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人獣見聞録‐猿の転生 Ⅵ・春にして君を離れ  作者: 蓑谷 春泥
第1章 ナイト・オブ・ザ・リビングデッド
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第5話 死霊

(にわ)かには信じがたいな」

 空気の淀んだ狭い部屋の中にぽつりと言霊が浮かぶ。皇族の証である妖瞳(オッドアイ)を松明の明かりに煌めかせて、帝が呟く。

「死体が歩く奇病など……。いや、こうして現に実物を持ってこられると、信じざるを得ないな。まさか処刑済みのラバスティーユが、生き返り東国まで渡っていたとは……」

 帝が小さく独り言ちる。「思い出さしてしまうな。崇独法皇の伝説……」

「死者は蘇らない。サガ。ラバスティーユは意志なくただ蠢く肉の塊となって移動してきただけ。崇独帝の祟りは迷信に過ぎない」

「何なんだ、その崇独帝ってのは」

 隊舎に届けられたラバスティーユの遺体を前にして俺はネヴァモアが言った言葉を聞き返した。狭い解剖室で屍を取り囲むのは、俺とネヴァモアと帝、そして特別に外出の許可を得たリリの四人だった。リリが口を開く。

「崇独法皇は80年ほど前に帝位についていた人物です。他の皇族の陰謀によって半地下に追放され、そこで死去した。その時の恨みから、彼は薨去した後も怨霊として地下にとどまり続け、黄泉の軍勢を連れて地上を襲撃する機を待ち続けている、と」

「実際、その後半地下には〈陰府法王(よもつおおきみ)〉という指導者が現れたのだ。法王は冥王の臣下を自称し、無政府状態を常としていた半地下に初めて統治機関を作った。そして影の首謀者として、地上でも数々の事件を引き起こした」

「その祟独法皇こそが、〈陰府法王〉であったと?」

「一説にはな……。〈陰府法王〉の正体ははっきりわかっていないんだ。実在したのは確かだが、既に死没している。その彼を葬った探偵も、それから長らく行方不明だったからな……」

「でも、〈法王〉が活動していた期間はおよそ30年前から数年間。年代的につじつまが合わない。崇独帝は在位中既に80歳近い高齢だった」とネヴァモア。

「たしかに、それなら〈陰府法王〉は当時ですら130歳を超えていることになるな」

この世界でもそれほどの長命は異常なはずだ。少なくとも自然な寿命では達せられまい。

「どうだろう、世の中には不思議なほど長生きな人間もいるからな? 地下に追いやられた法皇は、死霊術や甦りの禁術の研究に傾倒していたという噂もある」

帝が悪戯っぽくネヴァモアにウィンクする。

「不老はともかく、死後の復活はありえない」ネヴァモアがバッサリと切る。「与太はよして、本題に入ろう。解剖の結果は?」

「ましら君の持ち帰った遺体を検分しましたが、どの肉体からも同一のビールスが検出されました。私も実際に拝むのは初めてですが、『戸喫(ヘグイ)の病』と見て間違いないでしょう」

「『戸喫の病』?」

帝が怪訝そうな顔で聞き返した。ネヴァが横で肯く。

「古い言葉では、ネクロウィルス感染症。生身の人間や死体を媒介に、唾液による血液への接触感染を通じて広まる伝染病。感染した死者は操り人形のように動き回り、見境なくウィルスをまき散らす」

「大陸でも珍しい病気で、私も文献でしか読んだことがありませんでした。それも半ば眉唾の怪しい言説で、死霊術の類として扱う文書もあったくらいです。歴史的に見てもほとんど報告の無い事例ですよ」

「伝承レベルなら、そういう言い伝えは各地にあるな」帝が顎に手を当てて独り言ちる。「我々の住むこの大地の下、〈半地下(アガルタ)〉や地底回廊よりも遥か深い場所に、『黄泉(よみ)』や『根の国』と呼ばれる死者の帝国が存在する。そこは()餓鬼(がき)と呼ばれる使い魔で溢れており、時折冥府の蓋の隙間から、地上に漏れ出てくる、と……」

「ジパングに限らず、世界中にそういう神話は存在する」

 ネヴァが肯定する。

「だが現実の疫病としての、発生頻度は異様に低いわけか。しかし不思議だな。噛み傷からしか感染しないとは言え、罹患者が自然快癒もせず動き回り続けるなら、被害はもっと拡大していてもおかしくないんじゃないか?」

 実際ラバスティーユたち囚人は半年間も動き続けたのだ。あのスピードで地底回廊から東国まで徒歩で移動してきたのだとすると、それくらいの日数はかかっていたはずである。回廊からの連絡が途絶した時期とも重なる。

「この世界にはアリエスタ族がいますから、伝染病の類はほとんどすぐに鎮静化するんですよ。流行病も局所的なものに限られます」

「じゃあアリエスタのいない土地ではどう対処してたんだ? 亡者は狂花帯も使えるし、討伐するのは相当骨だと思うぞ」

「そこは気になるところだな」帝が肯く。「ネヴァモア卿、そういうケースを知っているか?」

 ネヴァが水色の瞳を向ける。「私が各地を旅していた時、二回ほど戸喫(ヘグイ)の流行に立ち会ったことがある」

 彼女は眼下の死体に目を戻し続けた。「一度は現地のアリエスタ族によって鎮静化された。もう一つは北方の(ひな)びた(むら)で起こった。その時は中央政府の判断でスコルピオ族の中隊が派遣され、邑ごと感染者を焼き尽くすことによって事態を収束させた」

「邑ごと……? 生きた村人ごとか? いくらなんでもやり過ぎだろ。疫病の被害より役人の対応による被害の方が大きいじゃないか」

「宮廷の人間はそう考えなかった」ネヴァモアが首を振る。「そしてその裁量はそれほど見当違いでもなかったと思う。ネクロウィルスが感染する相手は死体だけじゃない。生きた人間さえ蝕む」

 ネヴァモアは俺の顔をじっと見据えて告げた。「戸喫に罹った人間は死ぬ」

「なっ……‼」

 俺とリリが揃って声を挙げる。ネヴァモアが諫めるように片手を挙げた。「安心して良い。迅速に殺菌しなかった場合の話。あなたはリリが適切に処置してくれたから、死なない」

「そっちの情報をー、先に言ってくださいよ……」

 リリがほっとしたように息をついた。

「で、患者が完全に亡者化するまで、感染からどの程度の猶予がある?」

「おおよそ3日間。本人の免疫力や感染後の対応次第では、もう少し保つこともある。死人に噛まれた生者は脳をウィルスに侵され理性を失い、見境なく他者を攻撃するようになる。この時彼らは既に感染力を持っており、噛撃によって他人にウィルスを移すことができる。理性の強い人間は自我を保ったり我に返ったりすることもあるけど、ともかく死人たちと同じ性質を持つことになる。ここまでならアリエスタの免疫強化で菌を殺し、こちら側に戻ってくることができる。けれど3日を過ぎると心臓と脳が停止し、人間としての死を迎える。ここから先は感染した死者と同じで、肉体は単なる細菌の乗り物と化す。狂花帯を除く生体機能が損なわれ、いかなる手段をもってしても蘇生することはできない」

「どんな方法でも?」

「どんな方法でも。まだ対応策が見つかっていないとかじゃなくて、これは原理的に不可能なことなの。脳と心臓が止まった時点で当人の精神は完全に死滅している。たしかにネクロウィルスは身体を動かすだけの脳機能の働きを疑似的に再現しているけど、個人の記憶や人格が元に戻ることは無いわ。記憶喪失や精神崩壊、仮死状態とは違って」

「肉体が生き延びたとしても、魂が死ねば当人ではない、ということか。死を己という存在が永遠に損なわれることとするならば、それは不可逆にして絶対の法則だ。生者の運命は万古変わらないな……」

 帝の嘆息にネヴァが同意する。

「だからこそ人は死を恐れ、免れようとしてきた。古来より時の権力者は不死を望むもの。そのために彼は、私たち、を……。………?」

「?」

 俺とリリは疑問符を浮かべネヴァモアを眺めた。ネヴァは自分自身の言葉に当惑したように言葉を切り、困ったような顔で俺を見た。

「『彼』って、一体誰のこと?」

 そんなことはこっちが聞きたい。俺は同じように困惑した表情を浮かべ、帝の方を見た。帝はいつものことだという風に小さく肩をすくめてみせた。

「気に止める必要は無い。『混線』しただけだ、記憶がな」

 それから話を戻そうと言うように手を叩いた。「問題は感染経路だ。幸い囚人共は『蛇足』の地下路線を辿って北上したものと見える。外部との接触はほとんど無いものと見て言い。東国の邑にアリエスタ族を派遣して治療を施せば感染爆発(パンデミック)は防げる。しかしあの閉ざされた地底回廊にどこからビールスが侵入したのか……」

「その答えは、儂が教えましょう」

 全員が戸口を振り返る。集まった視線の先で、鱗に覆われた青い皮膚の猿族がやつれた表情を覗かせた。

「バックゲェル長官補……、いや、今は降格して正次官だったか。ここは機密会議の場だ。イタロ、部外者は立ち入れるなと伝えておいたはずだが?」

「申し訳ありません、急を要する事態のようでしたので……」

側近のイタロが戸外から頭を垂れて答える。

「彼を責める必要はありませんよ、女王陛下。バックゲェル君は部外者ではないのですから」

 2人の後ろからさらに別の人物が姿を現した。帝とリリがぴくりと眉を動かした。青年の貴族を後ろに従えて、見慣れない若草色の毛並みに黒い肌のしゃなりとした野風が、黒檀調の杖を付いて現れた。

「お久しぶりです、陛下。私はエルロック=シェイマス。御存じの通り、この国で最も有能な探偵です」


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