同じようなアパートが建ち並ぶ集合住宅街に入った。すると薫子は不意に足を止めて壱矢の名を呼んだ。

「あ、あのさ、いっちー」

「何すか?」

 壱矢も少し遅れて足を止め、振り替えって薫子を見る。彼女は躊躇いがちに口を開いた。

「この辺まででいいや。ありがと。あとはあたしが運ぶ」

「え…いいっすよ。ここまで来たら運びます。もう少しなんでしょう?」

 だいたい薫子の手は破けた袋に入っていた物で一杯だ。どうやって運ぶというのだろう。それを指摘すると、彼女はうっと呻いた。それから諦めて深々と溜め息をついた。

「…じゃあ、びっくりしないでね」

「?」

 首を傾げる壱矢に、彼女は気まずそうに片頬を膨らませる。

「あたしん家、超ボロいから」



「確かに天気ボロいですね……何か、こう年季っつーか」

 マンションの隙間を通り抜けて、更に奥へ行ったところにそれはあった。二階建て昭和風の木造アパート。黄昏時の今、夕陽に照らされて何処と無く不気味だ。

「だから言ったでしょ」

 薫子はスタスタと脇についた外階段を昇っていく。壱矢が彼女に続いて階段に足をかけると、ギシッと嫌な音がした。壱矢の体重と買い物袋の大根やら牛乳やらの重みで、すっぽぬけたりしないだろうか。内心ヒヤヒヤしながら二階に上がると、彼女は奥から二番目のドアの前で立ち止まり鍵を開けていた。どうやらここが薫子の自宅らしい。

「お邪魔します…」

 靴を脱いで揃え宅に上がる。短い廊下を通って部屋に入ると、おんぼろな外装に反して、室内は古いものの小綺麗だった。家主の性格がよく現れている。

「ふぅ、重かったー」

 薫子はリビング兼ダイニングのちゃぶ台の上に抱えていた品々を下ろし、凝り固まった腕を解した。

「いっちーありがと。助かったよ」

 それから壱矢の荷物を受け取り、手際よく冷蔵庫にいれ始める。

「じゃあ、俺はこれで……」

 壱矢が玄関に向かおうとすると、薫子慌ててそれを引き留めた。

「あ、良かったら晩御飯でも食べてかない?」

「いんですか?」

 時計を見ると既に針は七時に近づいていた。日が長くなってきたから気付かなかったが、案外時間がたっていたらしい。確かに小腹は空いてきたが、ただでさえ多忙そうな薫子に御馳走になるのは申し訳ない気もする。が、薫子は遠慮しない、と首を横に振った。

「いいよ、いいよー。大したもの作れないけど、お礼にね。あたし料理だけは得意だからさ」

「じゃあお言葉に甘えて…」

 壱矢が首を縦に振ると、彼女はにっこりと笑って、チェックのエプロンを着始めた。

「ふっふーん、じゃ、張り切っちゃお。何もなくて悪いけど、ちょっとリビングで待ってて。テレビ見てていいよ」

 薫子は鼻唄を歌いながら、台所に入っていく。

 壱矢は言われた通り、リビングに行き腰を下ろした。小型の液晶テレビ(流石にブラウン管テレビではなかった)はあったが、何となく見るのはやめておいた。

 代わりに部屋を見渡して観察する。

 テレビの置かれている台の上には、隅に写真が置かれていた。シンプルな紅色のフレームに入れられた家族写真。両親と三人の子供。そして子供のうち一番大きい少女は、今より七、八歳若い薫子と思われた。どこにでもいそうな穏やかな普通の家族だ。羨望と嫉妬の混じった複雑な思いと共に、ふと疑問が浮かんできた。そう言えば薫子は独り暮らしなのだろうか。この家に他に人の気配はない。気にはなったが、余計な詮索は止めておいた。

 テレビの他にはちゃぶ台と棚と、家具は必要最低限しかない。やはり貧乏というのは本当らしい。だが、駅前と違い周りに何もないお陰で窓から見える夕陽は綺麗だった。

 そして窓の反対側の棚の上には、謎の緑の球体が五つ入った水槽が置かれていた。一番小さい玉で五センチ強、大きいので十センチほど。右から左へ段々巨大化していっている。何処と無くシュールだ。

「まりも……?」

 それをしげしげと見て呟くと、台所から薫子の声が聞こえてきた。

「そ、可愛いでしょ」

 髪を束ねながら、彼女は壱矢の隣に立つ。

「可愛い……ですかね……」

 正直、可愛いというより奇妙だ。眉を寄せた壱矢に、薫子は頬を膨らませた。

「可愛いよー。右からリモマ、マモリ、モリマ、モマリ、リマモ」

「は?何て?」

 ドラクエの呪文のような早口言葉。思わず壱矢が聞き返すと、薫子は得意気に胸を張った。

「右からリモマ、マモリ、モリマ、リマモ、モマリ。目指せ一尺」

「…怖いっすよ、そんなデカイまりも」

 一尺と言ったら、三十センチ、かぐや姫約三人分だ。

「リマモは五年以上育ててるんだから。きちんと毎週水も変えてます」

「へー…」

 どうやらペットノようなものらしい。壱矢が謎の緑の生命体を見ていると、がちゃりと玄関の開く音がした。続いて「ただいまー」という声が聞こえてくる。声変わり仕立ての、少年の声。

「弟。颯真っていうの」

 彼女は壱矢に片目を瞑ってみせると「おかえりー」と玄関に声をかけた。

「姉ちゃん、誰かいんの?」

 足音と共に声が近付いてくる。程なくして、エナメルを掛けた学ラン姿の少年が姿を現した。いかにも部活帰りといった風体だ。薫子にどことなく目元が似ていて、一目で血縁だと分かる。

「か、彼氏!?」

 彼は壱矢の姿を見ると、目を丸くした。

「姉ちゃん、この間クレープ屋の店長にふられたばっかなのに……。あんなに店通ってクレープ太りしたのに、もう新しい奴…」

「それはもう話題にしないでって言ったでしょ!……だいたい、いっちーは彼氏じゃアリマセン。バイト先のお友達です」

 薫子は慌てて弟の口を塞ぐ。それから壱矢をちらりと見るて、エヘンと咳払いをした。

「オキニメセズニ」

「いや、まぁ……旨いっすよね、クレープ」

 壱矢は思わず苦笑いして、適当に相槌を打っておいた。薫子は「そ、そうよねー」などと強張った声で同意したが、気まずくなったのかさっさと台所に戻っていった。

「いっちーって……」

 彼女を見送り、颯真は壱矢をはっと見た。何かに思いあたったような顔をしている。

「じゃあ、あなたが壱矢さんですか?電撃使い(ヴォルトキネシス)だっていう…」

「まぁ…そうだけど」

 壱矢が頷くと、彼は勢いよくぺこりと頭を下げた。

「初めまして!俺、颯真っていいます。姉ちゃんが異能者バベルだって言ってたし会ってみたくて」

 そう言えば、前に薫子が弟は異能者バベルだと言っていた。ということは、彼がそうなのだろうか。

 そんなことをぼんやり考えていて、壱矢はふと彼のエナメルに目を止めた。

「…これっすか?」

目線を辿って、颯真は不思議そうにエナメルを指す。彼の声に壱矢は現実に引き戻された。

「あぁ…いや、バレーやってんだなって」

 颯真の肩にかけられたエナメルバックには琲球部の文字がかかれていた。

「懐かしいなって思ってよ」

「え!やってたんですか?」

 壱矢が言った途端、彼は顔を輝かせた。

「…まぁ一応」

 若干それに気圧されながら答えると、彼はますます興味津々といった風に詰め寄ってきた。

「ポジション!ポジションどこやってたんですか?背高いし、やっぱMFミッドフィルダー?」

「いや……WSウィングスパイカー

「あ、俺と一緒です!…まぁチームにデカいエースいるから、俺は半分レシーバーみたいなもんなんすけど。俺も身長とパワー欲しいなぁ」

 颯真は壱矢を見上げて、口を尖らせる。その姿が薫子にそっくりで、壱矢は思わず噴き出してしまった。

すると颯真は馬鹿にされたと思ったのか、憤った。

「笑わないで下さいよ!俺にとっては深刻なんすから!毎日牛乳飲んでるし、豆腐だって絹じゃなくて木綿にしてんのに」

「別に笑ってねぇよ。つーか、木綿?」

「姉ちゃんが絹豆腐より木綿豆腐の方がマグネシウムとカルシウムが沢山含まれてるって」

「へぇ…」

 流石は調理学校生。初耳だ。が、颯真は豆腐の栄養云々にはさほど興味がないらしい。彼は断然バレーボールに食いついてきた。

「壱矢さん、今度バレーボール教えた下さいよ!俺、レフトからのクロス全然打てなくって。あと無回転フローターサーブって打てますか?」

「俺も無回転フローターはあんま得意じゃねぇけど……つーか、俺今やってるわけじゃねぇし。お前の方が普通に上手いだろ、現役なんだから」

 それに、と壱矢は付け足した。

「壱矢でいーよ。敬語もいらねぇ」

 壱矢さん、など呼ばれ慣れてなくてぞっとする。が、颯真は首を横に振った。

「駄目です。姉ちゃんが目上の人とか先輩には礼儀正しく、って」

「別に目上でも先輩でもねーよ」

「年上じゃないですか」

「たった二、三年だろ。変わんねぇよ」

 しかし、颯真は食い下がった。どうやら拘りがあるらしい。中学の部活でよくある上下関係がしっかり染み付いているのだろうか。

 そうして半刻ほどして、良い匂いが漂い初め腹の虫が鳴り出す頃、薫子が盆を両手に台所から顔を出した。

「ほーい、お待たせ」

 布巾でテーブルを拭き、手際よく皿を並べていく。どうやら今晩はカレーらしい。雫型の皿から湯気が立ち上っている。

「颯真、あんた手洗ったの?」

 薫子は色鮮やかなサラダを中心に置きながら、弟に声をかける。それから放りっぱなしのエナメルをちらりと見遣った。

「あ、まだ……」

「いつも言ってるでしょ。ちゃんと手洗わないと駄目だって。バックもちゃんと部屋に。狭いんだからこまめに片付けないと足の踏み場が無くなっちまうの」

 薫子に言われて、颯真はエナメルを手に奥の部屋へと向かっていく。

「…母親っすね」

 その姿を見て壱矢が感想を洩らすと、薫子は苦笑した。

「まぁね。……うち、両親とは別居中でね。あたしが代わりみたいなもんだから。しっかりしなくっちゃ

 グッと拳を握って、薫子は宣言する。

 直に颯真が戻ってくると、彼女は「じゃ、食べよっか」と手を合わせた。

「…いただきます」

 壱矢もスプーンを手に、カレーを食べ初める。辛口寄りの家のカレーとは味が全く違う。まろやかで、コクもあって美味しい。

「旨い…」

 感想を漏らすと、薫子は「良かったー」と安堵の溜息をついた。

「ほんとだ、今回は当たり」

 一口食べた颯真も、ほっと胸を撫で下ろす。

「外れもあんの?」

 含みのある言い方に壱矢が首を傾げると、颯真はここぞとばかりに訴えた。

「うち毎週一回はカレーなんです。で、毎回隠し味が違うんだけどさ。たまに変なもの入ってるんですよ」

「変なもん?」

 カレーの隠し味と言えば、林檎やにんにくぐらいしか思い浮かばない。他に何かあるのだろうか。

「そーです!ヨーグルトとか蜂蜜とか林檎ならいんですけど、そっから始まってにんにくやらカルピスやら梅干しやらソースやら。先週なんて漢方薬ですよ!完全に食への冒涜ですよね」

「だって合うって書いてあったんだもん」

 薫子は罰が悪そうに口を尖らせる。どうやら漢方薬カレーは今一つだったらしい。まぁ確かに薬の入ったカレーなどあまり美味しそうには思えないが。

 薫子はじゃがいもを飲み込んでから弁明した。

「カレーは作り置き出来るから、良く作るの。でも毎回同じ味だと飽きちゃうかなーという薫子様からの配慮です」

「信じちゃ駄目ですよ、壱矢さん。絶対姉ちゃん楽しんでますもん。いっつも俺に毒味させるし。一番の被害者はこの俺です」

 颯真は壱矢に囁く。姉弟仲がいいようだ。

「で……今回のは何なんですか?」

 壱矢がカレーをもぐもぐやりながら尋ねると、薫子はふふん、得意気に笑った。

「バニラアイスよ。カレー自体は中辛だから、バニラの甘味で中和してるのです」

「え、アイス入ってんの!?これ」

 颯真がぎょっと、スプーンを動かす手を止める。すると薫子は少しムッとした顔をした。

「さっきまで普通に食べてたじゃない。風評被害よ、ふーひょーひがい」

「それ、ちょっと違う」

 颯真はまぁいいか、とカレーを食べ始める。バニラが入っていようと、当たりだと判断したのだろう。甘口好みの壱矢も同意見である。

 そうして、夕食を終えると颯真は洗い物をしに席を立った。どうやら洗い物は彼の担当らしい。台所から水を流す音が聞こえてくる。

「いっちーバレーボールやってたんだね」

 お茶を飲んでいると、向かいに座っていた薫子が不意に口を開いた。

「颯真にたまにでいいから教えてやってよ。あの子、部活凄い一生懸命でさ。今中三だからもうすぐ引退なんだけど、高校行ってもやるって張り切ってんだ」

「俺、現役じゃないし……」

 言い淀む壱矢に薫子は笑って手を振る。

「別に気にしなくていいってー。あたしなんて中学三年間、吹奏楽部だったからね。運動はからっきし」

 薫子は小学生の頃からクラリネットをやっていたらしい。唯一の運動歴はプールのみだと言う。それも三年でやっとクロールだけー、と彼女はおどけて笑った。それからふと真顔に戻ると、台所の方に目を向けて言った。

「あの子は異能者バベルだから。それも家族中でも唯一。境遇的にも……ちょっと、色々あってね」

 そして壱矢に目線を移すと、どこか寂し気な笑みを浮かべた。

「いっちーなら分かってくれるんじゃないかなって、思ってさ」





 夜十時。

 壱矢は薫子の家を出て、暗い夜道を帰路についていた。夏独特の、生暖かい夜風が肌に纏わりついてきて小煩い。

 駅前の大通りを渡り、しばらく歩いてから公園を横切る。大通りを迂回しても家には着くが、こちらの方が近いのだ。人気がなく少し物騒ではあるが、まさか自分が痴漢に遭うとは思えないし、人混みは好きじゃない。故に壱矢は、この道をよく通っていた。

 いつも通り飛び出し防止のガードレールを抜けて、公園内に入る。すると、どこからか小さな歌声が聞こえてきた。公園へ入るにつれて、その声は少しずつ大きくなっていく。

 やがて歌詞が、はっきりと聞き取れるようになった。


かーごめ~♪かーごめ~♪

かーごのなーかのとーりは~♪

いーついーつでーやる~♪

 

 日本人なら誰でも知っている童歌。澄んだ子供の声が、歌詞を紡ぐ。悲し気なのに、どことなく不吉な調子。声の主の姿は見えない。眉を寄せて辺りを見回している間にも童歌は続。

よーあーけーのーばーんに~♪

つーるとかーめとすーべった~♪


 月が支配する夜の公園に怪しく木霊する子供の声。 が、依然として人影はおろか、人の気配さえない。正直、気味が悪い。壱矢は心なし歩調を速めた。


うしろのしょうめん……


 不気味な静寂が訪れる。瞬間、ぞっと背筋に悪寒が走った。


だぁれ?


 凍てつくような一瞬。

 壱矢は咄嗟に上半身を捻った。途端、辺りに電撃が走る。

「……!」

 振り向いて壱矢は思わず息を飲んだ。

「お前……」

 すぐ真後ろに狐面の子供が立っている。そう、声の主は壱矢の弟だと名乗ったクロムという少年だった。

「フフ……今晩はお兄ちゃん」

 彼は仮面越しに壱矢に笑いかけた。

「良い夜だね。月が綺麗だ」

 言われて壱矢は空を見上げた。なるほど、今宵は綺麗な満月だ。

「こんなとこで何してんだよ?」

 壱矢は警戒しながら、尋ねた。子供とはいえど、恐らく彼は異能者バベルのテロ組織「パラドクス」の一員だ。

「遊びに来たんだよ。僕だって子供だもん」

 こんな夜中に、か?明らかに胡散臭い。

「……ブランコならあっちにあるぞ」

 壱矢は公園の隅にあるブランコを顎で示した。するとクロムは壱矢の手首をがしっと掴んできた。

「お、おい放せ」

 振りほどこうとしたが、小柄な体躯に似合わず力が強い。彼は無言で壱矢の手を引いてブランコの元へ歩みよると、ブランコに座った。

「押して、お兄ちゃん」

 そして壱矢を見てねだる。

「はぁ?自分でこげや」

 今度は一体何の真似だ。壱矢は暫く眉を寄せていたが、クロムは依然と座っている。 諦める気はないようだ。

「…ったく、しょーがねぇな」

 よく分からないが、相手は十近く年下の子供だ。ここは年長として折れるべきなのかもしれない。壱矢は苦々しく思いながらも、ブランコを揺らし始めた。子供遊んだことなどないから今一加減が分からない。

 だが、ブランコが快調に動き出すと、クロムは年相応にはしゃぎ出した。

「ひゃほー景色がはやーい!」

「そりゃあ良かったな」

 ブランコなど何が楽しいのだろう。まぁかくいう壱矢も子供の頃はよく乗っていたのだが。コツを教えると、クロムは直ぐにブランコを乗りこなした。

「立ち漕ぎしてみろよ。そっちの方がスリルあんぜ」

 壱矢も少し気分が乗ってきて、そう声をかけてみる。

「立ち漕ぎ?」

「その上で立つんだよ。で、膝伸ばして曲げて」

 クロムは中々器用というか、運動神経が良いらしい。立ち漕ぎもあっさり乗りこなした。一頻りブランコで遊び終えると、彼は今度は壱矢を鉄棒へと連れていった。

「空中逆上がり出来る?壱矢?」

「まぁ、多分」

「じゃ、やって。お兄ちゃん」

 クロムは期待を込めて壱矢を見上げた。そんな目で見られたら、何となく断りずらい。

「…ちょっとだけな」

 壱矢は袖を捲ると鉄棒を握った。

 空中逆上がりなんて久方ぶりだ。一度だけ勢いをつけてから、回転する。壱矢がくるくる回り出すと、クロムはパチパチと手を叩いた。十数回回って、もういいだろうと鉄棒から離れると、頭がクラクラしてきた。三半規管が狂っているようだ。

「酔うな、これ……」

 が、クロムはご満悦らしい。

「凄いね、壱矢。ちょっと尊敬する」

「ちょっとか」

「うん、ちょっとだけ」

 クロムは壱矢を見上げて、シシシと笑う。

 それからも彼はジャングルジムに滑り台にシーソーに鬼ごっこにと壱矢を散々連れ回し、一時間程たった頃ようやく遊び疲れたようだった。

「ほらよ」

 ベンチに座ってぐったりとしているクロムに、壱矢はなっちゃんの缶ジュースを差し出した。公園の入り口の自販機で買ったものだ。クロムはそれに少し目を丸くする。

「……くれるの?ありがと。優しいね」

 彼は相当喉が渇いていたのか、ごくごくとオレンジジュースを飲むとぷはーと息をついた。

壱矢も自分用に買った"なっちゃん"のプルトップを開けて飲む。子供の相手というのは案外疲れるものらしい。鬼ごっこなどしたのはいつ以来だろう。

「…なぁ」

 壱矢は缶を見つめたまま、クロムに声をかけた。前からずっと気になっていたことを尋ねてみることにした。

「お前って本当に俺の弟なのか?」

 ちらりと彼を見る。彼は答えない。仮面のせいで表情すら分からなかった。

「あいつの……夜見の子供だよな?何でパラドクス何かにいる?父親は誰だ?」

 重ねて問いかけて見たが、依然としてクロムは微動だにしない。答える気もないようだった。壱矢は気長に待とうと、ジュースを飲み始めた。そうして回答を半ば諦め始めたころ、俄に名を呼ばれた。

「壱矢」

「あ?」

「遊んでくれたお礼あげる」

 訝しむ壱矢を他所に、彼はポケットをガサゴソやると、一枚の封筒を差し出した。

「…手紙?」

 受け取って、裏返してみる。宛名も差出人名も無い、真っ白な封筒。

「招待状だよ」

 クロムはベンチから立ち上がり、パンパンと服についた砂埃を払った。

「七月二十四日木曜日、午後九時からショーをやる。場所はその紙に」

「ショー…?」

 壱矢はまじまじと手紙を見た。七月二十四日。今から約二週間後だ。

 クロムはそう、と頷いて仮面を被り直した。細く空いた仮面の目の隙間からじっと壱矢を見る。―――どこか自分に似ていると思ったのは、錯覚、だろうか?

「僕はそこにいる」

 その言葉を合図に空気が轟と唸る。すると突風が吹いてきて、砂煙が舞い上がった。 咄嗟に顔を庇い、目と口を閉じる。身体中を砂が打って、細かな痛みが走った。

(これも異能バベルなのか…?)

 一瞬とも一分とも取れる時間の後、ようやく砂塵は晴れた。が、クロムの姿はどこにもなかった。公園を見渡しても、猫の子一人見当たらない。不気味な静寂が漂うだけ。

「あいつ……」

 壱矢呆然と彼がいた場所を見た。痕跡一つない。彼は本当にここにいたのだろうか。文字通り狐に化かされたような気分。だが、壱矢の手には彼にもらった白い招待状がしっかりと残されていた。




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