643.線引きが一番難しいわ
ヘンリック様はまだ口を付けていないレーズンパンを割り、ランドルフに差し出す。小声でお礼を言った彼は一口食べ、口元が綻んだ。これはチーズやナッツより気に入ったのかも。
レオンがナッツ、ランドルフはレーズン、ローズは何かしら? ヘンリック様もレオンやランドルフに分けてもらい、味を試していた。私はチーズが好きなの。ベーコンが入っていてもいいわね。
「あたちも!」
手を伸ばしたローズに、レオンがナッツのパンを与える。小さな口に入るよう、千切る気遣いが素晴らしいわ。一口で頬張り、もぐもぐとローズの口が動いた。続いて、身を乗り出したランドルフからチーズのパン。これまた小さいので、一口で食べる。
三種類のパンは好評で、しばらく朝食にも出すことに決まった。たくさん焼いても、単独で美味しく食べられるから問題ないわ。使用人達にも遠慮しないよう伝えておきましょう。
レーズンは高価な品だけれど、チーズやナッツは簡単に手に入る。真似して実家で焼いてもいいと思うわ。そんな話をしたら、ベルントに止められた。主家で身に付けた所作や作法は持ち帰れるが、物やアイディアはダメなんですって。
主人が私物を与える際は、盗まれたものではないと証明するカードを一緒に渡す。それほど徹底された。カードは名刺くらいの大きさらしい。きちんと線引きしないと、持ち出し自由になってしまいますと言われて納得した。
アイディアに関しても、主家で商売にする可能性がある。勝手に持ち出せば罰せられる。あれに似ているわね。仕事先での情報はネットにアップしない、という決まり事。ふと思い出して置き換え、自分の中で理解した。曖昧な理解だとまたやらかすわ。
「助かるわ、ベルント」
執事は家令と違い屋敷を離れることもあるため、ヘンリック様の秘書に近い立ち位置だった。そのため、こういった休憩時も控えていることが多いの。
シュミット伯爵家に女主人である母がいなくて、貴族夫人としての振る舞いや作法を教わっていない。お父様が知っているわけもなく、私も何となくで動いてしまう。こうして教えてもらえて助かるわ。素直にお礼を伝え、食べ終えた子供達を見回した。
「アナは? 食べた?」
レオンが首を傾げるから、頷いて付け加える。
「ええ、お部屋で食べるそうよ。オイゲンが来るの」
「おい、げん!」
レオンがきらきらと目を輝かせるのを見て、失敗したわと苦笑いが浮かんだ。恋人達の逢瀬を邪魔することになりそう。何か他のことに気を逸らして、帰りにばったり……が理想ね。考える私はすぐにヘンリック様に助けを求めた。
「あなた、何をしたらいいと思います?」
「湖へ散歩はどうかな? ……リア」
真っ赤になった顔で、頑張って呼んでくれた夫に満面の笑みで応えた。




