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嘘つき男装令嬢と偏屈探偵の事件録 〜仮面の新聞記者は真実を語らない〜  作者: 乃間いち葉
第一章 悪魔憑きの令嬢たち

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22. すべての天秤の上で

 

 幼少期からハーヴェイは父親に「鈍間(のろま)」と蔑まれて生きてきた。


「男のくせに軟弱だ」も父の口癖だった。それを宥めてハーヴェイを逃がしていた母が病気で亡くなった頃から、暴力も始まった。成績が(ふる)わないと家庭教師に馬鹿にされた、男なのに母が死んで泣いてばかりの弱虫、スカーレットの方が聞きわけがいい。

 そんな言葉を毎日ぶつけられては、ハーヴェイの心は擦り切れていくようだった。


 それでも、スカーレットに劣等感を抱かずにいられたのは、かならずスカーレットがハーヴェイの隣に来てくれたからだ。

 怒られたら慰め、殴られたら手当てをしてくれた。「あの男はクズよ。ハーヴェイはお母様に似て心優しく生まれたのに、それすらわかっていない。自分の持っているものが一番だと思い込んでいる、道理も知らない猿よ」と。


 それでもスカーレットの立ち回りはハーヴェイよりも上手かった。叱責されたら「その通りです、申し訳ございませんお父様」と淡々と受け入れる。理不尽な難癖をつけられても「おっしゃる通りです。お父様の期待を裏切った私がすべて悪いのです」とふくらはぎを鞭で打たれていた。悲鳴のひとつも上げずに。


 だが、父の暴力が段々とエスカレートしていくと、スカーレットはハーヴェイをかばって殴られるようになった。そのたびにハーヴェイは「ごめん」と泣きながらスカーレットに謝ったが、スカーレットは「これでいいのよ」と微笑むだけだった。


 十三歳のある日、父親がギャンブルで大損をして不機嫌なまま帰ってくると、ハーヴェイを呼びつけた。ハーヴェイはビクビクしながらも父のところに行くと、視線が合った瞬間に頬を殴られた。

 殴り飛ばされ、調度品の角に頭をぶつけた。意識が一瞬だけ遠のく。だが、ハーヴェイの腹に蹴りが入り、焼かれたような痛みに悲鳴をあげると、さらに父はハーヴェイを上から踏みつけた。


「こんな出来損ないが生まれるなんて!!」

「父親をなんて目で見るんだ、親不孝者が!!」

「馬鹿にするな、俺はアレンシア伯爵だぞ!!」


 そう叫んではハーヴェイを靴底で踏みつけてきて、ハーヴェイはこのとき本気で死を覚悟した。だが、扉が勢いよく開いて、「ハーヴェイ!!」とスカーレットが呼んだ。そのまま、スカーレットが「お父様やめてください!!」と叫ぶが、父はそんな娘を躊躇なく平手で打った。その衝撃でスカーレットまでもが壁へと体をぶつける。


「レッティ!!」


「黙れ!!」と父親がまた体を蹴ってきて、焼けるような痛みでハーヴェイは声も出せなかった。殺される、と本気で慄いて、泣きながらただうずくまっているしかできない。


 ――だから、父が背後から火掻き棒で殴られて転がされたとき、ハーヴェイは目を疑った。


 おそらく父も何が起こったか理解しておらず、後ろを振り返ってやっとスカーレットに気づいた。その瞬間、火掻き棒が父を殴り倒す。

 父の頭から血が出たことを気にも留めず、スカーレットはもう一度父の頭を殴った。ゴッ、と人を殴るときの嫌な音が、何度も何度もハーヴェイの耳に入る。


「死になさい、この悪魔!!」


 スカーレットがそう叫んだとき、ハーヴェイはなんとか起き上がってスカーレットに抱き着いた。全身が大きく震えているのに、どうしてもスカーレットを止めなければならないと思ったのだ。


 このとき、ハーヴェイは譫言(たわごと)のように「だめ、だめだ、やめて、スカーレット、おねがい、」とただ繰り返していた。スカーレットの足元には、うめき声を上げながら血を頭から流している父が転がっている。


「ハーヴェイ」とスカーレットが名前を呼び、ハーヴェイをそっと離した。ハーヴェイはやっとスカーレットが正気を取り戻したのだと思い、ぽろぽろと涙を零す。スカーレットがハーヴェイの肩をしっかりと支えて、同じ色の目を見つめてくる。

 だが――。


「この男は今ここで私が殺すわ。だから、ハーヴェイ。私が捕まったら、あのろくでなしの叔父と一緒に牢屋に来て、私に毒を持ってきてほしいの」


 ――スカーレットがなにを言っているのか、ハーヴェイには理解できなかった。


「それを呷って私が死んだら、あの叔父が私に毒を渡したと証言して。私とあの叔父は昔から仲が悪かったから、使用人たちにもそれを証言させてほしいの。そうしたらこのクソ野郎の兄弟ごと、この世から葬り去れる」


 スカーレットが名案だと目を輝かせて言うのに、ハーヴェイの震えが大きくなる。妹はなにを言っているのか、さっぱりわからない。昔から物静かで賢い妹だったけれど、ハーヴェイにも母にも優しい子だったのに。


 ――それなのに、どうしてそんなに嬉しそうに父と叔父を殺す算段を話しているんだ?


「ああ、でも、この世界にまだルミノール反応はないのよね。じゃあ、強盗が入ったことにしようかしら。返り血は水で洗えば誤魔化せる。そうすれば部屋を荒らして、男物の靴に土をつけて足跡を残して……ああ、名探偵がいるのかもしれなかった、ダメね、足跡の比重で体重まで推測される。でも警察に入ってきてもらうときに汚してもらえばいいんだわ。現場保全なんてまだないだろうし、玄関の前の土を水で泥濘(ぬかるみ)にしておけば――」


「スカーレット!!」


 ハーヴェイは叫んだ。震えも涙も止まらないままに、妹に縋りつく。このまま、スカーレットがどうしようもなく遠いところに行ってしまう気がしたのだ。この場所にとどめておかないいけない、とハーヴェイは痛みで呻きながらもスカーレットの服を掴んで離さないようにした。


「……ああ、ごめんね、ハーヴェイ」


 我に返ったような掠れた声音を聞いた瞬間、妹がやっと帰ってきた気がして、ハーヴェイはひどく安堵した。先ほどのスカーレットは、()()()()()()()ではなかった。きっと得体のしれない何かに取り憑かれたのだ。


 その後すぐにハーヴェイは意識を失い、一週間ほど眠り続けることになる。

 そして起きたとき、父は家におらず、「あいつなら出て行ったわ。もう大丈夫よ、ハーヴェイ」と微笑む妹がいるだけだった。スカーレットは父を殺しはしなかった。それでも、二度と父がこの家に入れないように怒りを刻みつけたのだ。




「……スカーレットは昔から賢い子でした。だけど、あの時のスカーレットは『賢い』とは別の言葉で表すことしかできません」


「悪魔に取り憑かれたようだ」とシェリングフォードが言うと、ハーヴェイは曖昧に微笑んだ。


「どこか違う世界の異邦人ではないか、と。双子の僕でさえ疑うほどだったのです。だからこそ、名探偵である貴方がスカーレットに興味を持つことは当然だと考えています」

「異邦人か。確かに、言い得て妙だ」

「スカーレットは自分が父を殺すことで僕を生かそうとした。ですが、それだけの理由であそこまで人を殴れるのか、僕にはわかりません。それを超える憎悪が彼女にあったのか……。ですが、きっとスカーレットは僕に『わからないでいい』と言うのでしょうね」


 その言葉で、欠けていたピースがぴたりと嵌る。


「ああ、なるほど」とシェリングフォードは閃きで頭がいっぱいになった。


 スカーレット・アレンシアは怒りで出来ているのだ。

 父親を殴り殺そうとしたとき、いや、それ以前かもしれない。

 彼女はずっと世界に怒っている。

 ただ、彼女は強固な理性でそれを閉じ込めているだけにすぎない。


 だからこそ、同じ怒りを持つカーリーン・マスタルテの言葉に揺らいだ。

 彼女の根底には怒りがある。


 ――では、その怒りの理由とは?


 ターナー夫人の朝食に呼ばれたとき。

 シェリングフォード扮する浮浪者に銀貨を渡したとき。

 カーリーン・マスタルテと相対したとき。

 兄のミヒャエルに釘を刺されたとき。


 彼女は嘘つきでありながらも、人と接するときの温度差を感じさせなかった。

 振る舞いは違えど、相手の貴賤については考えもしていないようだった。


 ――では、その理由は?


「君は、すべての命を平等なものとして見ているのだな」


 シェリングフォードの言葉に、レットは目を大きく見開いた。ああ、合っていたと。シェリングフォードは零れ落ちそうになる笑いをそっと噛み殺した。


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