プロローグ 祟(たたり)
胎児よ 胎児よ 何故躍る 母親の心がわかって おそろしいのか ――――『ドグラ・マグラ』
大地が鳴動し、森の梢から鳥々が飛び立つ。ようやく若葉を身に着け始めた山の奥、ひび割れた地面から巨大な獅子の腕が突き出、出現した山羊の頭骨を震わせて咆哮を山中に放った。
継ぎはぎだらけの身体を空気の中にさらけ出し、地下坑道の落盤を引き起こし現れた獏鸚はその山羊の腹の下に追跡者を伴って森に出た。
「追うぞ! 市街地の方へは向かわせるな!」
坑道に空いた穴を通って次々に飛び出した警察隊の面々が、怪物の後を追って攻撃を繰り出す。図体の割に素早い身のこなしの獏鸚は俊敏に追撃の手を抜け、尾から突き出た大蛇が行く手を阻む敵をなぎ倒した。
「複数の獣を組み合わせただけはあるな……、一筋縄ではいかん」
「カミラタ隊長、電撃をお願いします!」
非電性の手袋を両手に鉄の鎖を標的に巻き付けた隊員たちが叫ぶ。巨大な獣との綱引き。怪力自慢のレオニア族たちが一秒と持たず宙に投げ出される。「隊長ッ、すぐにでも!」
「分かっている! 安らかに眠れ!」
カミラタの雷の矢が獣に放たれる獏鸚は身を捩り、頭部に纏った頭骨で即座に身を守った。霹靂は頭蓋骨に皹を入れ空中に拡散した。野獣が反撃の咆哮をカミラタに浴びせる。
「こいつ……、俺の電撃を見切っているのか。しかし所詮は獣、人の策には敵わん! キケロ、カミノ! 浮かせろ!」
イクテュエス族の二人が回り込み、怪物の体重を減らしにかかる。重力操作で薄紙のように軽くなった獏鸚の爪が宙を掻き、体が浮き上がる。
「今だ! 引け!」
再び投げつけられた蔓が外れた鎖の代わりを果たし、獏鸚の体を縛り付けた。体勢を変える隙間も与えない。身動ぎの自由を奪われた獏鸚の丹田目掛け、カミラタが最大出力の雷を浴びせた……。
「大捕物でしたね」
大儀そうに上体を起こし滝口入道が言う。カミラタは彼に手を貸して助け起こし、隊員たちに指示を飛ばした。「カルキノス族とスコルピオ族は坑道を調べろ! ユグドラシル=カプリチオが近くに居るかもしれん! あのカプリチオ貴族たちを虐殺したの最有力容疑者だ、油断はするな!」
それから振り返って入道に応答する。
「あのドクター・リリが生み出した化け物だ。膂力も桁違い。ずいぶん派手に飛ばされてたが大丈夫か?」
「平気です。頑丈さが取り柄ですから」
彼は硬質化した肉体を見せて無事をアピールした。カミラタも信頼を寄せる同僚の能力に肯いた。
「しかし、近頃は事件も絶えませんね。『獄門院の変』や『カプリチオ大虐殺』から半年も経っていない。『地底回廊』とは連絡がつかないし、あちこちに瘴気が満ちているとアリエスタ族も警告しています。獄門院の祟りでは……、と。銀将門や崇独帝の時のように」
「ふん、そのうち三大怨霊とでも呼ばれるんじゃないか。獄門院は別として」
「冗談じゃありませんよ。……それにドクター・リリ。八虐の緑衣の鬼。釈放されてなお手を煩わせる。せっかく我々が苦心して捕まえたというのに……、もう少し牢に繋いでおくべきだったのでは?」
「その確保最大の功労者が、彼女を見張ってる。ましらの力はお前も知っての通りだろう。それに彼女はあいつに心を許している。奴が側で見ている限りは大丈夫だろう。それに有事とは言え、帝も釈放の許可を出し、そして彼女はその条件を乗り越えてみせた。『獄門院の変』で彼女の果たした功労は大きい」
「……ですが、一年やそこらで改心するものでしょうか、あの大悪人が。彼女は市民や動物の肉体を改造して弄んだ狂学者ですよ。このまま捨て置けば……」
「緑衣の鬼が復活する、とでも言いたいのか」
カミラタは鋭く問い返し、首を振った。
「たしかに、人を疑うのが我々の仕事だ。しかし罪人の更生の可能性を信じそれを助けるのも我々の役目。死者は救いようがないが、生者なら何度でもやり直すことができる」
「死者も蘇るかもしれませんよ」
「今さら冥界信仰もあるまい。黄泉の王国など迷信にすぎんよ」