08. シェリングフォード・ホルムという男
この上なく幸せな朝食だ。
そうレットが考えていれば、階上から降りてくる足音がする。シャツとスラックスだけを身に着けた探偵が、レットを見て片眉を上げた。
「見知らぬ人間が来て三文芝居をしていると思ったら、君か」
「ホルムさん!!」と夫人が勢いよく立ち上がって一喝するので、レットは驚いて肩を揺らした。同様に探偵も肩をビクリと揺らし、そして相棒のウィリアムには冷たい視線を向けられている。
それでも探偵は諦めなかった。やれやれ、と言いたげな顔をしている。
「夫人、その少年は非常に狡猾なのですよ。あなたは優しいご婦人なので理解できないかもしれませんが、泣き落としなど彼にとっては容易いもので──」
「シェリングフォード・ホルム!!」
母親の叱咤にも似た夫人の声にはレットでさえ背筋を伸ばしてしまいそうな気迫があった。ウィリアムは深いため息をついて、明らかに失望の視線を探偵へと向けている。
「シェリン、言い過ぎだ」
「なぜ? 事実だというのに」
探偵は本気で不思議そうに首を傾げている。それをウィリアムは窘めるために口を開いた。
「お前がこの家に彼を呼んだんだ。彼が夫人を懐柔して何になると言うんだよ。名探偵の毎日のスケジュール表を紙面に乗せるとでも?」
「やりかねない」
レットは「そんなことやるかバカ」と思ったが、口を出さずにいた。ここで夫人に泣きつくこともできたが、母のことを思い出して本心で泣いてしまったのだ。それを演技のひとくくりにされたくはなかった。
「すみません、夫人。そしてウィリアムさんも。ホルム氏に疑われるようなことをした自覚はあります。自業自得なんです。怒ってくれてありがとうございます、でも僕は気にしていませんので」
まぎれもない事実だ。というか、探偵からの評価がだいぶ低いというか、最悪女狐と思われている可能性がある。それを知れたことは良かったのかもしれない。探偵との関係性の方向を改めるには良い情報だった。
レットが平然とそう言うと、夫人は本気でショックを受けた顔をした。それから探偵に向かって「あなたの朝ご飯はありません!!」と怒鳴りつける。
「夫人、そこまで怒らなくても……」とレットは宥めようとしたが、探偵は探偵で「紅茶だけで結構」と素っ気なく言うので、レットは頭を抱えたくなった。
さっさとこの素晴らしいブレックファーストを胃に詰めて退散した方が良さそうだ。
「あなたのお部屋に紅茶を運んであげましょう。だからレットさんはゆっくりお食べなさい」
「夫人、紅茶は濃い目で」としれっと注文する探偵を見て、「熱々の紅茶を頭から飲みたくなければ黙りなさい、坊や」と夫人はきつく言った。ウィリアムも「シェリンが悪い。深夜にバイオリンを弾いた時点でお前の負けだったのさ」と笑っている。
探偵はウィリアムの皮肉を気に留めず、レットの方を振り返る。
「レット、君は食事後に私たちの部屋に来るように」
「俺は必要か?」というウィリアムの問いに、「君は不要だ」と拗ねたように探偵は返した。「そうかい、まあ今日は仕事があるからな」とウィリアムは肩を竦めるだけに留めた。
階段を上がっていく探偵を見送りながら、レットは小さくフォークで掬い取ったブラウンハッシュを口に入れる。前世で言うハッシュドポテトはカリカリでとても美味しい。これならレットも作れそうだ。
ふと視線を感じて顔を上げれば、ウィリアムがジッとレットを見ていた。圧のある視線に萎縮しそうになりながらも、「なにか……?」と恐る恐る聞く。
「いや、食べ方が綺麗だと思ってさ」
「私もそう思ったわ。きっとお母様の教育が素晴らしかったのでしょうね」とケトルを火にかける夫人も同意する。できる限り所作は変えるようにしているが、腐っても貴族なので気が緩むとこうなってしまう。
そういう時の常套句はこうだ。
「叔父上は昔、貴族だったらしく。血の繋がりはありませんが叔父上にはたくさんのことを教わりました。食べ方もそうです。偉い方と会食をする機会など僕には無いというのに、不思議ですよね?」
そう言って困ったように笑えば、なんかいい感じに周囲の人は納得してくれるのだ。現にウィリアムも微笑ましげな顔をしている。
「叔父上はきっと君になにかしてあげたかったのさ。家族というのはそういうものだろう?」
「そうよ、愛する子には持っているものを何でもあげたくなってしまうもの。あなたも大人になればよくわかるはずよ」
「そうですか。叔父上には感謝しないと駄目ですね」
そう言って明るく笑えば完璧だ。なんかほのぼのとした雰囲気になるので。だが二階から「夫人、紅茶はまだですか!?」と大きな声が飛んできたので、夫人は負けじと「お湯だけ飲ませても私は構いませんよ!!」と叫び返している。
「まあ騒がしい朝食だが、たくさん食べていってくれよ。夫人も嬉しそうだ」
「はい、ありがとうございます」
ウィリアムからこそっと囁かれた言葉に、レットは心から微笑んだ。




