第1話 ラプンツェル再び
外に出ると空気が湿っていた。見上げると汗ばむような重たい雲を、たったいま出てきたばかりの塔の屋根が支えていた。その石造りの屋根のすぐ下に閉じた高窓を、俺は名残惜しい気持ちで眺めた。
その奥に眠る紅髪の少女のことを想い、俺は沈鬱な面持ちで目を伏せた。この塔はいつかの牢獄を思わせる。かつてそこに囚われていた彼女のことを、俺は深窓の令嬢と呼んだものだった。
俺の気持ちを推し量るように、病棟の警護人が帽子のつばを下げた。
施薬院は朝廷が管轄する養療施設だ。長期の入院や高度な技術を要する治療が必要とされる貴族・皇族が入居している。すぐ近くに警察隊の隊舎も控えていて、有事の際の警備も保障されている。俺は施薬院を出たその足で演習場の方に向かった。遠くでは新米らしき隊員たちが運動場を周回していた。向かい合う施薬院と隊舎の周囲には、生け垣のように銅色の木々が並んでいた。葉は無く、金属のように固く硬化した、光沢のある枯れ木のような木立だ。
「ましら君」
俺は声のした方を振り返った。隊舎から出てきたモルグが汗を拭いながらこちらに手を挙げた。元はただの宿屋の亭主だったモルグだが、入隊から二年ばかりたった今ではすっかり隊員らしい顔つきになった。露出した腕にも筋肉がつき、佇まいにも落ち着きがある。その分、頬の落ちた肉が目についた。
「隊舎まで立ち寄るのは珍しいですね。メル長官ですか」
「ああ」
肯くとモルグはグラウンドの東に目を走らせた。
「今ならちょうど新人の演習中です。案内しますよ」
彼に従って俺は歩き出した。
「最近よく施薬院に来ているようですね。アテネちゃんの見舞いですか」
「うん、面会が認められてる日はね」
俺は肯いた。一年前のカプリチオ事件以来、アテネは眠り続けていた。逃亡中の犯人の再襲撃を憂慮し、警察隊が施薬院に匿い続けていたが、症状の改善度合いははかばかしくなかった。
「ユードラ……、ユグドラシル=カプリチオ、早く捕まると良いですね。アテネちゃんの昏睡状態の原因が彼女にあるとすれば、彼女に能力を解かせるのが一番確実だ」
トラックの端を横ぎりながら、モルグは言った。
「心因性の病はカプリチオの専売特許ですが……、その大家たちが揃って惨殺されたとあっては。貴族階級でない者にも優れた人材はいますが、今はどこもかしこも人手不足ですから。夷、獄門院と国を揺るがす反乱が続きすぎた」
「ああ……。カミラタも手の足りない中で捜査に尽力してくれてる。今はやれることをやるしかないよ」
俺はモルグの顔をちらりと見ながら続けた。「ところで、忙しそうなのはお前もだな」
彼は陰の深い顔をこちらに向けた。頬はこけ目の下には深い隈が出来ていた。最近始まったことではない。日に日にやつれていっているように感じた。
「ちゃんと眠れているのか? 『モルグ亭』を売り払ったと聞いたぞ。あまり思いつめすぎるなよ……、奥さんのことも」
「仕事に打ち込んでいる方が、気が紛れて良い。じっとしていると以前のことを思い出してしまいますからね」
彼が亡き妻と営んでいた宿屋も、今は人手に渡っていた。ちょうど一年ほど前、定住先を探して俺とのルームシェアを解消した、共通の友人のバサラに、モルグが安く譲ってくれたのだ。
グラウンドの土を踏みしめて、叫び声の上がる教習施設の前に来た。演習場の入り口で4人一組になった新入隊員たちが、二対二で組手を行っている。メルの怒声が飛び交う。
「どうした、呼吸が乱れ始めてるぞ! 動きに無駄が多い証拠だ! 中・近距離戦闘では、基礎体術の練度がものを言う。能力に胡坐をかいている者は同等の能力者や相性で簡単に足を掬われるぞ!」
「サー! イエッサー!!」
「特にお前、徐々に攻撃が単調になってきて、リスクの高い大技に頼り始めているぞ。敵の足止めを想定した模擬戦闘だ、なぜ勝負を急ごうとする?」
「サー! お言葉ですが上官、ペアや対戦相手の割り当てに公平さが欠けるかと……。我々のペアは向こう方と違い、午前に山道往復の訓練を熟しています! これ以上の戦闘の継続は困難です」
「それを判断するのはお前ではない! それに公平さだと? お前はスポーツでもやっているつもりか。味方の負傷、民間人を守りながらの戦闘……、実践では不利な戦闘などいくらでも強いられる。だが、敵はこちらの事情など考慮してくれないぞ! 与えられた命令と状況に適応して最善のスタイルをとれ。作戦の変更を決定して良いのは上官だけだ、貴様はこの部隊の隊長か? 入隊してひと月で随分と偉くなったものだな。両親に階級の数え方を習わなかったか?」
「サー! ノーサー!!」
「ならば命令は細大漏らさず遂行しろ! 戦えと言われれば肺が千切れても戦い続け、待てと言われたら槍が降ってこようと待ち通すのだ。貴様の身勝手な判断が、部隊を窮地に陥れると思え!」
叱声を浴びせられる隊員の様子をモルグがぼんやりした目で眺めているので、俺は彼をせっついた。虚ろな瞳に光が戻った。
「ああ、すみません。……メル長官を呼んできます」
それにしても大したしごきだな。俺は思った。時代は変わっても軍隊の風景は変わらないようだ。といっても俺の時代には有人部隊など、ほぼ撤廃されていたが。
隊員に散るように指示を出して、メルがこちらに歩いてきた。
「まったく最近の隊員には危機感が欠如しているな。あれでは実践に付いていけないぞ」
「相変わらず手厳しいな。入隊早々あれだけ動ければ大したものじゃないか?」
メルは肩をすくめた。「奴らを守るためだ。優秀な新人ほど個人の裁量を過信して死ぬ。それに部隊というのは群れになってこそ本来の力を発揮するものだ」
一理あるな。俺は肯いて同意した。
「……で、何の用だ。不二原探題の件なら、滝口入道とかの方が参考になるぞ」
「いや、仕事の話じゃない。地底回廊の囚人との面会申請を繋いでほしいんだ。お前の口利きがあると話が早くなる」
「地底回廊? あんな大監獄に何の用がある?」
メルが長い紫の髪を払いながら問うた。眼帯の奥からこちらを注視しているかのようだった。
「カプリチオ襲撃事件の容疑者、ユードラ……あいつの仲間だった連中と会いたい。彼女は院直属の部隊『五刑』の一人だった。あの件で捕まった奴ら多くは地底回廊に囚われている。ユードラが今どこに潜伏しているのか、どうにかして訊き出す」
「ましら……」メルは目をつぶった。「我々も馬鹿じゃない。その手の尋問はとっくに済ませている」
「しかし……」
「カミラタ隊長もベストを尽くしておられる。焦る気持ちは分かるが、捜査はこちらに任せろ」
俺は唇を噛んだ。黙って待てと言うのか。アテネは妹も同然だ。それにあの朝アテネをみすみす帰したのは、俺の失態なのだ。
メルはこちらの気色を慮ったのか、いつもより角のない口調で付け足した。
「そう落ち込むな。どのみち最近の地底回廊は色々と問題があって、面会の認可は降りない」
「問題?」
俺は聞き返した。
「これはオフレコだが……」彼女は眼帯を付けていない方の目であたりを見回して、声を落とした。「ここ数ヶ月、地底回廊の管理部と連絡が付かない。落盤事故か何かで唯一の出入り口が塞がれてしまったようなんだ」
「おいおい、それってかなりマズいだろ。あそこは地下最深部に造られた監獄なんだよな。囚人も看守も諸共生き埋めってことじゃないか……」
「大丈夫だ。あそこにはもともと長期の独立運用を想定して、大量の備蓄と地下菜園が用意されている。切り詰めれば半年は保つはずだ。看守たちが食糧を独占していれば、さらに食いつなげるだろう」
「囚人を見捨てるのか?」
「あくまで最終手段だ。そうなる前になんとか通路を復旧させる」
もしかすると地底回廊の設備は、廃棄されたかつての核シェルターなのかもしれないな。そんな推測が俺の中に浮かんだ。
「用はそれだけか? 私も暇じゃないぞ」
「ああ、じゃあ少しだけ。こっちの世界には揃いの装飾品を贈答する慣習があると聞いたんだが……」
俺は短い質問をいくつか重ね、それからメルに礼を言って隊舎を後にした。ふと視線を感じて振り向く。ちょうど施薬院の玄関から、白い布をかぶせられた死体を乗せた担架が運び出されるところだった。施設の職員たちは俺には目もくれず、粛々と隊舎脇の火葬場の方へ向かっていく。近頃は事件が多い。王都は今、偉大な頭脳を必要としている。俺は思った。この国に暗く立ち込めた瘴気の霧を払うような、明晰な英知を。
俺はいくばくか重い足どりで我が家へと帰った。家の庭にある菜園の前を通りかかった所で、俺は自宅兼診療所の戸を開けて出て来た隊服の少女とすれ違った。
「あっ」
20歳前後だろうか。隊員にしては若い方だ。彼女はこちらに気付いたようで足を止めた。
「貴侯もしかして、真白雪伯ではござりませんか?」
俺が肯くと少女は活発な仕草で敬礼した。「救護班のボアネルゲと申しますっ。ましら伯の武勇の程は、伯父殿からかねがね……!」