13. か弱きレジスタンス
アンリはポツリポツリと言葉をこぼし始めた。最初は辿々しい言葉が、どんどんと雄弁になっていくのを、レットはベッドの縁に腰掛けて静かに聞いていた。
「私の婚約者は、リンジーよりはマシだったわ。三つ上の伯爵家の跡取りだもの。でも、親しい女性がすでに二人いるの。一人はすでに身籠っているわ。それなのに、私はそんな人に嫁がなきゃいけない。彼はね、『正妻は君だけで、君との子供がこの家の後継ぎになる』と優しく言ってくれた。……でも、どうしてその言葉を信じられると言うの? 愛人がいることは普通のことよ。でも、婚前から不義を働くような人がどうしてその言葉だけ誠実だと思えるの? 愛した人を切り捨てられる人のに、なぜ私が切り捨てられないと言えるのかしら?」
アンリの考えは真っ当だった。レットはこのとき、正直に自分を恥じた。令嬢は何も考えていない、結婚相手と美貌に執心している存在だと考えていたのだ。
レットはある種、自分だけが異端で特別だと思っていた。だが、令嬢たちもしっかりと頭で考えて、その思想をただ微笑みの下に隠しているだけだった。
「リンジーはあの日のお茶会で泣きじゃくっていた。あの従兄弟は家を継げるのに、自分は年老いた男の後妻だなんてどうして、って。あの従兄弟のために売られるなんて嫌、って本当につらそうに言っていた。だから、私も言っちゃったの。『私の婚約者はすでに身籠った親しい女性がいるのよ』って。涙が出てきて止まらなかった。そうしたらジェーン──マスカート男爵家の子よ、その子もまた、商家の息子に嫁がなきゃならないと泣き出した。その人も暴力的で恐ろしい、生意気だと会うたびに怒鳴られる、と」
リンジーの不幸を連鎖に、彼女たちは己の不幸を面前に叩きつけられたようだった。リンジーは年老いた男、アンリは不誠実な婚約者、ジェーンは暴力的な婚約者。
──この時代によくある話で、よくある悲劇だ。それでも、彼女たちにとっては生きるか死ぬかの話なのだ。
「男爵家のメリーもまた、格差婚だから義母が怖いと震えていたわ。すでに暴言を何回も吐かれたらしいの。『うちの品格にふさわしくない』『死んでしまえばいいのに』って。メリーは泣きながら婚約者に話したけど、彼は『母上はああいう人だから』って取り合ってくれないと言っていた」
レットは静かに耳を傾けた。ありふれた女性たちの悲劇を。そして唯一無二の苦しみを。
「そうしたら、唯一パーシヴァル伯爵家のキャサリンが宥めてくれようとしたの。だから、私たちは怒ったわ。あのときはみんな冷静じゃなかった。伯爵家のキャサリンに何がわかるの!? とリンジーは怒鳴ったわ。そうしたらね、キャサリンまで泣き出した。箍が切れたよう、とはああいうことを言うのね。笑いながら泣いてた。あの子は公爵家への輿入れが決まったところだった。オーディーン公爵家と言えばわかるかしら?」
「……婚約者を三人亡くした方ですよね。次々にご令嬢が亡くなったというのに、調査の手はなぜか及ばないと」
「そうよ。公爵が殺してると聞いたわ。伯爵家以下の家格の令嬢と婚約しては、彼女たちをいたぶって殺して、慰労金を家に払うんですって。ねえ、私たちってなんなのかしら? たった二百五十ラインで換えが聞く存在なの?」
二百五十ライン──レットの前世でいうところの五百万だ。家格の低い貴族への慰謝料としては妥当な金額だった。それでも、一人の女性の命の値段とは到底思えない金額だ。
「みんな、怖がってた。それからね、一番におかしくなったのはキャサリンよ。すでに一回婚約者に殴られていたらしいの、急に呼吸がおかしくなった。ぜえぜえと音を出して首を掻きむしっていて、私も本当に怖くなったの。そうしたら、リンジーもジェーンもメリーも同じようになって、私もおかしくなった。呼吸ができないの。苦しくて苦しくてしょうがなくて、神様の罰があたったのかと思った。婚約者への不満がいけなかったのかしら。そして、みんな倒れたと後から聞いた。リンジーがおかしくなったのはその後よ。だから、だから、本当に悪魔が取り憑いたんだと思った……リンジーの不安に悪魔がつけ込んだんだって、思って……」
アンリが涙混じりに声を震わせるので、レットはハンカチをバッグから取り出して渡した。アンリは少し逡巡したが、それをそっと受け取って眦に押し当てた。
「ある夜だった。窓枠になにかが当たる音がしたの。鳥かしら、と窓辺を見に行ったら、窓枠に手紙が挟まれていたわ。中には『リンジー嬢は正常です。ただこの地獄から逃れるために演技をしているのです。あなたもあなたの地獄から逃れたいと願うなら、私達はあなたを救い出します。助けを求めるのなら、明後日の二十四時に窓を少しだけ開けていてください』と書いてあった」
「……あなたは応じたのですね」
「そうよ。少しだけ、ドキドキしてた。この苦しみから逃してくれる王子様を夢見ていたの」とアンリは少しだけ恥じらいを含ませた笑みを見せる。
「でも、その夜に現れたのは女性だったわ。ちょうど非常用の梯子から私の部屋へと入ってきた。そして、私に計画を話してくれた」
──その女性は、同じ女性たちの苦しみを取り除くために活動していると言っていたらしい。そしてそのボスは素晴らしい方だとも。
リンジーはその女性から特別に調合されたベラドンナを点眼し、精神の高揚により演技を成し遂げた。だからこそ、アンリも他の令嬢たちも同じことができるはずだと。
そして、アンリたちが「悪魔憑き」として噂されるようにして、その女性のボスが作った精神病棟に収監されるように誘導すると約束をしたらしい。
「……ベラドンナの危険性は知っていた。でも私、興奮していたの。誰かを演技で欺くなんてこと、したことがなかったから。歌劇の主演みたいに、悪魔憑きを演じるなんて、こんなこと二度と出来ないと思って。でも、ベラドンナのせいで私の目はおかしくなって、本当に私はなんて選択をしたのだろうと後悔したわ。目が見えなくてもがいてたら窓から落ちたのはびっくりしたし、本当に痛かった。でもね、芝生に落ちて痛みで泣いていたときに、誰かの声が聞こえたの。『悪魔憑きだ』って。その時、私は確かに主演の女優だったわ。興奮で手指が震えるぐらいに、誰かを騙すことに喜びを感じでいた」
その興奮にはレットも覚えがある。誰かを騙す罪悪感とともに、誰かを出し抜く高揚感はついて回る。それを知ってしまえば、後には戻れない。
「ねえ、スカーレット様。私たちを罰しにきたの? 天使と呼ばれるあなたが、悪魔憑きの私たちを」
アンリは諦めたように笑った。崖に追い込まれた人間のように、この世への諦観を滲ませている。
「……いいえ。いいえ、決してそんなこと、できるはずがない……」
レットは無力感に苛まれながらも、弱々しい声で返した。レットだってアンリのように救いの手を差し伸べられたなら、迷わずに取ってしまうような時期があったのだ。
「この事件は、悪魔憑きの令嬢たちが精神病棟に連れて行かれて幕を閉じる。とてもおかしな事件として語り継がれることはあれど、少女五人の壮大な演劇を知る者は私ひとりです。ですが、あなたの言う救いの手が、地獄へ誘う手かもしれない。それを私は調べます」
「女神様は、悪い方ではないわ。私たちの苦しみを理解してくれた」
アンリは目が見えないはずなのに、真っ直ぐにレットを向いて言った。その無垢な信仰になぜこうも心が痛むのか、レットにはもうわからない。ただ、令嬢の肩にそっと触れた。
「それに、ぜひお会いしてみたいのです。それほど立派なお方ならば、ぜひアレンシア家の天使の名を返上しなければ」
レットのジョークにアンリはふふっと笑ってくれた。
「リンジー嬢の精神病棟に行く日付をご存じだったりはしませんか?」
「今日の夜だと聞いたわ。人目を憚って連れて行ってくれるらしいの。私は明日の晩に行く予定よ」
「そうですか。素敵な旅立ちになることを祈ります」
「ありがとう、スカーレット様」
レットは静かに部屋を出て、侍女に「ありがとう、素敵な思い出になったわ」とさらに金貨を握らせた。それから、子爵に挨拶をして、家を出る。すでに午後へと差し掛かり、太陽が傾いていた。レットは叔父の家に戻りながらも、考える。
ボスの正体があの教授──つまり、この世界の黒幕だとしたら。
彼女たちはもっと凄惨な目に遭うのではないかと。否応なしに犯罪に巻き込まれて、命を落とす可能性だってある。
──もっと情報が必要だ。




