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俺は、初めて触る母親以外の女の人の感触にどぎまぎしながらもそう口にする。その間も目では逃げ道がないかを探り続けた。非常にヤバい人間と関わってしまったという後悔が頭をいっぱいにしていく。
「いいえ、だってあなたは前世の約束に導かれてここにいるはずよ。だってそうでしょう?」
そんな事はない。眠れないから何となく公園に来ただけだ。
「でなければこんなときにこんなところ、ヴァルプルギスの夜にわざわざシュヴァルツヴァルトにいる理由が考えられない。もしあなたに自覚が無かったとしても、それは”組織”に記憶を操られている結果でしかないのだわ。だってそうでしょう?ならあなたはどうしてここに来たのかしら?偶然?いいえ、これは運命なのよ」
女は歌うように抑揚を付けて俺に語りかける。長話の間に、ライターがガス欠を起こしたのを俺は見逃さなかった。火が消えた瞬間、右手を思いっきり下に引き、女の手を振りほどく。ライターは女の手に引っかかって女の顔をかすめ、後方へ飛んでいった。
「きゃっ」
ライターに驚いた女が、バランスを崩して大きく尻餅をついた。
「ごめんなさい!」
俺はあわてて、今さっき振りほどいたばかりの手を女に差し伸べた。なんとかして逃れたいとは思ったが、危害を加えようとは思っていなかったのだ。この人は面倒くさい人間だけれど、多分重度の廚二病患者であるだけで、害はあまりない人だと思う。
「あ、あの、ケガとか無いですか?」
女の手を取り、抱きかかえるようにして起こす。女は思ったよりも重かった。
「私とした事が不覚だったわ……」
女がよろよろと立ち上がる。
「いや、こちらこそ……転ばせちゃってごめんなさい……とりあえず座ります?」
ゆっくりと女をベンチに座らせた。
「痛いとこありますか?」
「いいえ、大丈夫よ」
特に喋る事もなく、気まずい沈黙が続く。出来れば今すぐ立ち去ってしまいたいのだが、転ばせた直後なので憚られた。スカートの埃を払ったり、しわを伸ばしたりする女のつむじをずっと見ていたが、女はどこも痛そうなそぶりを見せない。多分、本当にどこにも痛みなど感じていないのだろう。
俺は、非情と罵られようともこの場を去る決心をした。
「あの、じゃあ俺もう」
帰ります、の『か』を発音しようと口を開いた時、左手から砂を踏んで走ってくる足音が聞こえてきた。二人して振り向くと、公園の入り口から大きな男がすごい早さでこちらに向かってきている。手には何か、長いを握っているようなシルエットが見える。そう、まるで刀のような……。
「天誅うううううううううううううううう!」
大男が手に持ったものを振りかざし、こっちに向かってきた。
「え!?ちょ、ええっ!?」
「うおりゃあああああああああー!」
身の危険を感じてとっさに頭を腕で庇い身を屈めた。がら空きになった背中に容赦なく打撃が入る。
「かはっ」
肺の中の空気が全部吐き出され、たまらず膝を地に着いた。地面に這いつくばって咳き込むが、空気が全然入ってこない。苦しい。
「お嬢さん、大丈夫でござるか?」
男は持っていた竹刀を背中に担いで女に手を差し伸べた。
「あのう……」
「はっはっはっ、拙者のことなら気になさらんでいいでござる。趣味でパトランをしていたところ、お嬢さんの悲鳴が聞こえたのでござってね。あ、パトランというのはパトロールランニングの略でござる。はっはっはっ、ついつい専門用語が出てしまったでござるな」
「いや……あのう……」
「拙者の名前でござるか?はっはっはっ、名乗る程の物ではないでござるよ」
「違うんです、この人、私のソウルメイトなのです」
「そうるめいと……?」
「つまり、私の半身なのです」
「半身?」
「つまり、悪い人ではありません」
「なんと!」
ようやく呼吸が整った俺は、ゆっくりと立ち上がった。
俺の姿を、二人が固唾をのんで見守っていた。俺はそれに気付きながらも、何も言わずにベンチに座った。まだ背中が痛くて喋る気にはなれなかったのだ。
「大丈夫?」
俺はゆっくりと首を横に振る。
「すまぬ…………さっきからこの周辺を怪しい男がうろついていたもので……ついその男が暴行を働いたのではと思ってしまったでござる……お二人が知り合いでござったとは……」
「知り合いじゃないわよ。ソウルメイト」
「そうるめいと」
「そうよ、知り合いなんかじゃ語れないくらい深い絆と運命で繋がっているのよ」
「……拙者不勉強で恐縮でござるが、その『そうるめいと』とはなんでござろうか」
「彼は私の半身で、魂の双子。前世では私たちは一人の人間だったのだったの。それも強力な魔法使いだったわ。でも私の力を恐れた”組織”の連中に無理矢理魂を二つに分離させられ、さらに離ればなれに生まれさせられてしまった。再び出会うまで十六年も経ったわ……。でもね、私たち魂が引き裂かれる前に約束していたの。ヴァルプルギスの夜、シュバルツバルトで会いましょうって。今まではお互い現世の器が幼すぎてここまで来ることは出来なかったけれど、今宵やっと出会えたのよ……」
女は涙目になりながら空を仰いだ。
「ほら、月のない綺麗な夜じゃない。天さえも私たちの邂逅を祝福しているようだわ。私たちは今日、出会うべくして出会ったのよ……」
「そうでござったか……辛かったでござるな……」
信じられないことに、男は鼻をすすり上げながら同調していた。変なやつは変なやつ同士惹かれ合うのかもしれない。
「それでは、拙者はこれにて失礼するでござる。二人の再会をこれ以上邪魔するのは野暮天のすることでござる。はっはっはっ」
男は速やかに去っていった。俺も帰りたいよ……。
「ふふふ。変な人だったわね。ねえ、シナガワ?」
「…………」
女が俺の隣に座ってきた。当たり前のように体を密着させてきて、まるで恋人のように強く手を握られた。普段なら嬉しいはずの状況なのに、女と触れている俺の左側面からは全力で危険信号が発信されていた。これ以上この女に関わらない方がいい、と。
「…………」
「…………」
寄り添って来た割に、女は何も喋らなかった。もちろん俺には話すことなどない。どうやって手を振りほどいて逃げるかを考えていると、遠くから再び砂を踏む足音が聞こえてきた。
「忘れていたでござるー」
さっきの男が戻ってきた。女は慌てて俺から手を離し、ちょっと離れた。俺はその隙にベンチの端まで移動し、女との距離を目一杯とった。
「拙者、こう言う者でござる。これから先、お二人に危険が近づいたら即座に駆けつけるでござる。いつでも呼んでくれて構わないでござるよ〜」
男が小さい紙を、女だけに差し出した。
「あと拙者、正義の味方であるが故、世界の危機の予兆があればすぐに知らせて欲しいでござる!ではさらば!」
女の持つ紙を横から覗き込む。どうやら名刺のようだ。紙の中央に「正義のサムライ(Justice Samourai)」の文字と、携帯の電話番号、メールアドレスが記載されていた。
紙を手に取る。普通の名刺だ。わざわざ名刺制作会社に依頼して作ったのだろうか……。これを頼まれた会社の気持ちを考えると、いたたまれなくなってしまう。
俺は女に名刺を返した。
「ふふふ、サムライさん。いい駒が手に入ったわね」
女は名刺の角を唇に押し当ててにっこりと笑った。そして服と同じようにレースがたくさん付いたカバンから、これまたレースの付いた財布を取り出してそこにしまう。