始まりの日
夜一人で居ると、ふと思い出す光景がある。小麦の薫りとパンの焼ける匂い。無知の反面、穏やかで暖かだったあの場所。
いつも不思議に思う。何十年、何百年と生きてきた中でどうしてその光景なのだろう、と。
やはり、最初で最後の本物として過ごした時だったからだろうか――?
【鳴神の亜人】
運が悪かったと言えば、確かに運が悪かったのだろう。
その日彼らは暇をもて余していた。金もないが、やりたいことも特にない。
彼らは高校を中退した者や、学校をサボっている者、早い話が不良と呼ばれる者の集まりで、時に暴走し、時に喧嘩をし、時には犯罪紛いのことにも手を染めていた。
そしてその日は金のためにカツを揚げることにした。ターゲットに選らんたのは同じ年頃の少年。選択の理由はあまりない。ただ強いて言うなら偶然そこに少年が通りかかり、目付きが何となく気にいらなかったからだ。
少年はそこそこ背も高く体格も良い。だが流石に柄の悪い連中五人に囲まれたら戦慄くだろう。弱っちいオタクを獲物にして警察に駆け込まれるより、ずっといい。
彼らはそう判断して、前を通りかかった少年に声をかけた。
「おいてめぇ。何眼たれてんだよ」
少年が彼らは見ていたかどうかは分からない。だが少年の目付きが悪かったのは本当だし、第一そんなこと彼らにはどうでも良かった。要は口実である。
「慰謝料だ、金出せ」
「出せば見逃してやるよ」
彼らは高いビルに両端を挟まれた人気のない場所に少年を連れ込むと取り囲み、口々に言った。
「痛い目合いたくなかったら金だしな」
高校生同士の喧嘩など三対一を超えたら話にならない。普通数の利で押しきれる。彼らは余裕の笑みを浮かべながら、じりじりと少年を取り囲む輪を狭めていった。が、少年は微動だにしない。
ついには一番体格の良い男が少年の襟首を掴み上げた。
「さっさと出せよ、今なら諭吉で見逃してやらあ」
人より少しばかり粗暴で短気で暴力的なその男は、彼らの中で一番手が早かった。だがこうして人数と暴力で威圧することが、通常最も手っ取り早い手段であることもよく知っていた。
だがあくまで、それは相手が普通の人間の場合。かくいう今回はそれは当てはまらなかった。
即ち、少年は"普通ではなかった"。
「離せよ」
少年が鋭く男を睨む。
瞬間―――襟首を掴んでいる男の腕に鋭い痛みが走った。
「…!?」
突然の不可解な出来事に男は唖然とした。まるで、雷にでも打たれたかのように身体中がじんじんと痺れている。
少年はその隙を見逃さず、男の手を振りほどくと鳩尾を蹴り飛ばした。
「仁…!?」
仲間が彼のもとに慌てて駆け寄る。
「こ、こいつ…今…」
彼は目を見開いて少年を見ている。その目に浮かぶのは驚愕と恐怖。
仲間たちは訝しげに少年と男を見比べた。今、何が起こったのだろう。仁は正しく呆然自失の体で、少年を見ている。だが一人減ったとはいえ、こっちは四人だ。
「どうせ一人だ!やっちまえ!」
仲間の一人の掛け声で一斉に男たちは動き出した。
「おらよ…っと!」
金髪の男が少年の顎に殴りかかる。が、身を低くしてそれを交わされ、腹に拳を叩き込まれた。その瞬間、腹部に鋭い衝撃が走る。
「は…!?」
単に殴られただけではない。痺れるような痛み。まるで、超強力な電気ショックを与えられたような…。
普通ならあり得ない衝撃に金髪は目を見開く。そして全身を硬直させたかと思うと、崩れ落ちるようにその場に倒れこんだ。
「て、てめぇ!」
状況こそ把握出来ていないが、仲間が二人もやられたという事実に男たちはいきり立った。ただ少しばかり脅しをかけて、金を拝借するだけの予定の相手に。
報復の念に駆られた男たちは目配せをし合い、少年に掴みかかった。
「死ねや!」
力も体力も有り余った男子高校生といえど、所詮は素人同士。囲んで袋叩きにしてしまえばよい。
数発殴られつつも、直ぐに一人が少年を羽交い締めにし、坊主とロン毛の二人が少年を取り囲んだ。
「大地、そのまま押さえとけよ」
「おうよ」
ロン毛が少年に近づき、髪を掴んで顔を上げさせる。
「ったく、手間かけさせやがって。ちょっと金出せば済―――」
彼はそれ以上言うことが出来なかった。
倒れた二人同様、一瞬の硬直の後に突然がくりと膝をつく。
「カハッ…!」
それから腹を押さえると、口から血を吐いた。薄汚れたアスファルトに鮮血が飛び散る。
「て、てめ…何を…ウッ…!」
ロン毛は少年を睨んだが、直後再び吐血した。顔には脂汗が浮かび、呼吸には変な音が混じっている。
「お、お前…だ、だいじょーぶ、か…?」
坊主の男はぎょっとしてロン毛の仲間を見た。今、何が起きたんだ?少年は殴るどころか何もしていない。それなのに、何故…?
見ると少年を羽交い締めにしていた男も膝をついて蹲っている。
「チッ…やり過ぎたか…。まぁいいや」
降ってきた声と舌打ちに顔を上げると、少年が吐血しているロン毛を見下ろしていた。
坊主は理性よりも直感で悟った。こいつはヤバい、普通でない、と。
「ヒッ…く、来るなよ…化け物がっ…!」
坊主は仲間の存在も忘れて逃げ出した。腰が抜けているのか、何度かこけそうになりながら背を向けて走り出す。
「逃がすかよ」
が、少年は一息に坊主との距離をつめると、後ろから蹴り倒した。
戦意を喪失した相手ほど簡単なものはない。どう、という鈍い音と共に、哀れなほどあっさりと坊主の巨体が俯せに倒れこむ。
少年はそれを見下ろすと、薄く笑った。
「やられたらやり返す…それが俺のモットーなんでね。恨むなよ、手出してきたのはそっちだろ?」
少年の右腕が電気を帯びる。
「や、やめろっ…!頼むって…!」
坊主の脳裏に倒れた仲間の姿が蘇る。どんなカラクリかは分からないが、あんなになるのは御免だ。
が、少年に頼みを聞く来など毛頭ないようだった。
「クソッ…バケモンがっ…!」
坊主は憎悪の籠った目で少年をねめつけた。少年は目を細めて男を見下ろす。
それから右腕を振り上げると
「死ね、バァカ」
電撃と打撃のダブルパンチで坊主の背中を殴り付けた。路地裏に男の断末魔の叫び声が響き渡った。
「…クソが…」
少年は泡を吹いて気絶した坊主を蹴りつけると、少年は余韻でバチバチと放電している己の腕を振って電気を払った。唇を脱ぐうと、手の甲に赤い血がついた。口の中でも鉄の味がする。多分殴られて切ったのだろう。腫れて熱を持った頬を初夏の夜風が浚っていく。
「化け物、ねぇ…」
掌を見ながら坊主の捨て台詞を反芻する。全力で殴ったせいで掌はじんじんと熱を持っていた。
「確かに…」
そうなのかもしれない。人体発電なんて普通はあり得ないだろう。
先天か後天か、遺伝かはたまた突然変異か。由来は知らないが、物心ついた時には既に、少年は電気鰻のような謎の体質を持っていた。早い話が放電体質だった。
どの生物も(もちろん人間も)、細胞膜の内外の液体の電位差、つまり膜電位によって微量な発電はしているという。さらに、人より電気を溜めやすい帯電体質というのもあるらしい。だが自分の場合、帯電を通り越して放電だ。一体何故なのだろう。
お陰さまで、冬はドアノブがおっかないし、服を脱ぐのも一苦労だし、酷い時には髪が爆発するし、ろくな事がない。
だがまぁ役に立つことがあるのも事実である。今回のような場合が正にそうだ。まさか、彼らも感電させられるとは夢にも思っていなかっただろう。唐突に電気ショックを与えられれば、誰だって怯む。
「さみ…」
夜風に肩を震わせる。汗が冷えて余計に寒い。三月半ばといえど、上着がないと流石に辛い。
時計を見ると既に針は十時半を回っている。早く帰らなければ。ただでさえ肩身が狭いのに、これ以上迷惑や心配はかけたくない。いや、元より心配はされていないかもしれないが。
帰路につこうと踵を返しかけた時、聞き覚えのない男の声で引き留められた。
「ま、待ってくれ……!」
「…は?」
驚いて振り返ると、悪臭放つゴミが溢れ返っているゴミ箱の影から恐る恐る人が出てきた。途中、飛び出していた針金に服が引っ掛かり転びそうになる。
(そんな所に隠れて何やってんだ、いい年したおっさんが……)
少年は驚き半分、呆れ半分でその様子を見ていた。
男の年はおそらく三十代後半。顔には年相応の皺が刻まれ、目線は落ち着きなく揺れている。どこにでもいる普通の冴えないサラリーマンの風体だが、全体的に薄汚く、髪は脂ぎっていた。はっきり言ってとても情けない。
「……何やってんですか、あんた」
見るに見かねて手を差し出すと、男は焦って「あぁ、すまないね」と礼を述べ、それからはっとしたようにその手をガシッと掴んできた。
「た、助けてくれ……!追われてるんだ!」
「はぁ……?」
少年は思わず間の抜けた声を出してさしまった。追われてるって誰に、だ?警察か?なら関わるのは御免だ。逃亡の手助けなどしたくない。
「何かやらかしたんなら、とっとと捕まった方がいいっすよ」
手を振りほどいて、背を向けると男は慌てて引き留めた。
「違う!警察じゃないんだ!そ、そりゃあ、やらかしたと言えばやらかしたけれども……」
男はそこまで言って、急に尻すぼみに吃り出す。おどおどしていて見ててフラストレーション溜まってくる。
「……」
少年は男をじっと見た。嘘をついているようには見えないし、そもそも嘘をつけるタイプにも見えない。ならば誰に追われているというのだろう。この法治国家で、犯罪以外の逃亡なんてそうない。とすると族か?ヤクザか?
(つーか、何で俺がこんな初対面の奴のために……)
わざわざ厄介事に首を突っ込むのは御免だ。だが、ここで放っておいて明日の一面記事にでもなられたら、後味が悪い。
悩む少年を尻目に男は捲し立ててきた。
「頼むよ!君はバベルだろ。君ぐらいしか頼れる人が居ないんだ!」
「ちょ、ちょっと待って下さいよ。何すか、ばべるって」
状況に理解が追い付かない。だが男は相当焦っているようで、一心不乱に続けた。
「奴らは本当に容赦ないんだ……!組織を抜けたいって頼んでも断られるから、逃げようとしたら、あいつが……あいつが……!」
「組織って……」
やはり、族か何かだ。こんな冴えない男には無縁そうなのに。いや、それ故に使い捨ての駒として犯罪でもさせられそうになって、逃げてきたのかもしれない。
「逃げるぐらいなら、最初から首突っ込まなきゃ良いのに」
呆れてぼそりと呟くと男は泣きそうな顔になった。
「分かってる……分かってるよ……でも君だってバベルなら分かるだろ!あいつが、家内が俺を化け物だって言うから……!そ、そりゃあ、黙ってたのは悪かったよ!で、でもほんとに俺、一生隠し通すつもりで……それが娘にあんな形で遺伝するなんて……!」
男はそこまで一息に言うと、堪えきれなくなったように泣き出した。良い年の男が、二十にも満たない少年の足元に蹲って嗚咽を上げている。傍から見たら相当滑稽だろう。
「たまたま奴らの下っぱの一人に会って、酒奢ってもらって、愚痴溢したら、一緒に来ないかって誘われて……。やけくそだったんだよ……。君の言う通りだ。今は後悔してる……でも、 俺もう一回でいいから娘に会いたくて……小百合にもちゃんと話したら、もしかしたら……」
男はそこまで言って、地面に膝をついて頭を下げた。
「頼むよ……!助けてくれ……!いや、助けて下さい……!」
黙りこんだ少年に男は慌てて付け足した。
「礼なら何でもする!金でも何でも……だ、だから……」
「面上げて下さいよ。生憎金には困ってません」
少年は男を見下ろして、溜め息をついた。己の半分にか満たない小僧に土下座して、この男にはプライドというものがないのだろうか。まぁ、それだけ必死なのかもしれないが。
「良くわかんないすけど……とりあえずばべるって何ですか?それにあんたの言う組織ってのも……ヤクザとか?」
すると男は目を丸くした。
「え……だって君、さっきビリビリって……バ、バベルだろ?知らないのか?」
どうやら男は先ほどの喧嘩を見ていたらしい。
とすると、男はこの放電体質のことを言っているのだろうか。少年は自分の掌をぼんやりと見た。この謎の体質はバベルと言うのか?
男は戸惑いながらも説明を始めた。
「バ、バベルって言うのはね、僕や君も……だよね?」
「知らねぇよ」
回転の鈍いおっさんだ。
最早、敬語を使うのも億劫になって、少年は投げやりに言った。すると男はおどおどと謝って、先を続けた。
「ま、まぁとにかく、僕みたいな超能力……いや、異能を持った人のことを指すんだ。そ、それで、その組織っていうのは……」
「パラドクス。オイラたち選ばれた者の集まりさ」
そこで俄かに若い男の声が聞こえてきた。
男の台詞に被せるように降ってきたその声に、少年と男はぎょっとして顔を上げた。
月明かりに照らされた電柱の上。丈の長いローブを羽織った奇妙な者が一人立っていた。年は少年とそう変わらないが、どことなく怪しげな雰囲気が漂っている。
「き……樹介さん……!」
彼を見た男は顔を強張らせて後退した。だが生憎ここは両脇に高いビルが聳え立つ、狭い路地。すぐに薄汚れたビルの壁にぶつかり男は呻いた。
一方、少年はその樹介とやらの突然のの登場よりも、彼の右腕に顔をひきつらせていた。
(人間じゃ、ねぇ…)
ずばり、彼の右腕は人のものではなかった。腕の代わりに肩から絡み合った太い蔦のようなものが生えている。そしてそれは今にも男を狙わんとうねっていた。
「まったく、オイラの仕事増やしてくれちゃって。ひでぇじゃないの、大悟さーん?」
彼は身軽に電柱から飛び降り、男の元に歩み寄ると顔を近づけた。
「す、すいません……お……お願いします……!命だけは!」
男は哀れな程萎縮して、顔面蒼白となっている。まさしく蛇に睨まれた蛙だ。
「だめだーめ。裏切り者には死を、って浅黄さんも言ってたし?オマエに色々漏らされたらたまんないもんね」
樹介はそう言って右腕を振った。途端うねっていた蔦から鋭い棘が生え、振り上げられる。
間違いなく殺す気だ、少年はそう直感した。それと同時に先程の男の台詞が頭に響く。
――頼むよ!君はバベルだろ。君ぐらいしか頼れる人が居ないんだ!
――でも、 俺もう一回でいいから娘に会いたくて……小百合にもちゃんと話したら、もしかしたら……
バベルだかパラドクスだか知らないが事情は全く分からないが、男は家族に未練があるらしい。何故か会ったこともない彼の娘の姿が頭を過った。もし父親が帰ってこなかったら、彼女は―――
(クソッ……こんな知らねぇオッサンのために……)
少年は苦々しく思いつつ、恐怖で固まる男の前に飛び出して、降り下ろされた棘蔦を小手で受けた。鋭い痛みが全身に走り、生暖かい赤色が肌を伝って地面に落ちる。少年はそれに歯を食い縛って、樹介こと植物人間を睨み付けた。
「誰だ、オマエ?」
植物人間はそこでようやく少年の存在に気付き、突然の割り込みに首を傾げた。その直後、少年の体から放たれた電気が蔦を伝い植物人間の体に流れ込んだ。
「…っ…!」
植物人間はぎょっとして刺枝を引き抜き、距離を取る。
その隙に少年は距離をつめて、電気を帯びた右腕で彼の鳩尾に拳を叩き込んだ。植物人間の体が勢いよく吹っ飛び、ゴミ箱に直撃する。その衝撃でゴミ箱はひっくり返り、汚臭と砂塵が溢れ帰った。
一先ず気を失ってくれたようだが、いつ目覚めるか分からない。少年は素早く男に向き直った。
「立って下さい。逃げますよ」
「……あ、ありがとう」
座り込んでいた男がたどたどしく礼を述べる。だが、腰が抜けているのか立つに立ち上がれない。男は暫く四苦八苦していたが、やがて諦めたように首を振った。
「む、無理だ……立てない……腰が抜けて……」
「はぁ?」
少年は思わず舌を打った。なんて情けない。大の男の癖に。
彼を背負って逃げれ切れるとは、とても思えない。ならば、あの植物人間をどうにかしなければ。だが真っ向からやり合って勝てる相手のは思えない。さっきの不意討ちとは訳が違う。
思考に暮れる少年を見て、男は諦めたように溜め息をついた。
「もういいよ……きっとバチが当たったんただ……。やけになってパラドクスなんかに入ったから……」
「……」
「俺なんかのためにすまない……。助けてくれてありがとう。君は逃げなさい」
男は眉を八の字にして少年に笑いかける。
「何だそりゃ……」
少年はぽたぽたと血が滴り落ちる右腕をぐっと押さえた。何今更大人ぶってたんだ。
「……娘さんに会いてぇんじゃなかったのかよ」
そのために、先程まで一回り以上年下の自分に頭下げてまで、助けてくれ、と頼んだのに。どうしてそうあっさりと折れる?
男は慌てて弁明した。
「そ、そりゃあ会いたいよ……。だけど、見ず知らずの君を巻き込んで……君に何か合ったら、君の親御さんに申し訳が立たない」
これでも父親でね、と男は力なく笑った。が、少年はぼそりと呟いた。
「……いねぇよ、そんなもん」
「え……?」
呆然とする男を他所に、少年は男の襟首を掴み上げた。
「あんたの帰りを待ってる奴がいんだろ!もしあんたが帰ってこなかったら、そいつは……あんたの娘は、きっと……」
帰って来ない父親。いつまで待ったって二度と会えない。その痛みを――少年は知っている。
「父親なら無事に帰って娘を守ってやれよ!簡単には諦めんな……!」
豹変した少年の態度に男は暫く呆気にとられていたが、やがてぽつりと呟いた。
「そうだね、その通りだね……」
それから深呼吸して、よしと気合いを入れる。再び顔を上げた時には、その目に強い光が宿っていた。それは間違いなく父親の顔。子を持つ親の目だ。
が、直後にそれを打ち砕くかの如く不吉な声が聞こえてきた。
「ハハハ……泣かせるね。大悟サンよ」
凍てつくような一瞬。少年の男が恐る恐る声の方向を見ると、ゴミ山に突っ込んでいた植物人間が呻きながらも、ゆっくりと起き上がり始めていた。
「いってぇ……痺れるなぁ……オイラ泣きそう……」
彼は身体中についた汚物に顔をしかめて、痺れの残る体を無理矢理起こした。それから少年を一瞥し
「オマエも仲間か……クッソ、やるなぁ……大悟のオッサンとは大違いだ」
植物人間は感電で痺れている顔で、引きつった愉悦の笑みを浮かべている。少年がそれを睨みつけると、彼は怖い怖い、と大袈裟にかぶりを振った。
「オイラさぁ、そういうお涙ちょうだいのお話大っ嫌いなんだ。どんなキレイ事でかざり立てようと所詮弱いヤツの言い訳だろ」
植物人間は顎で男を指して続けた。
「オマエだって自分の意思でパラドクスに来たんだ。それを今更辞めたいだぁ?ただで見逃してくれだぁ?なめてんのかよ。ガキじゃないんだから自分の行動に責任持ちな。オイラばっかり悪役にしてくれちゃってさ、泣いちゃうぜオイラ。これでも結構デリケートなんだから」
彼は更に続ける。
「オマエが娘に会えないのはオイラのせいじゃない。弱いオマエがパラドクスに入ったからだ。オイラを殺すことが出来ないからだ、コーもフゴーも決めるのは運じゃなくて自分自身だ……って浅黄サンが言ってたぜ」
恐らく、"幸も不幸も"だ。どうやらこの植物人間、オツムは少々弱いらしい。
貫くようなその言葉に男は一瞬弱気な顔になる。が、拳を強く握ると立ち上がって、植物人間を睨み返した。
「貴方たちの大義は間違ってる……!俺たちバベルだって人間だ!……確かに貴方たちの仲間になったのは俺の意識だ。弱さが招いた結果だ…だけど、分かったんだ、こんなの間違ってるって!だから俺は俺の信じた道を行く」
きっぱりと宣言した男の髪がうねり、太くなっていく。呆気にとられる少年を尻目に、それはやがてうねる蛇へと変わっていった。まるで西洋の怪物、メドューサのようだ。
「ふーん……かっくいいじゃん?」
が、植物人間は立ち上がりながら鼻でそれを笑い飛ばした。
やる気、いや殺る気だ。少年は咄嗟に足を踏み出そうとしたが、彼の方がずっと早かった。
「だったら」
そう言って短く息を吐き
「そのかっくいい信念を貫いて死ねばいいさ」
一息で間合いを詰める。そして流れるような動作で、刺蔦で男を凪ぎ払った。
「がっ……!」
男の体が壁に叩きつけられて、短い断末魔の悲鳴が上がる。ボキリと嫌な音がして、首が本来有り得ない角度に曲がった。
植物人間はその元に歩み寄ると、右腕を振って蔦を、謎の植物に変えた。
謎の植物、例えるなら形は巨大な胡瓜かバナナだ。だが、中は空洞で縁には毛がびっしりと生えている。そして、その穴は肉食獣の口のようにおぞましく蠢いていた。
「何だよ……それ……」
とてもこの世のものとは思えない。
少年は思わず、数歩後ずさった。そして、ふとウツボカズラという食虫植物を思い出した。そうだ、まさしくウツボカズラだ。ただし、超巨大の。
「どんなにかっくいいこと並べようと、形に出来るだけの力がなきゃただの妄想。キレイごとだぜ?残念だったな、オッサン」
植物人間は浅い呼吸を繰り返す男を見下ろした。男がもう永くないことは少年にも分かった。
「恨むなよ、オマエがまいた種だ」
そう言って植物人間はウツボカズラに男を一口で飲み込ませる。そして、死体は跡形もなく消え去った。
「一丁上がりぃ」
手慣れた様子で、腕を振って元に戻す植物人間とは裏腹に、少年は必死に吐き気を堪えていた。
(イカレてやがる…)
ウツボカズラは食虫植物の中でも大型で中には鼠や小型の哺乳類を補食するものあるらしい。だが、これじゃあ食虫植物ならぬ食人植物だ。人を食う植物なんて聞いたことがない。しかもそれが人体から生えているなんて。
男の全身から流れ出した、噎せ返るような血の臭いが辺りに充満し、吐き気が込み上げてくる。ぐらりとよろめいて、慌てて足に力を入れた。
衝撃と恐怖で呆然としていると、棘蔦が横から飛んできた。
「……っ!」
咄嗟に放電して威力を弱めるが焼け石に水。男同様壁に叩きつけられ、脇腹からはどくどくと血が溢れだした。
出血で意識が朦朧としてくる。植物人間は腕を振って、蔦についた血を払い、壁にもたれ掛かって荒い呼吸をする少年の元に歩み寄った。
「お返しだ。さっきはよくもやってくれたな、ウナギ野郎。まだあちこち痛いぜ」
「人殺しが……」
少年は意地と気力で彼を睨んだ。すると彼は大仰に溜め息をついた。
「オマエ元々目付き悪ぃのに、そんな睨むなよー。怖いって」
壁にもたれ掛かって、荒い呼吸を繰り返す少年を見下ろして彼は続ける。
「オイラに喧嘩売ったのが運の尽きだ。見られたら消しとけって浅黄さんにも言われてるしな。オマエは後々厄介そうだ。悪ぃがここでオダブツしてもらう」
そう言って右腕を振り上げる。鋭い刺枝が月明かりに照らされて光る。
このままでは殺される。そう思っているのに、吐き気と、棘に抉られた傷の痛みと、貧血で上手く頭が回らない。
それでもいいか、とも少し思った。別に自殺願望があったわけではない。ただ、生きる理由を問われたらそんなもの特になかった。この先やりたいことがあるわけでもないし、男と違って持っている人がいる訳でもない。仮に今俺がここで新で悲しむやつが一体どれだけいるのだろう。叔母なんかはかえって喜ぶのではないか―――?
そんなことが頭に過ぎりかけた時だった。
「そこまでだ」
暗い路地裏に響く凛とした声。
それと同時に、少年と植物人間の間にぼっと炎が燃える。赫々と燃え盛る炎に、生への執着を手放しかけた少年は俄に現実に引き戻された。
植物人間も突然の発火現象に目を見開き、振りおろしかけた蔓を止める。
「誰だオマエ?」
見ると裏路地の入口に、フードを被った人影があった。
「変化を解け。次は、燃やすぞ」
「はぁ?何のマネだオイ」
植物人間は眉を潜めて、影を見る。言うことを聞く気はないようだ。
「さぞかし植物はよく燃えよう」
影は試すように薄く笑った。有無を言わせぬその雰囲気に敵わないとでも感じたのだろうか。植物人間は一瞬の間の後に、刺々しい蔓を人間の右腕に戻した。
「よろしい」
影はそれを見届けると、二人の元に歩み寄った。顔はよく見えないが、声からしてそれなりに若い。
彼は傍らの血だまりを一瞥し、少年と植物人間の双方を睨み付けた。
「夜中とはいえ、こんな往来で揉めやがって。誰かに見つかったら、どうするんだ?」
突然の乱入に植物人間は舌を打つ。
「オマエ誰だぁ?男なら他人の喧嘩に口挟んじゃいけません、って習わなかったのかよ」
男は植物人間の言葉に若干眉を寄せたが、フンと鼻を鳴らした。
「通りすがりのパン屋さんだよ。生憎私はそんな教え受けた覚えはないし、だいたいこれは喧嘩じゃないだろう」
「パン屋ぁ?」
植物人間は訝しげに男を見る。男はそれに肩をすくめてみせた。それから植物人間の羽織るローブの背の描かれたΨに蛇が巻き付いたような紋章に目を止め、顔をしかめる。
「パラドクスか…こんな所で何をしている?」
「裏切り者のおそうじさ。そしたらそこのウナギ君が横やり入れてきてね」
「ほう…」
男はちらりと血だまりを見、それから肩で息をしている少年を見た。致命傷ではないが、手当ては必須だろう。耳を済ませば騒ぎを聞きつけたのか、遠くからどよめきが聞こえてきた。
「本用は終わったろう?もうじき人が集まる。貴殿もさっさと立ち去ることだな。…研究所の連中に捕まりたくなくば」
「…フン、オイラに命令するとは言い度胸だな」
植物人間は忌々しげに男を睨んだ。それから少年に向き直り、見下ろした。
「まぁ今回は退いてやるよ、ウナギ野郎。だけどな、覚えとけよ。オイラは執念深いんだ。次はマジでオダブツさせてやる」
そう言って右腕を蔦に変えると、上に振って蔦をビルの配水管に巻き付けた。それから地を蹴り、蔦を鉤縄の如く器用に操って屋上に昇ると、あっという間に闇夜に消えていってしまった。
「さて、と」
男はそれを見送った後、フードを取った。
現れたのは黒髪の男。凛々しい顔立ち故に分かりづらいが、恐らく少年や植物人間よりも一回り以上年上だ。恐らく三十路手前、といったところだろう。
彼は、少年に向き直ると手を差し出した。
「立てるか、少年」
「…ありがとう、ございます」
少年は礼を述べ、差し出された手をちらりと見た。が、それには頼らず壁に手をついて立ち上がる。
「…」
男は空いた手を不思議そうに首を傾げたが、まぁいいかと納得した。
「ここは直に人が集まる。…異能の跡は残るがまぁ仕方ない。さっさと立ち去るぞ。ついてきなさい」
「ばべる…?」
少年はその単語に首を傾げた。意味は解らなくもないが、頭はぼうとするし、理解が追いつかない。
「?…知らないのか?」
振り返った男の顔が水彩画のようにぼやけて見えた。視界が回り、体から力が抜ける。不味い、そう思った時には体に力が入らなかった。
「お、おい」
男の焦ったような声が妙に遠くで聞こえ、それを最後に少年の意識は暗転した。