15. 無慈悲なファム・ファタール
「……私になにか御用でしょうか?」
強張るレットの声音を聞いて、その麗しき女性はフフッと笑った。毒々しいまでの赤いルージュが笑みを象る。それが美しく見えるのだから、レットは思わず屈してしまいそうになる。
「ええ。だからおかけになって。あなたのお好きなお茶を用意したわ。ダージリン、ミルクはなし、でしょう?」
「ありがとうございます。もしや私のファンでしょうか?」
「ええ、そうなの」と彼女は微笑んだ。レットの虚勢をすぐさま打ちのめし、ヒールで踏み躙る余裕すらある。到底レットの勝てる相手ではない。
諦観を抱えたまま、大人しく彼女の向かいのソファへと腰をかける。
「あなたの新聞記者としての実力も、平民への福祉の実施も尊敬しかないわ。多彩、とはまさにこのことね」
「いえ、世には私よりも多彩な方が多くいらっしゃるでしょう。それに、輝く星のような美貌すらも持っている」
「見え透いたお世辞でもあなたからだと嬉しくなってしまうわ」
レットの前に紅茶を手ずから注いでくれる彼女は、高貴な貴婦人にも毒婦にも見えた。首まで詰まった黒いドレスは禁欲的にも見えるが、豊満な体のシルエットにぴったりと添い、逆に扇状的だ。
レットは注がれた紅茶を見下ろした。ゆらめく琥珀色の底には何も見えない。
「無粋なものは入れてないわ」
こてり、と傾げられた首の角度すら計算されつくされているのだろうか。レットが男であったのなら、毒入りの紅茶も気にせず呷ったかもしれない。
「粋なものは入れていらっしゃる?」
「ふふ、おかしな人。ほら、わたくしも飲んであげるわ」
同じティーポットから紅茶を注いで、彼女はそのカップを優雅に傾ける。形の綺麗な唇がそれに口づけて、喉が小さく上下した。
──仕草からして上流階級の人間、あるいは上流階級の教育を受けさせられた恵まれた人間か。
レットは静かにティーカップを持ち上げて、同じように紅茶を飲み込んだ。ここで死んだらレットの負けだ。ただ、目の前の女性がレットの想像通りの人間ならば、そんなつまらない真似はしないだろう。
「なんとお呼びすれば?」
「想像がついてるんじゃない?」
「まさか」
「あなたがつけてみて?」
「では、ファム・ファタールと」
ファム・ファタールは「男を破滅させる魔性の女」という意味の言葉だ。
レットの言葉に、彼女は嬉しそうに破顔した。おかしくて仕方がないというばかりに、ころころと鈴を鳴らすように笑っている。
「あなたは本当に面白いわ。わたくしを破滅的な女と呼ぶなんて!」
「破滅的な女ではなく、あなたに逆上せあがった殿方が勝手に自滅していくという意味だったのですが」
「平然と嘘をつくのね、あなた」
すっと細められた目は、蛇に睨まれた蛙を想像させた。場の空気が凍り、レットはその中でただ真っ直ぐにファム・ファタールを見つめることしかできない。そのレットの顔を見て、彼女はおかしくてたまらないとばかりに笑う。
「ねえ、あなた。すべての真相を知ったんでしょう? わたくしに教えてちょうだい。あなたから見た彼女たちの事件を」
これは明確な命令だった。レットが拒否すれば、きっとこの場から生きては帰れない。そういったどうしようもない圧力がこの空間には在ったのだ。
「……結論から言えば、この世界に悪魔はいません。いるとしたら、人間の心に巣食う悪をそう呼ぶべきです」
「心の弱い令嬢たちのことを言ってるの?」
爪紅で彩られた白い指が組まれる。彼女は楽しそうにレットを見つめて、正しい答えを求めていた。
「いえ。……持論ですが、すべての人間は心の中に悪を飼っています。大なり小なり、善人でさえその芽は存在します。身内に優しい悪人が居るように、人間は悪と善を内包している──と私はこの件に対して思いました」
「性悪説を唱える学者が聞いたら憤死しそうね。それで、今回の事件の犯人は誰だと思う?」
「社会の在り方です」とレットは紫の瞳を見つめて、完全に言い切った。わずかにそのヴァイオレットの目が見開かれて、不満そうに細められる。
「望まない結婚を否定する令嬢、家門のために娘を売り飛ばす親、そしてその弱みにつけ込み一連の騒動を起こした黒幕、そのどれが一番悪いのか? 黒幕はベラドンナを令嬢方に渡しました。だけど、黒幕は彼女たちを利用するつもりはなかった。──いえ、利用はすれど売り物にするつもりはなかった。私はそう考えています」
レットは白のポーンを盤上へと進めた。だから、次はそちらのターンだと女性を見つめる。
そのレットの視線を受けてもなお、彼女はそよ風を浴びたように泰然としていた。
「どうかしら。見世物小屋にするつもりかもしれないわ。あるいは、精神病棟と言って裏で情婦として売り飛ばすかもしれない」
「それは、私にはわかりかねます」
「スカーレット、あなたはもっと賢いと思っていたわ」
「私はただ、人と視点が違うだけの凡愚にすぎません。それすらも身に余る賛辞です」
「わかっているのに知らないフリをする。知っているのに、見ないフリをする。卑怯ね」
「私はそのように矮小な人間なのです」
フフ、と彼女は笑った。手で顔を覆って、俯いて肩を震わせている。レットのポーンは黒のルークに取られてしまった。だからこそ、敗北しか残っていない。クイーンが一手を指すだけで、レットはプレイヤーとしての権利を剥奪されるだろう。
「……ああ、本当に、あなたはよくわかっているのね」
顔を上げた彼女の目は、ゾッとするほどに危うい光を湛えていた。盤上をひっくり返すほどの狂気すらも感じて、レットは乾いた口をわずかに開く。
「賢しい女は嫌われる。殴られて、蹴られて、踏みにじられる。ねえ、あなたもあの痛みを知っているでしょう? わたくしはね、灰皿で殴られたことがあるわ。『小賢しい女』と、あの男は苛立っていた。自分より賢い女がいるのが認められなかったのね。わたくしは床に倒れて、泣きながらごめんなさいと謝った。靴底で傷口を踏まれながら、何度も何度も謝ったわ。そして次の日、あの男は『悪かったよ』と言ったわ。まるで罪悪感のない目でね」
黒いレースに包まれた彼女の手がレットへと伸ばされて、肩を撫でる。慰撫するように、そしてその皮膚の下に埋もれた憎しみを確かめるように。
「ねえ、あなたもそうだったでしょう? スカーレット」
──呼び覚まされたくない過去が叫んでいる。
ファム・ファタールの手によって、自らを破滅に追い込むような憎悪が燃え上がり、レットのすべてを支配しようと舌を伸ばす。
痛み、苦しみ、屈辱、憎しみ、悲しみ、そして。
──抗えない暴力性にすら、囚われてしまうのだ。
次回更新は明日の21:00です。ネトコン14締め切りに合わせて今月末に完結する予定です。




