第2話 半地下(アガルタ)
「伯父?」
そのおさげの栗毛やチャーミングなそばかすに見覚えは無かったが、どことなく目元や顔立ちに既視感があった。
「作戦で一緒になったことは、なかったよね」
「はいっ、遺体検分や現場検証といった、前線に出ない担当でして……。しかし戦闘ばかりが警察隊の花ではないのです。今復帰が噂されている、かの高名なエルロック=シェイマス探偵を始め、事件捜査で名を揚げた隊員も数多くおりますから」
少女は元気よく答えた。久しくこういう反応には触れていない。懐かしい感じだ。俺はアテネやアマルティアの顔を思い描く。少年少女特有の、若やぎ、溌溂とした空気だ。
ボアネルゲは満足げに笑みを浮かべ、「それではっ」と再び敬礼して走り去っていった。
玄関を開けると、奥からリリが顔を出した。冬の太陽のような銀色の長い髪を一つにまとめ、かけていた眼鏡を外した。リリが眼鏡をかけるのは、自宅で書物や細かい文字を読む時だった。
「ただいま」
「お帰りなさい、ましらくん」
彼女はにっこりと柔らかい微笑みを返した。
「さっき新米の子とすれ違ったよ」
俺は窓の外を指さして言った。リリが肯く。
「最後まで残っていた方ですとー、ネルゲさんですかね。熱心な生徒さんですよー、呑み込みも早いし」
「指導は順調?」
椅子の上に荷を下ろしながら尋ねる。「まずまずです。思いのほか出来るものですね」リリがキッチンに戻りながら答える。朝廷の指示で、リリは現在、レオニア族の再生技術の普及に当たっている。司法取引のようなものだ。特例で空中楼閣から釈放されたものの、朝廷への叛逆の罪が帳消しになったわけではない。現在もリリの監視は続いており、仮釈放期間として一年の間、この診療所一帯から離れることは許されなかった。
その監視役が俺と言うわけだが、彼女と同棲を続けているのはもちろん職務上の義務からではなく、むしろプライベートな俺たちの関係を帝が体よく利用したという形だった。無論俺の方に異論はない。あの帝にしては温情を効かせてくれた方だ。何か心境の変化があったのかもしれない。
「皆修行熱心ですから、つい遅くまで教えてしまいました。夕飯の支度をしますね」
「手伝うよ」
俺は腕をまくった。
リリの復帰後は順調だった。かつては未知の技術、魔法とさえ呼ばれた彼女の再生能力も、大陸の知識に裏付けられた研究と長年の実践によって編み出された再現可能な技術であることが分かった。もっとも能力を司る狂花帯の出力の都合上、同じレオニア族であっても、リリ程の驚異的な再生を行うことは難しいようだ。
「それでも、現場での応急処置が可能になるのは大きいですよー」
並んで台所に立ちながら、リリが答える。
「現状、臓器のような複雑な器官を再生させることができるのは私だけですが、それでも失血死や骨折等による離脱は防ぐことができます。これからの警察隊はレオニア族の隊員の方々の貢献で、大いに死傷率を下げることになるでしょう」
「もっと早く教えてやればよかったのに」
鍋の火加減を見ながら俺が茶化す。空間接続で戸棚から取り出した紫の香辛料を、二さじ振りかける。こうすることで煮込んでいる東国赤カブの芯が柔らかくなり、スープにとろみを付けることができるのだ。
「無茶言わないでくださいよ。私の出自を隠すためにも、あれは私固有の能力という設定にしとかなきゃならなかったんですから。知ってるくせに」
包丁で的確にナガシウオの身を捌きながら、リリが口を尖らせる。思わず抱きしめたくなったが、調理中なので自重した。湯通しして魚の臭みをとり、すり鉢で挽いたユウガオの花の蜜を香り付けに切り身へ塗ったら、さっと弱火であぶって完成だ。
調理を終えた品々の皿を並べ終えると、俺たちは食卓に着いた。
「そういえば、カプリチオ事件に捜査協力者が投入されるそうですねー。生徒さんたちから教えてもらいました」
「ああ、もしかして今、復帰が噂されてるっていう探偵かな。ネルゲが言っていたな。たしか、エルロックなんとやら……と言ったか」
「エルロック? エルロック=シェイマスですか?」
「ああ、それだ。知ってる名前か?」
「知っているも何も」
リリは口の中のものを飲み込んで答えた。
「彼は有名な捜査官ですよ。正確には非公認の捜査協力者、と言ったところでしょうか……。正体不明ながら、その明晰な推理によって、数々の難事件を解決に導いてきました」
「正体不明?」
俺は口をもごつかせながら尋ねた。
「彼は重度の人嫌いで、公の場には姿を現さなかったと言います。現場に赴くことなく、捜査員の報告のみから犯人を当てることで有名でした」
所謂、安楽椅子探偵か。俺は朧げに革張りのソファの上でパイプをくゆらす男の姿を想像した。私立探偵とはな。俺もフィクションの英雄のような存在になろうと、その道を目指したことがある。もっとも、すぐに挫折したが。
「もう十年も前に引退しているんですけどね。それからは南洋の地方に移り住んで隠遁生活を送っていると、噂で聞きました」
「ずいぶんと詳しいな」
「当然です。鬼として活動するにあたって、私が王都で最も警戒していた人物が、エルロックさんとボアソナードさんでした。彼の引退を聞いて私は大陸から戻ってきたんです」
「リリがそこまでするほどか」俺は目を丸くして言った。
「エルロックさんが出張ってくるなら、捜査は安泰ですねー。しかし、なぜ今になって協力要請を引き受けたんでしょう。それも既に容疑者の挙がっている事件で……」
「警察隊も、最近まで連絡が取れなかったんじゃないか。引退して地方で隠棲していたなら、ありえない話じゃない」
「それだけならいいのですが……」
リリは奥歯にものの挟まったような物言いをした。「?」俺は疑問を顔に浮かべたが、その話題はそこで終わりになった。
その夜、俺は隣でしどけなく眠るリリの頭を撫でながら考えた。ユードラを確保できれば、アテネは助かるかもしれない。俺が手に入れたかった生活、身の回りの大切な人たちを誰一人失わず、平和に暮らしていくこと。英雄にも特別な存在にもなる必要もなく……、そうして当たり前の人生を生きていくことが、かつての家族たちに対する最大の供養になるのだと、今なら分かる。アテネが帰ってきたら、俺がこの世界に来て始まったいくつかの問題も、一応の落着を見せるわけだ……。
俺も次のステージに進む時かもしれない。リリの白く細い指を握りながら、俺は思った。
〇
次の日、不二原の定期報告書を受け取るために俺は東国へ飛んだ。『蛇足』に乗っていいけば半日はかかる行程も、空間移動があれば瞬く間だ。
まだ少し肌寒い東国の春に身を曝しながら、俺は金色殿の扉を叩いた。
「ましらクンか」
振り返ると本殿の傍にニニギニミリが座り込んでいた。オールバックになで付けた硬い毛並みと、色眼鏡から覗く利発そうな瞳は相変わらずだった。
「そんなとこでサボりか? 東国は今日も安泰だな」
「ま、平和であることは否定しないけどね。でも今日は、君を待っていた」
「俺を? 何か問題でも起きたか」
俺は眉をひそめて尋ねた。ニミリが人の目を避けて相談したいこととなると、それなりに深刻だ。
「まあ、問題は起きてるけどね。墓暴きとか。でもこれに関しては別件」意外にもニミリは笑顔を作って答えた。しかしまた少し顔を曇らせ視線を斜めに落とした。「ともかくも来てもらうのが早いかな。一応ましらクンには伝えておかなくちゃと思ってね」
立ち上がったニミリの後に従って、俺は『蛇足』の地下駅に通された。
「駅に来るのは久々だ」
俺は暗い通路に声を反響させて言った。一年前夷を訪った時以来だ。
「地下労働者のことを知っているかい?」
俺の問いには答えず、ニミリは逆に問い返した。
「『蛇足』の構内を始め、地上に近い〈半地下〉と呼ばれる地帯で労働・生活している人たちが居る。通称『嫗躯』。彼らの生活圏である〈半地下〉はジパングの領土には含まれておらず、ゆえに彼らはジパングの民でもないとされている。『嫗躯』はそこで独自の文化と信仰を持ち、地下と地上を行き来して暮らしているんだ。多くの者はほとんどの時間を半地下で過ごし、必要のある時だけ外へ出る」
気付くと坑道の横道へ逸れたあたりに、ちらほらと人影が見えた。多くは見慣れない紫の毛皮を纏った野風だが、ヒト族もいる。遠くの人影が、ランタンの灯りに振り向いた。俺はぎょっとした。彼らの顔に、目玉が付いていないように見えたからだ。
俺は目をこすり、暗闇に両目を慣らした。……よくよく見れば彼らの顔は普通の人間と変わらなかった。ただ一様に黒っぽい布のようなもので鼻から上を覆っていただけだった。
「あれは彼らの独特の風習さ。『嫗躯』の連中はこの〈半地下〉のさらに深く、悪霊の統治する〈黄泉の国〉があり、その使い魔たちが存在すると考えていているんだ。あれは眼がないと言われている使い魔たちの真似。冥界信仰だよ」
ニミリが解説する。
「あまりいい労働環境とは言えないだろ? 不法地帯でもあるし、犯罪者の温床にもなりがちだ。昔はもっと酷かったらしい。『法王』なんて呼ばれてる奴がいて……。ま、今は駅の周りも警察隊が取り締まってるから、安全だけどね」
「ふうん。……それで、なんたってここへ連れてきた? 連中と揉めてるのか」
「いや、彼らは基本的に上の政治には干渉してこない。いくつかの労働関係で繋がっている以外は、僕らとは独立した生活を送ってるんだ。君を連れてきたのは、会ってほしい人が居るからでね」
ニミリは角を曲がったところで立ち止まり、暗闇の奥を示した。もくもくとつるはしを振るう音が聞こえる。俺はランタンで影を照らし、その音の正体を細目で眺めた。
こちらの光に気付き、つるはしが地面で休む。巨大な野風の背中が、くるりとこちらを振り返った。
「……来たか」
両目を覆った布を取り払い、声の主がこちらを見つめ返した。「あの時の礼をさせてもらうよ。ましら」
記憶の隅から、怒りと忌々しい光景が蘇る。猪のような巨体、獰猛な声音……。かつて魔境の一画を支配した野風の姿が、そこにあった。
「グラムシ」
仲間を殺した男の名を、俺は口にした。