18. 藻搔くように首をしめていく
レットはそれから、毎朝きちんと出勤していた。
代わり映えの無いルーティンワーク。ネタを探して首都バーナスを駆け巡る。聞き込みをして、ときに邪険にあしらわれながらも、自分の足で稼いだ情報を紡ぎあげて記事にする。あれから二週間経つが、探偵も助手も出会うことはなかった。そのことにどこかホッとしている自分を、レットは意識していた。
令嬢たちの悪魔憑きの事件も、全員が精神病棟に送られると話題は鎮火した。だが、貴族の間では同じようになるのではと怯える令嬢が多くいるらしい。その親もまた、娘が悪魔憑きにならないように、と頻繁に教会に通っていると聞く。この事件で益があったのは教会だけだろう。
そして、カーリーン。
彼女からの接触はまだない。「レットの選択を待っている」と言っていたため、レットがなにかしらのアクションを起こさない限りは静観しているのだろう。
灰色の街の中で、レットは何も為せずに生きている。
カーリーンの怒りは、レットの身の内で燃え盛る炎に似ていた。苛烈で鮮烈で、揺らぐことのない青い焔だ。
彼女の気持ちがわからない、などとは言えない。レットも性別に囚われ、それから抜け出そうと男のフリをしている。それを思えば、彼女はレットよりも正直だった。女のままに、女の苦しみを救おうとする誠実さすらあったのだ。
レットは自分がいかに卑怯で小心者であるかを思い知らされた。自分だけが息苦しい世界から抜け出せればいい、とさえ思っていたのだ。賢く振舞っていたつもりだったが、小賢しい欺きでしかない。
結局、令嬢たちの悪魔憑きについて記事にすることはできなかった。貴族の醜聞を平民の新聞記者が取り上げることなどできるはずがない。それでも、レットは頼まれたって記事を書こうとは思えなかった。
ゆっくりと気道を塞がれていくような閉塞感が、ずっとレットに付きまとっている。
レットはもっと他にやれることがあるのではないか、と考えていた。だが、何をすると言うのだ、と己の冷静な部分が囁くのだ。カーリーンの誘惑に乗る? もし彼女がこの世界の最恐の悪役だとしたら。
——レットが対抗できる相手ではない。
「叔父様」
レットは社長室を訪ねた。大量の原稿に埋もれそうになっている叔父は、ずれた眼鏡を押しあげて「なんだ?」と聞いた。実の父親よりも、よっぽど叔父のローレルの方がレットに情があった。それが死した妹への悔恨であっても、身内の温かさを教えてくれたのはこの叔父だけだった。
「ハーヴェイから荷物が送られたきたので、高級な茶葉を淹れてティータイムにしましょう」
「ハーヴェイは私には手紙のひとつも送らないくせに……」と苦々しく叔父は吐き捨てた。レットは少し笑いながら、奥にある暖炉の天板にケトルを置いた。そのまま、茶葉をティースプーンでポットに入れる。ミルクも持ってきた。叔父の部屋に高いティーカップはないだろうから、先に熱湯を入れるとひびが入って壊れてしまう。
ミルク・イン・ファースト。レットがこの世界に生まれ落ちて、初めてその言葉の意味を理解した。
沸いたケトルで茶葉を蒸らしても、叔父の手は書類を捌いていた。レットは応接用のソファに座り、カップに先にミルクを入れた。そして、紅茶を注ぐ。その香りが広がったところで、叔父の手はようやく止まった。
席を立ち、レットの向かいに座る。
「——それで、レット。私に何を頼みたいんだ?」
その言葉にレットは唇で弧を描いた。さすが叔父、姪の性格をわかっている。
「嫌ですね、叔父様。まるで賄賂でも渡されるかのような顔をしてる」
「賄賂は紅茶だろう。お前がいやに殊勝なとき、必ず事件が起きる」
「ひどい言いぐさです」
「さて、時は金なり。何がしたい? いや、知りたい、か?」
「カーリーン・マスタルテについてご存じですか?」
「ああ……」と叔父は記憶を探すように視線を斜めに向ける。
「センセーショナルな事件だったから、いくつかは覚えているが。うちでは記事にしていないな」
「彼女はどんな女性だったんでしょうか?」
「私がアレンシア家を出てからの事件だからな。ただ、デビュタントのときは話題になったものだ。マスタルテ男爵家の黒薔薇、とまで持て囃されていた。令息たちは浮足立っていたみたいだ。ただ、社交界に出てすぐに子爵家に後妻として嫁入りした、ぐらいしか覚えていない」
「では、無理心中はどのように行われたのですか?」
「子爵を殺してから、屋敷に火をつけて毒を呷ったそうだ。焼け跡から四名の遺体が出たと聞いている。ちょうど子爵夫妻と侍従長と侍女長の消息が分かっていないから、その四名だと推測されている」
「それ以外に行方不明者はいないということですか?」
「どうだかな。子爵家は裕福だったから、侍従も侍女も出入りは多かったと聞いたが」
「すべてを辿ることはできない、ということですね……」
レットがミルクティーを口につけると、同じように叔父もカップに口をつけた。「高級な茶葉はもう口に合わなくなってしまったな……」とぼやいている。
「しかし、子爵家はなにをしてそこまで裕福になっていたのですか?」
「土地の売買を行っていた、と聞いたことがあるが。ただの噂だろう」
「土地? 子爵の地位でそんなに土地を持っているものなのですか?」
「さあな」
「……彼が手にしてはいけない領域に手を出していたとしたら?」
「レット、これ以上の深入りはやめなさい」
叔父がぴしゃりとそう言い放つ。なので、レットも微笑みながら「そうですね。くだらない憶測でした」と嘯いた。
叔父の疑心に満ちた視線が痛いが、レットはそのままミルクティーを飲み干す。
——無理心中を自作した彼女は、明らかに強大な権力を得ているようだった。さらに黒幕が潜んでいるのか、彼女自身が黒幕なのかはわからない。ただ、カーリーン・マスタルテは夫であった子爵に憎悪を抱いている。
それに子爵も羽振りが良かったと聞く。疑問が増えるばかりだ。さすがにテーテ川の河川敷にいる情報屋に聞くのもはばかられた。彼女が教授とつながりがあったのなら、翌日テーテ川に死体が浮かぶだろう。それはレットでなくても、レットが関わった人間すべてが対象に入る。内密に話せるとしたら、叔父か探偵しかいない。
——いや、探偵にもう会えるわけがない。
レットは馬鹿な考えを振り払い、ティーポットから濃い紅茶を注いだ。
ヒーローと嘘つきは相容れない。
あの光の側にレットが加わることなどできないのだ。
今までがただ、イレギュラーだっただけ。
紅茶に口をつけても、苦味が舌を刺す。でも、これぐらい苦くていい。息苦しい世界にお似合いの味だ。




