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混沌のバベル  作者: じしゃくまん
鳴神の亜人
2/6

糸を紡ぐ

「…まったく、変な意地を張りおって…」

  駅前の商店街の一角に位置するパン屋"filer du fil"

 どの店もシャッターを下ろし、昼間の喧騒が嘘のように静まり返った中、少年を抱えた男はパン屋の裏口から中に入った。恐らく二階で寝ているだろうもう一人の住人を起こさないように気を払いながら、ソファの上に少年を下ろす。

「はぁ…重かった…一体何キロあるんだ、こいつは」

男は凝り固まった肩を回しながら、誰に言うでもなく愚痴を溢した。だが誰だって自分より背も体格もある相手を背負ったら愚痴の一つも言いたくなるだろう。

 少年はこちらの気など知るはずもなく、呑気に寝息を立てている。呑気な奴め。一見険が強かったが、こうして見ると寝顔は案外年相応に子供っぽい。

「…とりあえず、手当てが先か」

 男は救急箱を持ってくると少年のパーカーを脱がしてシャツをめくり――息を飲んだ。





 ふわりと漂ってきた小麦粉の焼ける匂いで目が覚めた。素朴でどこか懐かしい薫り。ややあって、それがパンのものだと気付いた時には意識は大分覚醒していた。

 真っ先に目に飛び込んできたのは見慣れない天井と、壷をひっくり返したような形のペンダントライト。

 窓から入る日差しは結構強め。恐らく既に十時は過ぎているだろう。ずきずきと鈍痛のする頭に顔をしかめながら身を起こして壁にかかった時計を見ると、やはり針は十時半を回っていた。

「つーか…ここ、どこだ…?」

 頭痛を堪えながら、記憶を辿って意識が落ちる前の出来事を思い出す。

 そうだ、柄の悪い連中に絡まれて、見知らぬオッサンに助けを求められて、そこに植物人間が現れオッサンを殺して、それで謎の男が発火現象を―――

 昨晩の生々しい惨劇を思い出して、思わず吐きそうになる。男の断末魔、骨の折れる音、巨大なウツボカズラ。男の死に様が脳裏に焼き付いて離れなかった。偶然助けを求められ、少し話しただけだったが、やはり見知らぬ他人が死ぬのとは訳が違う。

 彼の娘に会いたいという望みは永遠に叶わない。助ける義理はなかったのかもしれないが、見殺しにしたというのは紛れもない事実。それが鉛のように圧し掛かってくる。

 …と、不意に脇腹がずきりと傷んだ。シャツを捲ると白い包帯が巻かれている。それから腕にも同様に。どちらも昨晩例の植物人間にやられた所だ。

 つまり総合して考えると、彼に助けられたということだろうか。そしてここは彼の家――?そういえば、パン屋だとか言っていたような気もする。

 辺りをぐるりと見渡すと、部屋の反対側で本棚と棚の間に挟まるようにして、蹲り本を読んでいる少女が目についた。誰だ?というか、よくあんな所入れるな…。寝起きの回らない頭でそんなことを考えながら見ていると、目線に気付いたのか、彼女が顔を上げた。

「あ、えと…お、お目覚め、ですか?」

 彼女は目に見えてあたふたし何度か咳払いをすると、ちょっと待ってて下さい、と本を閉じて毬のようにどこかに飛んでいった。

 今のは、何だったのだろう。

 自分よりは確実に年下、十二三の少女だったと思う。ここに住んでいるのだろうか。

「よう、起きたか」

 ぼんやりと思案していると、昨晩聞いた声が降ってきた。顔を上げると、茶色エプロンをつけた件の男が盆を持って立っていた。

「売れ残りで悪いが、好きなのどうぞ。腹減ってるだろう?」

 彼はエプロンを外し、持っていた紙袋を差し出した。そういえば、半日以上何も食べていない。

「…ありがとうございます」

 礼を述べてそれ受け取る。袋の中身はやはりパンだった。少し迷った後メロンパンとあんパンを選んだ。 が、男は

「朝から甘いものばかりは体に悪い。こっちにしなさい」とカレーパンとあんパンを交換した。

「はぁ…」

 どうやら男は結構世話焼きな質らしい。まぁ別段拘りがあるわけではないので、言われた通りにしておく。

 男は部屋の真ん中にあった座卓に牛乳と珈琲を置くと腰を下ろし、少年にも座るように促した。それから珈琲を一口飲むと、名乗った。

「私は十島紬。この店の店主だ。…貴方は?」

「壱矢…淡路壱矢です」

 彼に倣ってフルネームを名乗ると、彼は何かを考えるような素振りを見せた後、良い名だな、と言った。

 紬はパンに手付かずだった壱矢に食べるように促した。昨日の死体を思い出すとどうにも気は進まなかったが、腹の虫とパンの香りには抗えない。いただきます、とカレーパンを食べてみると程よいスパイスと衣のサクサク具合が美味しかった。

「上手い…」

 半分無意識に呟くと、紬はそれは良かった、と笑った。

 それから彼は唐突に言った。

「昨日は災難だったな」

「…そうっすね」

 思わずパンを食べる手を止める。再び吐き気が込み上げてきた。が、それに反して紬はあっさりと言った。

「粛清とか言ってたか…。まぁおよそ奴らの内部のいざこざだ。お前が気に病むことはない。昨晩のことはさっさと忘れなさい。痕を残してきたから警察沙汰になるかもしれんが、何も知らん奴らには犯罪として立証することなど出来はしまいよ」

 そう言われて、一朝一夕に忘れられるような出来事ではない。が、少年は何も言わずに頷いておいた。

 紬はそれにしても、と続ける。

「全く無茶をする。あいつはパラドクスの幹部だぞ。そこらの異能者(バベル)は訳が違う」

「はぁ…? 」

 まただ。知らない単語。壱矢は思わず苦い顔をしてしまった。

「何すか、その…パラドクスとかバベル…って」

「おや、やはり知らないのか?」

 紬は不思議そうに壱矢を見た。

「パラドクスは異能者(バベル)の組織。ろくな連中じゃないから関わらん方が良い。で、異能者(バベル)は文字通り、人間とは異なる能力を持った者だ。私や昨日のあいつのような…というか貴方だってそうではないのか?」

「俺が…?そりゃあ、確かに俺は放電つーか、変な体質だけど…」

 昨日のオッサンも同じようなことを言っていた。この放電体質は異能バベルだと。すると紬はそれを肯定した。

「まさしくそれのことだよ。恐らく貴方は私と同じ現象使い(フェノメナ)だろうが…まぁ、似たようなものだろう」

 最後の方は半分独り言のようだった。

 良く分からないが、紬曰くこの世には異能者なるものが実在し、自分のこの謎の放電体質もどうやらその異能(バベル)らしい。理解はできても受け入れられない。認識と認知は別物だ。

 頭からぷすぷすと湯気を立てている壱矢を見て紬は苦笑いした。

「まぁいずれ分かるさ。…それにしても今まで何も知らなかったとは驚きだな。色々苦労したんじゃないのか」

「まぁ…別に…」

 是とも否ともとれぬ微妙な返答を壱矢はした。苦労した、のだろうか。していないと言えば嘘になるかもしれない。


――化け物…!

 ふと昔言われた言葉が頭に響いた。

――何だよ…!お前ッ!気持ち悪っ…!

 中学の時、揉めた相手に言われた台詞。

 あれからずっと思っていた。もしかしたら自分は本当に化け物なのではないか、と。

 父も叔母も普通なのに、謎の突然変異体ミュータント。まさしくそうではないか。


「そーいや…」

 ふと思った。

 どうしてその異能(バベル)とやらを自分が持っているのだろうか、と。遺伝なのか、本当に突然変異なのか、はたまた映画でよくあるウイルス的な何かか?紬に尋ねようとしたが、彼の方が一足早かった。

「ところで、壱矢」

「なんすか?」

 俄に名前を呼ばれて首を傾げる。すると、目の前に新聞を突きつけられた。

「…今朝の朝刊?」

 正確にはその地方欄。

 未だ腑に落ちない壱矢に紬は新聞の右下をばしっと指差した。

「これは貴方の仕業だろう!」

「…俺何かしたっけ?」

 見に覚えがない。訝しく思いながらも、示された端っこの小さな記事を読んでみる。

「不良少年、警察に謎の訴え…薬物使用の疑い有り…?」

 どうやら昨晩交番に五人の少年が駆け込み、化け物に出会ったと訴えたそうだ。何でもカツアゲしようとした相手が変な奴だったとか、云々かんぬん。

「…あぁなるほどね」

 そういえば、そうだった。どうやらあの後、あの不良どもはお巡りさんに助けを求めたらしい。その後の出来事が衝撃的すぎて、彼らのことはすっかり忘れていた。

「ハッ…ざまぁみろや」

 そのまま薬物使用の疑いとやらでブタ箱にでも入ってしまえ。良い気味だ、と鼻で笑うと頭部に強い衝撃が飛んできた。

「うぉ!?」

 思わず呻いて見上げると、拳を握った紬の鋭い目線が突き刺さった。

「ざまぁみろや…じゃないだろう!」

 紬は新聞を畳むと、どすんと腰をおろした。

「一般人に力を使うのは禁止だ!ましてや喧嘩に使うなんて言語道断」

 紬は目尻を吊り上げて、きっぱりと言う。だが、壱矢にだって言い分はある。

「先に手出してきたのはあいつらだぜ。正当防衛だろ」

「子供のくせに屁理屈をこねるな」

「俺あと四年で二十歳なんだけど」

「私から見たら十分ガキだ」

 紬は壱矢の主張をバサリと切り捨てる。彼は丸めた新聞紙を壱矢に突き付けて続けた。

「この科学の世に異能者(バベル)の存在が明らかになってみろ。最悪解剖台行きだぞ。…実際そういう研究施設もあるし、裏では異能者(バベル)狩りも行われているという噂もある。貴方は特に…」

 紬はそこまで一息に言って腰を下ろした。一息をついた後、真っ直ぐに壱矢の目を見て続ける。

異能者(バベル)として生を受けた以上自分の力に責任を持つのが道理というものだ。私たちはただでさえ人の理から外れている。人の心まで失ったらそれこそ本当の化け物になってしまう」

 言われて、ふと頭に膝をついて地面に吐血したロン毛や泡を吹いて倒れた坊主の姿が思い浮かんだ。確かにやり過ぎたと思わなくもない。

「力は人を歪ませる。無闇に使うもんじゃない。…人でいたいならな」

 人でいたいなら。

 紬のその言葉に壱矢の頭にある記憶が甦った。ずっと昔のことだ。

 今のようにに割りきることも出来ず、当時はただ怖かった。人とは違うこの謎の体質が。いつか放電が止まらなくなったらどうしようだとか、こんな変な体質世界で自分一人だけなんじゃないかだとか、そんなことに怯えていた。

 不安で一度、父に聞いてみたことがある。自分は人間ではないのか、と。

 すると父は一寸と驚いたような顔をした。

――そんなことないよ。…壱矢は父さんの子だろ?ちゃんと人間だよ。

 それから幼い自分の頭を撫でながら、諭すように言ったのだ。

――手が届く範囲でいい。困っている人に手を差しのべられる人になりなさい。その力もね、誰かの為に使ってあげるといい。

 今思えば何て綺麗事。でも確かに父はそういう人間だった。自分とはとは似てもつかない。

「決めた」

 追憶の淵に沈んでいた壱矢は紬の声に引き戻された。

「は?何を?」

 謎の決断に首を傾げた壱矢に、紬は曰くありげな笑みを浮かべる。

「貴方を雇おう 」

「はぁ?」

 いきなり何だ、と顔をしかめた壱矢に紬はあっさりと言う。

「貴方にはここでバイトをしてもらう。正直また昨日みたいなことをされたら心配だ」

 要するにお目付けということらしい。

「冗談じゃねぇよ」

 壱矢は舌を打った。パン屋でバイトなど面倒臭い。

「案ずるな、バイト代ならきちんと出してやるさ」

「いらねぇよ」

「いいじゃないか。私達にとって生きにくいこの世の中、何事ももちつもたれつ。それにどうせ暇だろう?」

「…」

 確かに勉学に励んでいるわけでもないし、部活もやっている訳でもないし、決して忙しくはないが。暇人呼ばわりされて何となく腹が立つ。

「要も最近は忙しそうだし、人を雇おうと思ってたところだ。異能者(バベル)の方が何かと都合も良いし、丁度良い。…それにほら、曲がりなりにも命の恩人だぞ私は。おまけに一人で立てるというから、手を貸さなかったら案の定ぶっ倒れおって。重かったんだぞ、貴方。お陰で私は筋肉痛…アイテテ…」

 わざとらしく渋面をつくってみせた紬に壱矢は舌を打った。さっきまで素振りも見せなかったくせに。

 だが、恩があるのも確かに事実。壱矢は渋々了承した。

「わーったよ」

「よろしい」

 紬は痛がるフリをあっさりと止める。それから壱矢がパンを食べ終えたのも見て、立ち上がった。

「とりあえず今日は帰りなさい。もうじき昼だ。私も忙しい。それに親御さんも心配しているだろう」

「あぁ、まぁ…」

 壱矢は曖昧に返事をした。心配しているとは正直思わない。しているにしても、恐らくそれは壱矢ではなく、世間体を、だろう。

「ごちそうさまでした」

 壱矢も手を合わせて立ち上がる。

「案外礼儀正しいな。口は悪いが」

「うるせぇな」

 一言余計だ、と睨むと紬は何故かカラカラと笑った。裏口から出ようと靴を履いていると、紬が声をかけてきた。

「壱矢」

「何?」

 紬は一瞬躊躇う素振りを見せた後、言った。

「違っていたら悪いが、貴方の母上…もしかして夜見という名ではないか?」

「…知ってんのか?」

 壱矢は一寸驚きながら、聞き返した。すると紬は小さく笑った。どこか懐かしげに。

「あぁ、古い知り合いだ」

「へぇ…」

 どうやら世の中とは意外に狭いものらしい、壱矢はそんなことを思いながら帰路についた。





 淡路夜見は壱矢の母にあたる。

 だがあくまで血縁上は、だ。実際はほぼ他人である。

 壱矢が物心がついた時には既に彼女は家に寄り付かなかったし、遊んでもらった記憶もほとんどない。それからしばらくして、彼女は家を出ていった。子供なりに何かを察して父には何も聞かなかったが、事実上の離婚だろう。――それが壱矢が小学校に上がった頃。

 だから顔も殆ど覚えていない。

 だが、周りに言わせると壱矢によく似ているらしい。確かに壱矢は父にはあまり似ていないとる思う。だが、他人同然の母に似ていると言われて正直あまりいい気はしない。

 昔、叔母や父方の祖父母は彼女のことよくを「馬の骨」と言っていた。どこの馬の骨とも分からない女、つまり素性も知らぬ女。

 叔母が言うには、夜見は親戚どころ親兄弟さえ不明で、父も結婚するまで苗字さえ知らなかったらしい。

 一方父は所謂旧家の出で、当然母との結婚には猛反発されたそうだ。それで縁切り同然で家を出てきただとか。

 なんてあつあつの恋物語。おめでたいこって。

 正直、壱矢でさえ何故父が夜見を選んだのか全く分からない。自分にないものを持っている人にこそ惹かれるとも言うが、夜見が持っているものといえば非常識ぐらいだ。それからまぁ…強いて言えば我が母ながら美人だったとは思う。

 父は頭も良かったし、人としては立派だったが、何分お人好しというか、人が良すぎるというか。女の趣味だけは頂けない、と壱矢は昔から思っていた。


――そしてそれは正しかったのだろう。

 夜見はあっさりと家を捨て、挙げ句夫の葬式にさえ顔を出さなかったのだから。





 パン屋のバイトというのは、思ったいた以上に難儀かつ面倒である。

 これが゛filer du fil゛で働き初め、一週間目にして壱矢が抱いた率直な感想だ。

 食品業界故に当然かもしれないが、衛生面には凄く気を使うし、それ以上にレジが難しい。

パンの名前は勿論、包装の仕方(パンによってビニールと紙袋が決められいるらしい)も覚えなければならないし、何分接客が面倒臭い。

「お前は笑顔が足りない」

 紬は事あるごとにそう言った。その他にも真心が大事だとか、サービス精神だとか、目付きが悪いだとか、エトセラエトセラ。

 後半に至っては最早悪口である。

 勝手に雇っといてコノヤロウ。容姿など生まれついてのものではないか。壱矢が抗議すると、紬はそういう意味ではないと首を振った。

「接客は勿論、人間関係を円滑にするのは笑顔が大事だぞ。お前は表情筋がかっちこちだ」

「…なんだそりゃ」

 思わず顔をしかめると紬は冗談か本気かこんなことを言った。

「眉間に皺をよせていると、将来禿げるぞ」

 そんな話聞いたこともない。

「禿げるかよ」

 壱矢は苦い思いで舌を打った。

 が、そう言われると何だか心配になってくる。その後密かに頭を触ってみたのはここだけの話だ。

 だが、そもそも壱矢は決して口の回るタイプではないし、元々人と話すはあまり好きじゃない。加えてバイト経験は他にあっても、大抵は肉体労働系のもので接客をしたことはなかった。いきなりパン屋でバイトしろなんて言われて出来るものか。

 そんなある日の遅く、店内の清掃も終えて、奥の部屋(ここで初めて目を覚ました洋室のことだ)で壱矢が制服を脱いでいると、珈琲を差し出された。

「はい、お疲れさま」

 顔を上げると弛い三つ編みの女性が立っていた。彼女もここで働いている。シフトが合わない故か、話したことはないが、何度か見たことはあった。

 因みに、紬曰くここのバイトにはあと一人要という人がいるらしいが、そっちは会ったこともない。

「あざっす」

 礼を述べてfiler du filのロゴである毛糸玉が描かれたカップを受けとる。

 壱矢はあまり珈琲は好きではない。だが一口飲むと、予想外に甘味があった。気を使って砂糖を多めにいれてくれたのかもしれない。

「えーっと、壱君だっけ?」

「いや壱矢です」

「ふむふむ、私は薫子でございます」

 彼女茶色く染めた髪を揺らしながらはおどけたように笑いながら名を名乗った。

「で、いっちー。どう?慣れた?」

 先程の訂正も空しく、彼女は自分も珈琲を飲みながら話を振ってきた。

「まぁ…それなりに…。つーか壱矢です」

「気にしない、気にしない。渾名とゆーことで」

「…」

 まぁいいか、と壱矢は諦めて珈琲を啜った。別に名前に特別思い入れがある訳でない。

「いっちーは高校生?大学生?」

「高二です」

 正確には四月から、だが。今は春休み中である。すると彼女は目を丸くした。

「うそーん!大学生かと思ったー」

 …これは誉め言葉として受け取っていいのだろうか。すると彼女は慌てたように付け足した。

「あ、良い意味でね!背高いし、しっかりしてそうだし」

「そうっすかね」

 テンション高いな、等と思いながら適当に相槌を打つ。前述の通り、壱矢はあまり人と話すのが好きではない。が、紬にあれこれ言われたことを思いだして話を振ってみる。

「薫子さんは?大学生っすよね?」

 直感だが、確実に自分よりは年上な気がした。

「んー惜しい。あたしは専門生」

 話によると、彼女は専門の調理科夜間部の学生らしい。昼間はこの店や弁当屋でバイトしているという。何でも家が超がつく貧乏なのだとか。

「…偉いっすね」

 無意識に呟くと、彼女は笑って手を振った。

「やめてよー照れるじゃない。…でもねー毎回課題もレポートもギリギリでさ、教授にはダラシナ杉子なんて不名誉な渾名つけらるし、先月は水道は止められちゃったし、全然上手くできてなくてさー…」

 珈琲の水面を見つめながら薫子は肩を落とす。水道が止められるなんて漫画の中の話かと思っていたが、そうでもないらしい。

 父子家庭だったとはいえ、父は薬剤師で稼ぎも良かった。父が事故で死んでからは、壱矢は叔母の家に引き取られたが、叔父は大学の教授で、叔母は旧家の出と叔母一家はいわゆる裕福な家庭だった。

 それ故に壱矢は今まで、苦労したことはなかった。少なくとも金銭面では。

 だから薫子のことは素直に凄いと思った。

「学校行きながら働くって…それだけで十分立派っすよ」

「むむむ、優しいねーいっちーは」

 彼女はカラカラと笑った。

 そうしていると、ガチャリとドアが開く音がした。見ると初めてここに連れてこられて、目が覚めた時に見た少女だった。彼女ははにかみながら薫子に頭を下げ、壱矢を見ると顔を強張らせた。

 それから若干舌足らずに言う。

「紬さんがもう今日は上がっていいよ、って言ってました」

「おーほんと?ありがとー」

 薫子が彼女の頭をぽんぽんと撫でると少女は照れたように笑った。それから壱矢を見て小さく頭を下げると、部屋を出ていった。

 この間も思ったが、彼女は誰なのだろう。座敷わらしか何か?パッツンの前髪と色白なところはそっくりだ。

 壱矢の訝しむような目線に気付いたのだろう。薫子が説明した。

「琴葉ちゃんよ。ここで暮らしてる子」

 こことは勿論"filer du fil"のことである。"filer du fil"は一階にあり、二階は住居になっていた。というか、それよりも――

「紬さんって子供いたんすか?」

 正直想像だにしていなかった。まさか結婚していたとは、驚きの真実。

 目を丸くした壱矢に薫子は笑い出した。

「違う違う。流石に実子じゃないっしょ。琴ちゃん十三だもん。年齢可笑しいって」

「…養子ってことですか?」

 何となく少女に昔の自分が重なった。

 壱矢の問いに薫子は「さぁ?」と首を傾げる。

「あたしがここで働き出した時にはもう琴ちゃんいたし、多分そうだと思うけど…。まぁ正直紬さんも謎多いしね。家庭の事情ってやつだよ。あんま詮索しない方がいいと思うよー」

 薫子はやんわりと忠告を入れる。

 家庭の事情。それは壱矢にも分かるような気がした。



 家の方向が同じだというので、自然と一緒に帰ることになった。薫子は売れ残りの詰まった袋を大事そうに抱えながら歩いていく。

「そう言えば、いっちーも異能者バベルなんでしょ?」

 その帰り道、薫子は唐突にそんなこと聞いてきた。

「あぁ、まぁ」

 自身の放電体質が異能(バベル)によるものだと知って、未だ一週間。正直壱矢には異能、または異能者を指すバベルという単語は馴染みが薄かった。

「"も"ってことは薫子さんも…?」

 異能(バベル)の存在知っているということから考えても恐らくそうなのだろう。が、薫子はそれを否定した。

「いんや、あたしは違うよ。ただの人間」

 つまんないねー、と笑いながら彼女は付け足す。

「でも弟は異能者(バベル)だよ」

 どうやら彼女には今年で中三となる従弟がいるらしい。

「要君も異能者(バベル)だし、あたしだけ仲間外れー…あ、要君って知ってる?」

「名前だけなら」

 確かfiler du filでバイトをしていると紬から聞いた。

「そーそー、ペラペラ煩いアホ毛っ子。今年十七って言ってたから…あ、いっちーとタメだね」

 聞くところによると、要というのは壱矢と同学年で異能者(バベル)の少年らしい。

 薫子曰く、無駄にイケメンな口から生まれた男だと言う。想像出来るような、出来ないような。

「そーいや…」

 壱矢は前々から疑問に思っていたことを聞いてみることにした。

異能(バベル)って遺伝で持つもんなんすか?」

 薫子は普通の人間だが、弟は異能者(バベル)だと言った。姉弟同士でも違うということはそうではないのだろうか。

「うーん…基本的に遺伝はするみたいだけど。でも普通の人間から異能者(バベル)が生まれてくる時もあるらしいよ。現にあたしの親も普通の人だし。でないと異能者(バベル)は人間とは全く異なる新生物ってことになっちゃうし…」

 薫子は顎に手を当てながら続ける。

「血液型みたいなもんじゃない?両親がただの人でも、組合わさると異能者(バベル)の遺伝子が出来て形質として異能(バベル)が発現するとか?ほら、AOとBOの親からならO型の子が生まれてくるっしょ?」

「…あぁなるほど」

 壱矢は納得して頷いた。

 ならば、自分の場合はどうなのだろう。父は普通の人間だった。それは間違いない。では夜見は――?

 紬は彼女と知り合いだと言った。ということは夜見も異能者(バベル)である可能性が高い。そしてその力が自分に遺伝したのだろうか。

 彼女は何も教えてくれなかった。というか、壱矢が異能を知って間もなく家を出ていった。――なんて無責任な女。

 壱矢は苦々しい思いで己の掌を睨みつけた。



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