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四月三十日、夜。黒森公園。
月は無い。星はいくつか見えている。
それ以外は真っ暗な空。
そこに宇宙が広がっていて、その中には今俺の目に見えない星もあって、それぞれが銀河を形成していて、その中にもしかしたら地球と同じように生命体が住んでいる星があるかもしれない。そんなこと、頭では分かるけれども全く実感が伴わなかった。
同じような事は、もっと身近にも良くある。
例えば、DNA。目に見えないものが、俺のすべてを決定しているとは到底信じられない。細胞も、小さな一つ一つが集まって俺と言う形を作っているのだ。理科の教科書でもっともらしく説明してあったが、全く信じられなかった。そもそも命の始まりが、目に見えるか見えないかの精子と卵子から始まっているというのだ。いくら細胞分裂の過程の写真を見せられたところで納得出来るものではなかった。
教科書に載っていたのは、カエルの卵の細胞分裂だったが、丸い卵から何とか期を経て、オタマジャクシの形になる瞬間に何かの力が働いているのではないかと思ってしまった。上手く行き過ぎていると思ったのだ。
しかし、その『何かの力』とは何なのかと聞かれると非常にナンセンスな答えしか思いつきようがなかった。
神だ。神の力で生命が作られているのだ。
劇の最後に、超展開によって物語を収束させる『機械仕掛けの神』のような存在が、この世にも存在するのではないかと、俺は思っている。
首が疲れてしまったので視線を前に戻すと、ペンキの剥げかけた滑り台が目に映った。夜なので全ての色が暗く沈んでいる。確か手摺が黄色で、階段は青、滑り台の部分は赤かったはずだ。自分の部屋の窓から毎日見ているはずなのにはっきりと思い出せないことに少し衝撃を受ける。
毎日見ている物の色を覚えてられないなんて、俺も老けたなーなんて心の中で呟いて、そんな事を思うような年でもないと思い直した。苦笑いしながら冷めきった缶コーヒーを口にした。ただでさえまずい缶コーヒーが、冷えたことでいっそうまずくなっていた。やはり缶コーヒーに関しては、砂糖とミルクで味がごまかされた物しか飲める物がないようだ。
苦みとともに、苦い記憶まで蘇ってきた。二日前、失われた恋の記憶だ。
恋という程大したことはなかったようにも思うが、思い出すのはやはり辛い。相手は隣の席の折井彩花という女の子だった。明るくて、俺にもすぐに話しかけてくれたので軽く好意を覚えていたのだ。
「品川君って黒中だったよね?」そうやって折井に話しかけられたときは嬉しかった。俺の主進行を知っているなんて、俺に好意がある証拠だとうぬぼれてしまった。しかし、そのうぬぼれは一瞬で地に落ちる事になる。
「剣道部の鳥羽君って知ってる?」「シナガワ君と同じ黒中出身なんだって」「入学一ヶ月でレギュラーになったんだよ」「カッコいいなあー」「友達になりたいの」「紹介してくれない?」
その声は、まぎれもなく恋する乙女のものだった。なんて答えたのか、その後どうやって話しを終わらせたのかは全く覚えていない。頭の中が真っ白になってしまったのだ。
気を抜くと、彼女の可愛らしい声をどんどん思い出してしまう。
俺は頭を振って記憶を振り払おうとした。
俺は中身がほぼ残っている缶コーヒーを足下に置くと、ポケットからライターを取り出した。続いてタバコを取り出そうとポケットをまさぐるが、何も入っていない。仕方なしに、ライターを点けたり消したりして遊んでいたが、それもすぐに飽きてしまった。
することもなく、再び星を見上ようと視線を上げた。その時、少し違和感を感じて首を途中で止めた。
滑り台の影が増えている気がした。
何だろう、とじっと見つめていると影は少し動いた。それは人一人分くらいの大きさに分離して、こっちに向かってくる。
あわてて地面に視線をそらしたが、もう遅い事は分かっていた。相手は俺の視線に気付いて、俺に近づいてこようとしている。
自分のことは棚に上げるが、こんな深夜に公園に一人でいるやつなんてマトモなはずがない。俺は自分のつま先を凝視して、相手が通り過ぎるのを待った。俺が見ていたのは気のせいだと思ってくれればいいがーー。
「ねえ」
少し高い、女の人の声が公園に響いた。俺は情けなくも小さな悲鳴を上げた。
「ひ」
これは俺の悲鳴じゃない。女が軽やかな鈴の音のような声で一言を発した。言葉の意味が分からずに、俺は顔を上げてしまった。
「ねえ、火、持ってるんでしょ?」
顔を上げると、腰まである長い髪の、真っ黒い服を着た女が俺に手のひらを向けていた。肌は夜に溶け出してしまいそうな程に白く、反対に大きな目は夜空のように黒く澄んでいた。ふっくらとした頬にはあどけなさが残る。年下か、それとも幼く見えるだけで同い年くらいだろうか。服は秋葉原のメイドが着ているような、やたらと大きなスカートだった。こんな服を着ている人は、テレビの中以外では見た事がない。
「火、さっきライターもってたわよね?」
ぷっくりとした唇が動き、言葉を紡ぎだした。
「あ?ああ」
すっかり見とれてしまっていた俺は、あわてて返事をした。しかし、こんな時間に公園にいるとはいえただの喫煙者のようで安心した。俺はポケットからライターを取り出すと、女の掌にぽんっと乗せてやった。
「つけてよ」
女は貸してもらう身なのに偉そうに命令する。めんどくさかったが、ここで断るのも厄介なことになりそうなので黙って火をつけた。立ち上がり、ライターを女の方に突き出す。すると女は急に、風よけにしていた左手を握ってきた。
「名前を教えて?あなたの現世の名前は?」
「え?品川圭だけど……」
驚いていたせいで、素直に答えてしまった。しかし後悔するより先に、女に右手をライターごと握られる。俺と女は、向かい合って両手を握り合う形になってしまう。
「今からソウルメイトの契約を始める」
『せっせせーのよいよいよい』でも始まるのかと思ったが、そうではないらしい。女はささやくように、それでいて歌うように言葉を繰り出した。
「火の神サラマンドラの名に置いて、我、烈火の魔女フレイムヘブン、汝、我が相棒シナガワケイとソウルメイトの契約を結ぶ。我は汝と共に、汝は我とともにあらんことをここに誓わん。二つに分かれし魂が、再び現在にともにある事を感謝する。これから先、この二つの魂が二度と離れることのないことを、火の神サラマンドラに誓う。ツュンデン・アオフ・ローダーン!」
彼女が変な呪文を叫ぶように唱えると、ライターの火が一気に炎が燃え上がった。女の神は風をはらみ大きく広がる。炎に照らされるその髪は真っ赤で、彼女こそが炎の化身のようだった。
火は渦を巻き、やがてライターから離れ俺たちのまわりをぐるぐると回りだした。
熱い。
炎は俺たちの周りの酸素を容赦なく奪っていく。
汗腺が思い出したように汗を垂れ流してくる。
喉が乾く。
何が置きているのかは分からなかったがこのままじゃヤバい。まず火を消さなければ。
俺はライターの点火レバーから手を離そうとしたが、俺の右手はがっちりと女によって押さえ込まれていて動かせなかった。
周りを回っていた火はすぐに消えた。残るはライターの火のみだ。なんとかして女から逃れようと体を引いたら、女は何を勘違いしたのか左手をほどき、俺の背中に腕を回してきた。ライターは火がついたまま握られている。危ないにも程がある。
「やっとあえたわね、私のソウルメイト……シナガワケイ……」
女は俺の胸元に顔を埋めてうっとりとした口調で言う。
「…………いや、人違いだと思うっすよ」