17. 交わらない二元論
カーリーンの申し出に、レットは固まって、ただ唇を戦慄かせるしかなかった。あれだけ目まぐるしく動いていた思考が、馬鹿みたいに固まって真っ白になる。
手を取るべきではない。それは理解している。それでも、その誘惑はこの世界で一番甘美に響いた。
狼狽えるレットを見て、カーリーンは微笑んだ。どうしようもない幼子を見つめるような顔で、「あなたの選択を待っているわ」と席を立つ。
そしてレットを振り返りもせず、奥へと続く扉を開いて去っていった。
ヒールの音が遠ざかるにつれて、レットの思考が緩やかに回り始める。大きく揺さぶられた感情が、今になって肩に重しのようにのしかかってきた。
テーブルに手をついて、体を起こす。フラフラと歩きながら、入ってきた工場の方につながる扉を開けた。
「──ああ、」
そこに立っている人影に、レットはただ乾いた声で笑った。
──ああ、なんで忘れていたんだろう。
この名探偵の共通設定として、『変装』が得意だと知っていたではないか。
レットの乗る馬車の前に飛び出し浮浪者。あれは、レットがあの馬車に乗っていたか確かめるためだ。
「……物乞いがお上手なんですね」
レットがそう言うと、探偵は手の中のコインを指で弾いてレットへと飛ばす。レットはそれを手のひらで受け止めて、きらきらと眩い銀貨に眼差しを向ける。かすかな熱が残っているのは、探偵が握りしめていたからだろうか。
「すべて聞いていましたか」
「ああ」
「ですよね。あなたはそういう人ですから」
知ったような口を、と思ったのか探偵が眉根を上げた。
「それで、どうされるんですか? お兄様に告げ口をする?」
「あの女は国家転覆を狙う国賊でしかない。過激で排他的な思想は危険極まりないものだ」
「……彼女は明確に国家転覆をするという言葉を口に出しましたか?」
レットがそう言うと、探偵はわずかに目を見開いた。
「殺された女の数だけ殺すと」
「誰に殺されたか、誰を殺すか言いましたか?」
「文脈からして男だと明白だ」
「ならなぜ、男は女を殺しても『激情』という言葉で社会に許されるのですか」
殺人罪の量刑は男女ともに同じだ。そこに差はないが、世間の反応は違う。
『頭に血が上って』妻を殺してしまった夫と、『不実にも冷徹に』夫を殺した妻。そう世間では見られてしまうのだ。
しんと静まり返る静寂が耳に痛い。だが、レットは俯いていた顔を上げた。
「なぜ女を殴っても『躾』になるのですか? 私達は人間ではないからですか?」
「飛躍的な論理を話している場合ではない。あの女は殺人をすでに犯している」
「自分を殺そうとした相手を殺した。それだけで、それだけで、女だけが世間に石を投げられるというのなら、」
言葉尻が揺れる。どうしようもなく、胸が痛くて仕方がない。
「私達は生まれながらにして罪人で、檻に捕らわれるべき存在ということでしょうか……」
探偵は唇をぐっと噛み、それから吠えるように叫んだ。
「あの女の肩を持つ気か!? 君はもっと理知的で、道理を知っていたはずだ!」
「あなたにはわからない!!」
レットはその言葉に瞬間的に言い返した。これほどの大きな声を、いつぶりに出しただろうか。
「何を知れと言うんだ!?」
「私があなたの苦しみをわからないように、私達の苦しみをあなたたちがわかるはずないんです!!」
ふらりと体が揺れて、レットはしゃがみこんだ。こんな姿を探偵に見せたくないのに、震える体がそれを許さない。
「虐待をされていた娘が、実父を殴り殺した。この場合、同情を受けるのは父の方です。たかが殴ったぐらいで殺されるなんて、恩知らずの娘もいたものだと。誰のおかげて生活ができていたのかもわからない、悪魔のような娘だと。父は庇われます。社会から、怒って手が出てしまっただけなのに、そんな非道な仕打ちを受けるなんてと。それを理解した上で、私は父を殴り殺そうとしました。なぜかわかりますか?」
探偵がただレットをじっと見据えている。啞然としたのか、それとも恐怖を感じて黙ったのかはわからない。でも、レットの話をその耳にねじ込まなければ、この身を焦がすような怒りは収まらない。
「兄が、双子の兄が殴り殺されそうになったからです。私はいなくなってもいい存在ですが、兄は違う。十三歳のあの夜、私は、私自身の命の軽さを知っていたがゆえに、父を殺そうとしました。兄のためでもあったけれど、純粋に憎かった。母を苦しめ、男というだけで伯爵家の主になり、私達を脅かすあの悪魔が……!!」
身を割くような憎悪がまだ胸の奥で燻っている。殺してやりたかった。私達のすべてを壊そうとした、実父が憎くて仕方がなかった。
母が儚くなる前に残した「弱くてごめんなさい」という言葉が、まだ耳の奥で残響する。
――母は決して弱くなかった。でも、弱い存在でいなければ許さなかった。
「すべての苦しみが女の身であるから、とは言いません。でも、どうしても否定はできない……!!」
弱い存在だから享受できる恩恵もある。
だが、弱い存在だから侮られ嬲られることも多くある。
だからこそ、絶対に変えられないものを憎んでしまうのだ。
レットは足に力を入れてゆっくりとと立ち上がる。おぼつかない足取りで探偵の横を通り過ぎ、言う。
「あなたは、わからないでください。わからなくていいんです。それが、私から言える最後の言葉です」
探偵は身じろぎ一つもしなかった。ただ、そこに立っていた。レットは工場の焼けた扉をくぐり、最後の挨拶をする。
「……あなたと捜査ができたこと、本当に楽しかったんです」
そう言って、レットは歩いた。
予想通り、行きのときの御者がレットを待っていた。乗り込んで行き先を告げることなく、辻馬車が動き出す。この馬車はきっと叔父の家に向かうだろう。
「待っている」とカーリーンは言った。しばらくレットと接触はしないということだ。レットの中に置いていった時限爆弾の秒数が減るのを、きっと笑顔で待っている。




