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「じゃあ、僕もそろそろ……」
俺はそっと立ち上がった。背中にずきりと痛みが走る。
「え?もう行ってしまうの?」
「まあ……夜も遅いし」
見上げた公園の時計は、薄暗い街灯に照らされて0時過ぎを指していた。
「まさか……眠いの?」
いや、眠くはないですけどね。早くあなたから離れたいんです。と言う台詞を飲み込んで、俺は頷く。
「そう……あなたはまだ現世の器にとらわれているのね。なら仕方ないわ」
意外にもあっさりと引き下がってくれて、俺は驚いた。しかしこれを逃す手はない。
「え?あ、じゃあこれで。おやすみなさーい」
俺はそそくさとその場から去った。もう今日は疲れた。変な女には炎のマジックを見せられるし、なんか知らない変なやつに背中を棒で殴られるし。
しかし数歩進んだところで、右腕に不自然な抵抗を感じ前に進めなくなった。
おそるおそる振り返る。女がベンチに座ったまま服の袖を握っていた。
「あのー僕、これじゃ帰れないんですけど」
「あなた今力を失っている状態でしょ?このままじゃ危ないわ。だから眠っている間、私があなたの体を守ってあげる。だってあなたは大事な私の半身、今ここで失うわけにはいかないもの。こうしている間もいつ“組織”に狙われているとも限らないわ」
「……つまり?」
「あなたの寝床に案内して頂戴。私が結界をはらせて頂くわ」
………………。
風が吹いた。
考えろ。考えるんだ品川圭!どうしたらこの女から逃げることが出来るのか。今を逃したら完全に家まで付いてこられるぞ!
俺のニューロンをシナプスが駆け巡る図が頭の中に浮かんだ。理科で神経細胞について学んで以来、集中して考えるときにはこの図が頭に浮かんでしまう。浮かんだだけで結果が伴わないことも多いのだが。最後にこの図が浮かんだのは高校受験の最中だった。実に五ヶ月ぶりに俺は集中してものを考えていることになる。
そして、一つの答えが出た。
「どうしたのかしら、シナガワ?」
俺は出来るだけ低い声を出して答えた。
「あの……フレイムマスター?」
「フレイムヘブンよ」
「すまぬ、フレイムヘブン」
「ええ、いいわ。私をその名で呼ぶってことは思い出したのでしょう?“組織”の記憶改変を断ち切れたのね!」
「ああ、そうだ……今、意識がはっきりと思い出せた」
意識が思い出せるって何だよ!俺は心の中で突っ込んだ。慣れないことすると駄目だ。しかし始めてしまったからにはやけくそだった。このまま残念な会話を続け、女を騙して逃げるしかない。
「まあ……じゃああなたの本当の名前も思い出したのね?私たち二人だけの、大事な名前……」
名前だと?彼女の設定にはそんなものがあったのか。知ってる訳がないがなんか適当なことを答えておこう。この女が気に入りそうなものを何か。しかし時間がない。即座に答えない事で女に疑問を抱かれてしまっては困る。
「………………デウス」
とっさに出てきたのは、その言葉だった。
「え?」
「俺の名前はデウスだあああああああ!」
俺はやけくそになって叫んだ。直後に近隣の住宅の電気がぱっと付いた。
うひょう!スポットライトみたいでカッコいい!
一瞬俺の中の中二病が目覚めてしまったが、今はそれどころではない。この隙に逃げよう。
「いかん!奴らに見つかった!俺は隠れ家に身を隠させて頂く!」
俺は走った。それは体育の授業でも見せない、俺の、本当の、全力の走りだった。
「うげあっ」
公園を出たところで足が吊った。
後ろからはパタパタとした足音が聞こえる。女が追ってきているのだ。あわてて走り出そうとしたが、吊った足は力を入れると激痛がして走れそうにない。俺はしゃがんでふくらはぎをさすりながら、目の前に見える我が家を恨めしく睨んだ。
ガンッガンッバサバサッ。
女が公園入り口の車止めにカバンやらスカートやらをぶつけながらやってくる。
「ああんっ、もうっ!」
女のスカートが車止めに引っかかったようだ。しかし、ここで数秒時間が出来たところで俺は逃げ出せないのだ。死へのカウントダウンが少し伸びたところで――。
その時、俺の目に公園の植木が目に入った。そして一つの案を閃いてしまった。
俺は笑いを噛み締めながらその思いつきを行動に起こした。
息をひそめてしばらく待っていると、女が公園から出てきた。辺りをきょろきょろと見回して、俺の姿を探しているようだ。しかし、その目に俺の姿は映らない。
「消えた……?……まさか……」
女は虚空を見つめながらふらふらと歩みだす。
「まさか……デウス……“あの力”を使ってしまったというの……」
あ、名前、お気に召して下さったんですね。
「デウス……私の可愛いデウス……私を置いていかないで……」
女がふらふらと歩き去るのを見送って、俺はゆっくりと植木の中からはい出そうとした。
しかし、人の気配を感じて動くのを止める。
左の方から、スーツを着た男が歩いていくのが見えた。丁度あの女が行った方向に向かっていく。俺の目の前を通り抜けたのに足音はほとんどしなかった。
こんな夜中に、何も持たずにスーツで歩く男はかなり異様に思う。あの女はただの中二病をこじらせすぎた感じだったけれど、この男は本物の危ない人かもしれない。
俺は身震いした。
あの男のせいか、さっきかいた汗が冷えたせいは分からなかった。
男が見えなくなってから十分な時間が絶ったあと、俺は立ち上がり、ゆっくりと歩き出す。吊った左足が痛む。あとまだちょっと背中も痛い。足を引きづり、背中をさすり、それでもなお歩き続けた。
そして、ものの5秒で家にたどり着いた。
自分の家が、公園の真向かいにあってこんなに感謝したことはない。俺は後ろ手でドアを閉め、施錠を3回確かめて、更にチェーンロックも掛けてから靴を脱いだ。