ある日のカフカ、犬になった妻
「ねー、ねー」
背中の方から妻の洋子の声がして、ぼくはしぶしぶ振り返る。
「どこか、旅行にでも行かない?」
スマートフォンで、旅行サイトの画面をぼくに見せながらそう聞いてくる彼女に対し、ぼくは渋い顔をしてみせた。
「ダメ、ダメ。しばらく、忙しいの」
そう言ってすぐに、パソコンの画面へと向き直る。
画面の中には、ぼくの苦心の跡がうかがえる文字の連なりが表示されている。
最近、妻がその旅行サイトをよく眺めていたことは知っていた。
どこか遠くへ行きたいらしい。
インドア派なぼくに対し、妻はアウトドア派だった。
それでも、以前はバランスがとれていた。
売れない小説家だったぼくの書いた、日常をわざと誇張し、曲解して書いた、ヘンテコなエッセイがなぜか大ヒットするまでは。
それまで、ぼくには多くの時間があったし、妻は平日の仕事についていた。
だから、休日の彼女のアウトドアな趣味に付き合っても問題なかったのだけれど、今は違う。
ヘンテコエッセイの仕事が大量に舞い込み、ぼくのエッセイを原作とした映画化の話まで出ていた。
しかし、日常に妙なことはそうそう起こらない。
変なエッセイを一つの物語にした、映画の脚本作りも困難だ。
増える仕事に頭を悩ませ、仕事にかける時間も増えるばかり。
それまで、ぼくが主に家事を行っていたが、もはやそんな時間はとれなかった。
二人で話し合い、妻には家事に専念してもらうことになった。
そしてぼくたちは、妻の意外な才能を発見した。
とてつもない家事の才能だ。
仕事を辞めてもらったいま、彼女は家事が退屈でつまらないと嘆いている。
それというのもすいすいと掃除をこなし、料理の作り方を学びはじめたばかりなのに、あっという間にぼくが驚くほど美味しいものを作る、その能力のせいだ。
要するに妻には家事が向いているらしかった。
問題といえば、あまりに家事をこなすのが速いため、あっという間にやるべきことを終えてしまうことなのだった。
その結果、妻は一日の大半を退屈そうに過ごしている。
「もう、ケチ。仕事人間。そんなに妻を放っておくのが、楽しい?」
パソコン画面から目を離さず、文字を打ち込みながらぼくは答えた。
「仕方がないだろ、仕事なんだから。……今まできみの稼ぎに頼りきりだったんだからさ、少しは恩返しさせてくれ」
「そんな恩返し、いらない。だいたい、それ、わたしのためじゃなく、売れっ子作家になれたあなたの、自己満足のためでしょ」
妻は厳しいところを突く。
「いや、まったくもってその通り」
「そういう達観した反応も、いらない。ねーねー、旅行いこうよ」
そう言いながら肩を揺さぶってくる。
無視してキーボードを打っていたが、さすがに仕事の邪魔だった。
妻に向き直り、その両肩をつかむ。
そうして、この一連の忙しさが終わったら、埋め合わせをすることを約束する。
「だいたい、こんなブーム、いつまで続くかわからないんだから」
作家としてのぼくの稼ぎ時は今しかないのかもしれない。
そう説明しても、妻は承服しなかった。
「いい、もう。妻をないがしろにする夫になんか、かまってやらない」
「悪い、本当に」
背を向けた妻に、そう声をかける。
「そんなんじゃ、ある日、妻は犬に変わっているんだから」
「……なに、それ。グレゴール・ザムザ?」
「は?」と妻が振り返って聞く。その顔には、本気の苛立ちが浮かんでいた。
「カフカ。知らないの?」とぼく。
「知らないよ、そんなの」
そう言い残して、彼女の背中は寝室に消えた。
どうやらフテ寝をするらしい。
その後、かなり長い間、ぼくは仕事を続けた。
時折、妻の捨て台詞を頭の中に思い起こし、何やらモヤモヤした気持ちを抱えたまま。
なんだろう、犬に変わる、って。
カフカの「変身」にちなんだわけでもなさそうだし。
夜更けに仕事を終えたとき、ぼくはすっかり疲れ切っていた。
特に目が疲れており、しょぼしょぼしていた。
寝室へ行くと、妻はすー、すー、と規則正しい寝息を立てている。
そう簡単に起きない妻だけれども、それでもぼくは静かに、音を立てないようにして、ベッドに横たわる彼女の隣に滑り込んだ。
眠りはすぐに訪れた。
その眠りの途中で、一度だけ目を覚ました。
薄れた意識の中、寝室のどこかで、どん、という大きな音が鳴るのを聞いた。
だがぼくはすぐに再び、眠り込んだ。
昼に近い翌日の午前中に、目を覚ましたぼくは寝ぼけていた。
カーテンの隙間から差し込む太陽で目を覚まし、一度だけ、うっすらと目を開ける。
寝室にはまだ動くものの気配があった。
早起きが習慣の妻が、ぼくが目覚めるころまだ寝室にいるのは珍しい。
「……なあ、洋子。いま、何時?」
まぶしさに目を細めたまま、ぼくはそんなことを聞いた。
しかし返事はなかった。
その代わりに、ぼくの横たわるベッドの隣に、何かが飛び込んでくる。
鼻先を、髪の毛のようなものがかすめた。
ぼくはそのこそばゆさに小さく首を振り、再び声を上げる。
「洋子?」
そうして目を開ける。
最初に目に入ってきたのは、黒い鼻づらだった。
差し込む太陽に照らされ、ぬらぬらと光っている。
あまりにも近く、それがなんだかわからない。
ぼくは反射的に身を引いて、それから「わっ」と声をあげた。
そこにいたのは柴犬だった。
成犬で、茶色い色をした柴犬。
ピンク色の舌を出し、へっ、へっ、と細かい息を吐いている。
ベッドの上で、肘を伸ばして体を起こしたぼくを、柴犬は黒い丸い目をして見つめていた。
何で、こんなところに犬が?
どうやっても、理解が及ばない。
柴犬と見つめあう。
しかしずっとそうしていても、ラチが明かない。
ぼくがここで眠っていた以上、原因として考えられるのはたった一つだった。
妻の洋子。
彼女だけが、この家に犬を連れ込んでくることができる。
もしかして、犬、飼いたかったのかな。
不意に、昨夜の別れ際にした話を思い返す。
だからあんな奇妙なことを言い、そうして強引に、飼いはじめた。
妻はそういうことをする気配をいつも漂わせている。
仕方がないやつだ。
ぼくはベッドから立ち上がり、再び名前を呼んだ。
「洋子? どこだ?」
返事はない。
その代わりに、犬がベッドから飛び降りて、ぼくの前に回り込んできた。
何か言いたげに、ぼくを見上げている。
はじめて出会う犬だけれど、柴犬だけあって、かわいい。
ぼくはつい、身をかがめてその頭を撫でた。
犬は気持ちよさそうに半ば目を閉じている。
それからぼくは寝室を出た。
ぼくの仕事場兼妻のくつろぎ場所となっているその洋室にも、人の姿はない。
階段を降りながらまた、妻の名前を呼ぶ。
「洋子?」
犬が爪音を鳴らしながら、ぼくの後をついてくる。
キッチン、ダイニング、トイレ、バスルーム。
普段使っているそれらの場所にも洋子の姿はない。
めったに立ち入らない和室にも、半ば物置になっているもう一つの洋室にも、誰もいない。
最後にぼくは玄関へ行った。
普段、妻が使っている靴は、靴脱ぎに並べられたままだ。
それからぼくは壁に目をやった。
我が家の玄関の壁には、車や自宅のカギをかけておくキーフックがある。
洋子の使う自宅のカギは、まだそこに引っかかっていた。
サンダルを履き、玄関の施錠を確かめてみる。
鍵はしっかりかけられている。
ぼくは困惑しながらも、念のため、もう一度各部屋を回った。
すべての窓に、しっかり鍵がかかっていた。
ぼくはキッチンへ行き、コップに水を注いだ。
それを一口、飲んでしまってからダイニングへ行き、椅子へと座った。
犬はぼくのそばを離れず、足元にまとわりついていた。
『犬に変わっているんだから』
そう言った妻の言葉を思い返す。
目の前にちょこんと座った柴犬に、ぼくは声をかけた。
「お前、……もしかして、洋子か?」
ワン、と犬は小さく鳴いて答えた。
妻の父は隣の市で獣医をやっている。
車で三十分ほどかけ、久しぶりに彼の元を訪れたが、丸眼鏡の奥の穏やかな笑顔はまったく変わっていなかった。
髪も真っ白で、以前のとおり。
義父のクリニックには、そのとき客は一人もおらず、彼はヒマそうにしていた。
「なんだ、柴犬を飼いはじめたのか」
クリニックへ入っていったぼくを見るなり、義父は言った。
そのとき、ぼくの足元には柴犬がいた。
家に一匹で残していくわけもいかず、一緒に車に乗せたのだ。
柴犬は、ぼくの足元に付き添って離れない。
車にもおとなしく、言うことを聞いて乗っていた。
首輪もリードもしていないのに、どこかへ走り去ることもない。
「いえ、そういうわけじゃなくて……それよりお義父さん、洋子知りません?」
このクリニックは、自宅に繋がっていた。
もし洋子が実家へきているのならば、義父は把握しているはずだった。
「なんで? 洋子、どこかへ出ていったのか?」
のんびりとした声でそうたずねながら、義父は、犬の頭をなではじめる。
どうやら洋子は実家にも来ていないらしい。
ぼくは慎重に、義父に言った。
「実は……その犬、洋子かもしれません」
「……きみ、面白いこと言うな」義父は犬をなでながらそういう。「あのエッセイも、なかなか面白かったよ。おかげでずいぶん忙しくなっただろう。もしかしてそれで、洋子に出ていかれたのか?」
義父は昔からひょうひょうとした性格をしていた。
例え娘をかくまっていたとしても、今のように平然と答えるはずだった。
「だと、いいんですが」ぼくの言葉を聞いて、義父はさすがに怪訝な顔をした。ぼくは言葉を続ける。「あの、ぼく自身も信じているわけではないんですが……その犬の話、聞いてもらえます?」
「ああ、獣医だからな」
そんな不思議な応じ方をした義父に、昨夜からの話を聞かせてやった。
もしもぼくが同じ話を人から聞かされたら、鼻で笑って、そんなバカな、とでもいうレベルの話だ。
犬は黒く光るリノリウムの床に寝そべって、あくびをしていた。
一通り話を聞いた義父が言った。
「様々な可能性があるな」
「ええ、そうなんです。洋子は普段使っている自宅の鍵の他にも、スペアキーを持っていたかもしれない。靴だって、ぼくの知らないのを履いて出たかもしれない。スマホや財布は部屋のいつものところに置きっぱなしでしたが、それだって、わざと残していったのかも。あらかじめ何か、出ていく準備をしていたとか」
「ふむ……」とあごに手をあてて、考え込むような表情の義父。
「それとも何か事件に巻き込まれたとか」
「……きみ、量子力学の世界を知っているかね」
量子力学? 名前は聞いたことがある。詳しくは知らない。
ぼくは首を横に振る。
でも、量子力学と妻に何の関係が?
「ワシも詳しくは知らん。だがその世界では、人体が壁を通り抜ける確率だって、決してゼロではないらしい」
「つまり?」
「ある日、人間が犬に変わっているという可能性だって、決してゼロではないかもしれない」
ぼくは義父の顔を見つめる。
彼は、笑いだしたりはしなかった。
「そんなバカな」
だいたい、義父は獣医だ。
量子力学は、獣医の仕事にも、その知識にも関係のない、ほかの科学者の領域だ。
「まあ、冗談だよ」にっこりと笑って義父は続けた。「でも、そういうことだってあるかもしれない。なあ、洋子」
呼びかけられた柴犬は、ワン、と小さく鳴いて答える。
「どうやらこいつも、洋子という名前らしい。……どれ、健康診断をしてやろう」
義父は犬を抱き上げ、そばに合った台へと乗せた。
そうして犬の体をあちこち確かめるのを、ぼくはしばらく、ぼんやりと眺めていた。
やがて義父が言った。
「見たところ、普通の柴犬のメスだな。何の変哲もない。健康そのものだ。結構なことじゃないか」
義父はその言葉を終えると、台の上から、犬を抱き下ろす。
「そしてすごく賢い犬だ。ワシが何の意図でもってこの犬の体をこねくりまわしているのか、よくわかっている。あるいはひょっとして、人間の方の洋子よりも頭がいいかもな」
娘に対してひどいことを言う義父だ。
ぼくは肩をすくめ、それから義父に言った。
「じゃあもしその、人間の方の洋子がこっちに来たら、こっそりでもいいので、連絡をもらえますか」
「わかっとるよ。洋子がきみのところに嫁いだ日から、もしもケンカがあったなら、きみの味方をしようとワシは決めている」
「そうだったんですか」
その暖かい言葉を聞き、少し心が明るくなる。
「洋子には、ワシも散々、こてんぱんにやられたからな。一対二の、変則タッグマッチぐらいがちょうどいい」
「……そうですか」
しかしどうやら私怨だったらしい。
まあ、それでも協力してくれるのならそれでいい。
「警察、呼んだ方がいいでしょうか」
すこし真面目に相談をすると、義父はうなずいた。
「もし何の連絡や手がかりもないのなら、明日には呼びたまえ」
「そうします」
それから義父は、柴犬へと目を向けた。
「しかし、もしもこれが本当に洋子だったら、きみはどうするかね」
「……人間に戻す方法なんて、あるんでしょうか」
もしも本当に、妻が犬に変わってしまったのなら。
仮にそうだとすると、この事態は絶望的なものに思えてくる。
義父はぼくに背中を向け、そばにあったデスクから、何かをごそごそと探った。
やがて、ぼくに向き直る。
「そんなときにために、きみに、これを渡しておく」
押し付けるようにして渡されたそれを、ぼくは反射的に受け取る。
「これは?」
「首輪とリードだ。犬の放し飼いは危ないからな。そうだ、ドッグフードもわけてやろう」
赤い色をしたリードと首輪を、ぼくは見つめた。
赤といえば、妻のスマホカバーも赤い色をしていた。
義父のクリニックを出て、車の前にたどり着いたぼくは、乗り込む前に妻のスマホをポケットから取り出した。
我が家には固定電話はない。
妻がスマホを持って行かなかった以上、連絡が来るとすれば、ぼくのスマホか、あるいは妻のスマホか、だった。
待機画面にロックはかけられていない。
だが、画面には時刻が表示されているばかりで、着信を示す表示などは出ていなかった。
あらゆる日常のものを残したまま、突然姿だけを消した妻。
連絡は一切つかない。
それだけなら、ぼくは慌てて警察に駆けこんだかもしれなかった。
問題なのは、その代わりに、犬が残されたことだった。
この犬のために、事態が複雑かつ、どこか緊張感が抜けるものになっている。
もしも妻の不在が誘拐犯の仕業ならば、こんなわけのわからない証拠を残していったりはしないだろう。
赤い首輪とリードを装着した柴犬は、ぼくの行動を待つように、こちらを見上げている。
「なあ、おまえ。おまえは、どこから来たんだ?」
犬は小首をかしげる。
人間の言葉がわかっているような、わかっていないような。
ぼくは小さくため息をつき、運転席のドアを開けた。
柴犬がすぐ駆け上がり、運転席を乗り越えて助手席の椅子の上へ行く。
義父の言った通り、かなり賢い犬だ。どこでしつけられたのだろう。
そしてぼくは運転席に乗り込んで、考える。
妻は一体、どこへ行ってしまったのだろう。
義父の元の他に、妻の行く先に心当たりはなかった。
ぼくの実家はあり得ない。
他県にある上に、妻は車も駐車場に置きっぱなしだった。
可能性があるとすれば、友人のところ。
しかし、妻とは高校、大学と一緒で、共通の友人が多い。
ぼくに内緒で急に転がり込めるほど、妻だけが親しい友人には思い当たらない。
辞める前にいた職場の友人は?
あえて探すとすれば、その可能性だ。
だが、ぼくにはその友人たちの情報は一切ない。
つまり手がかりも、探すツテもない。
大体、今日は平日の朝だ。
職場の友人のところへ行くタイミングにしては最悪だ。
いくら妻でも、そんな日を家出の日には選ばないだろう。
じゃあ、他に何がある?
これでも小説家のはしくれだ。
あり得る可能性を、リアルに想像してみる。
妻を妻と考えず、とある一人の女性と想定した場合、あり得そうな一つの可能性が残った。
「……もしや、不倫とか?」
最近忙しく、あまり相手をしてくれない夫の元から、ひそかに付き合っていた恋人と共に蒸発する。
ありそうだ。
ガウ、と犬が吠える。
それから、ううう、と唸る。
どうやら今の発言は、彼女の機嫌を損ねたらしい。
「まあ、洋子に限っていえば、それはないか」
ワン、と今度は穏やかに犬が吠える。
話の内容まで理解しているようだった。
車のエンジンをかけ、ハンドルを握る。
アクセルを踏み込もうとする前に、どうしたものかとつい、考えてしまう。
家に帰ってもいいけれど、今日は仕事にならないだろう。
付きまとう犬がいる。
そして妻は行方不明だ。
ヘンテコなエッセイに、のんきにうつつを抜かしていられるとは思えない。
「なあ、おまえ」
犬の方に呼びかけると、その黒い丸い目がぼくの方へと向く。
確かにぼくの声を聞き、こちらに耳を向けていた。
ひょっとしたら、この犬は本当に、洋子が姿を変えたものなんじゃないか。
そんな考えが頭に浮かぶ。
「久しぶりに、ドライブでもしようか」
どうせ集中できないのなら、もう諦めて、今日は休みにした方がいいだろう。
それがいい、とでもいうように、犬はワン、と明るい声を上げた。
完全な休みはほぼ二か月ぶりだった。
それまでのあまりにのんびりとした毎日のツケを取り立てられるように、今はとにかく働きづめだった。
今日は休みだ、と決めてしまうと、急に気持ちが軽くなる。
洋子のことは気がかりではあったが、そのうちきっと帰ってくるだろう、という明るい考えも浮かんでくる。
柴犬は、小さく開けた窓から流れ出る風をあびながら、気持ちよさそうに目を細めている。
方向としては自宅へと向かいながら、目につくところで、食料品などを買っていこうと決めていた。
何しろ、もう何か月も、自分で料理をしていなかった。
妻に任せきりで、いま、残りの食材がどれだけあるのかわからない。
家事の完璧な妻に限ってそんなことはないと思うが、ひょっとすると、皆無に近いかもしれなかった。
周囲を眺めながらドライブをするうちに、懐かしい建物が目に入った。
ぼくと洋子の通った高校は、義父の家から十分ほど車で走ったところにある、スーパーマーケットから一つ道路を隔てたところに建っていた。
走る道路の右手にその校舎が見え、ぼくはふと思いつく。
「久しぶりに、高校でも見てみるか」
いつしかぼくは犬にそう呼びかけていた。
スーパーの駐車場に車を止めると、運転席の扉を開く。
ぼくの後ろからすぐ、犬は外に飛び出てくる。
かといって走り去ることもしない。
ぼくがしっかりリードを首輪につなぐのをおとなしく待っている。
これまで、犬を飼った経験はなかった。
犬の散歩をまともにするのもはじめてだ。
塀とフェンスで隔てられた高校の外周を一周するように、犬と共に歩いた。
校舎はオフホワイトの色をしており、そのオフが意図的なものか、自然現象の結果としてそうなったのかはわからない。
ともあれその白は昔からくすんでいた。
その白い建物に並ぶ窓の向こうには、制服を着た高校生たちが座っているのが見える。
歩いていると、いろいろなことを思いだす。
*****
洋子とはじめて出会ったのは、この高校に通いはじめたばかりの、一年生の春のことだった。
隣のクラスに美人がいるというので、ぼくは女好きのクラスメイトと共に、その子を見に行ったのだった。
そのとき見た洋子の顔は、確かに整っていた。
しかしちょうどお昼休みで、彼女は食事をしていた。
持参していた大きな弁当箱から白米を、まるでブルドーザーのように口の中へとかきこんでいた。
そういう女だと知らないで見に行ったぼくらには、非常に衝撃的な映像だった。
ぼくとクラスメイトは顔を見合わせた。
クラスメイトは何も言わず、首をゆっくりと横に振ってから、何事もなかったかのように自分のクラスに戻った。
その後も洋子のことはたびたび廊下で見かけた。
見るたびに、重機のような女だと思っていた。
それはずんぐりむっくりという意味ではなかった。
彼女はどちらかといえば、スマートな体型だった。
廊下で見かける彼女は、まるで削岩機のようにどすどすと足を踏み鳴らして歩いていたり、クレーンのように腕をぶらぶらと振っていたり、何があったのか、フォークリフトのように友人の女子をおぶって歩いていたりした。
つまり、それだけエネルギッシュだったのだ。
高校二年生で同じクラスになったとき、すでにぼくはそのエネルギッシュなところに惹かれていた。
もちろん、その整った顔にも。
二度、告白した。
一度目はあっさりとフラれた。あんたなんかに興味はない、と言われた。
二度目は、印象的だった。
半年後、高校三年生の春にもう一度告白をしたら、洋子はひどく複雑そうな顔をして言った。
「あんたのこと、わたし、冴えない男だと思ってる」
「うん、そのとおり」とぼくは応じた。「冴えないよ」
「……だけどさ、前にわたしのこと、好きって言ってたじゃない。あれを聞いてから、ずっとわたし、あんたのことがなんだか、心にひっかかってる。気になるの」
洋子の目は、ほとんどぼくをにらみつけんばかりだった。
なんてことをしてくれたんだ、謝罪と賠償をしろ、そんなことを言い出しそうな感じだった。
「これって、……あんたのことが好き、ってことなのかな」
「そういうことだと思うよ」
たぶん違うだろうな、と思いながらぼくは言った。しかし洋子はこう答えた。
「そういうことなのか……」
洋子と過ごした高校時代は、楽しかった。
ぼくと付き合いだした頃、彼女は進学をする気がなかった。
学力が足りないし勉強が嫌いだ、というのがその理由だった。
一方ぼくは、電車でも通える、最寄りの大学への進学を希望していた。
「あなたが行くのなら、わたしも大学に行こうかな」
ある日の放課後の教室で、夕日に照らされながら、彼女は言った。
卒業後の話をするのは、そのときがはじめてだった。
「どうして? 勉強が嫌いなんでしょ」
「嫌いだけど。でも、離れ離れになる方が、嫌じゃん」
そんなにストレートに愛情表現をしてくれたのもはじめてだったので、ぼくは言葉を返せなかった。
だが呆然とするぼくに、彼女は怒ったように言った。
「なに? それともわたしと離れ離れになりたかったわけ?」
その日の帰り道に、彼女は握りこぶしをぼくに見せ、熱弁をふるった。
「わたしも大学へ行く。例えバカだとしても、半年もまじめに勉強すれば、希望する大学ぐらい、受かるでしょ」
「……進学志望の人はみんなもう、去年のうちから、勉強をはじめているんだよ」
彼女は真剣に驚いていた。
「本当に? あなたも?」
ぼくは深々とうなずき、あわわ、と唇を震わせる彼女を見つめていた。
*****
そんなことがあった帰り道をぼくはいま、犬と歩いていた。
「結局、洋子は大学に受かったんだよな。滑り込みセーフだったけど、なんとか間に合った」
柴犬へ目を向けると、彼女はこちらに丸い目を向け、小さくうなずいてみせる。
犬を一度車に戻し、ぼくはスーパーで食料品を買った。
念のため、犬のおやつや、エサをやるための皿も購入しておいた。
車に戻ってから、ぼくと妻のスマホを確認する。
どちらにも、着信は届いていない。
まだ、午前中だ。家に帰り、一人で悶々としている気には、なれなかった。
「どうせなら、大学にもいくか」
犬にそう話しかけてから、自分は一人で何を言っているんだろうか、と思う。
しかし柴犬がワン、と答える。
必ず返事をしてくれる彼女に対し、話しかけるのは何らおかしなことでもないように思える。
「早く人間に戻れよな、洋子」
冗談交じりでぼくはそんなことを言った。
そしてなんだか不意に寂しさが募ってきた。
その後、大学へ向かった。
さすがに犬を連れて構内を歩き回ることは出来なかったから、高校のときと同じように、外周をぐるりと回った。
*****
ぼくも洋子も、実家から通える距離に大学はあった。
はじめて出会う年上の大学生たちに、洋子はよくモテた。
そのころはすでに、外面的には重機のような振る舞いをやめ、すっかりおとなしくなっていた。
ぼくは一度、そのことについて聞いたことがあった。
「洋子ってさ、浮気しようとか思わないの?」
「は?」とそれまで機嫌よさそうにしていた彼女は、瞬間的に顔に苛立ちをみせ、ぼくをにらみつけた。エネルギッシュなところがなくなったのは、あくまで外面的だけなのだ。
「いや、だって、よく先輩たちから、飲み会に誘われるんだろ」
実際に飲み会にも顔を出しているらしかった。
アルコールはまだ、口にしていないそうだけれど。
「あんたね、わたしが何のために大学に来たと思ってるの」
「勉強のためでしょ」
「違う」そう言い切る彼女に対し、それはさすがにどうかと思った。そんなの聞いたら親が泣くぞ、と。「覚えてないの?」
もちろんぼくは覚えていた。
ただ、自分で言うのは恥ずかしかった。
「……じゃ、知らない。存分に浮気しよっと」
ごめん、覚えている、とぼくは謝った。
そして記憶にあったあのときの洋子の言葉を口にした。
離れ離れになる方が、嫌じゃん、と。
洋子は満足そうに、つまりそういうことなのよ、と言って微笑んでいた。
大学でぼくらは、多くの時間を一緒に過ごした。
大学三年生の冬には、これはもう、そうなるんだろうな、とぼくは自然にそのことを考えていた。
大学のそばには、見晴らしのいい丘がある。
ある日の夜に、市内を一望できるその丘の展望台に洋子を誘った。
「寒い」
車から出て、展望台に立った洋子は、肩をがたがた震わせていた。
冬の冷たい日で、風が強く吹いていた。
遠くで夜景がきらめいている。
周囲には、他の人間は誰もいなかった。
「こんなところに呼びだして、何の話? わたしたち、風邪でもひきに来たの?」
確かに、すこぶる寒かった。
「戻ろう」
ぼくらはそそくさと車へと戻った。
まだ暖かかった車の中に戻ると、洋子は嬉しそうに言った。
「ああ、生き返る」
「神様仏様暖房様、だね」
「それで、何の話?」
首に巻いたマフラーをほどきながら、洋子が言う。
「うん。大学を卒業したら、結婚しようよ、って話」
洋子はぼくを見つめた。
それから、疑わしそうに言った。
「お互い、就職もまだ決まってないのに?」
「そうだけど、それで、何か変わる?」
「生活環境とか。人間関係とかも」と洋子は珍しく、慎重な発言をした。「金の切れ目が縁の切れ目だというし」
「確かになあ」とぼくは言った。少し、先走りすぎたのかもしれない。
しかし洋子は、にこりと笑って言った。
「だけどまあ、方向性としては、全面的に同意。あなたにしては、いい案ね」
「……じゃあ、いろいろ決まったら、結婚しようか」
「うん」
どうやらぼくらはゴールを先に設定してから、そこに向かって進んでいく方がいいみたいだった。
就職活動の末に、ぼくらは共に地元の会社に就職した。
洋子は健康グッズ販売の営業マンとなり、ぼくは五年後に小説家となるまで勤めることになる、食品加工会社の経理の仕事についた。
そして、結婚をした。
*****
大学から犬を連れたまま散歩を続けたぼくは、その結婚の約束を交わした丘に来ていた。
今は春で、気候も暖かだった。
平日の昼なのに、他にも人がいた。
散歩してここにきたらしい老夫婦が、あのときぼくらが座ろうとしていたベンチに腰をかけていた。
周囲に立ち込める緑の匂いが濃い。
もしかしたら、プロポーズは冬にせず、もう少し待った方がよかったのかもしれない。
そうしたら、夜でも寒くはなく、夜景を見ながらロマンチックに、結婚しようと口にできたのかも。
「どうだったんだろうな。なあ、洋子」
ぼくは丘から市内を一望しながら、そんなことをつぶやき、振り返って犬へ目を向ける。
柴犬は、そばにあった草むらの中に腰をかがめていた。
どうやら、オシッコをしていたらしい。
ぼくはつい、笑ってしまった。
「そりゃ、そうだ。おまえは人間じゃなく、犬だもんな」
もちろん、人間がある日、犬に変身してしまうなんてことは、起こるはずがなかった。
「帰ろう、犬の方の、洋子」
自宅へ帰ったとき、すでに大きく正午を回っていた。
自宅のカギはかかっていた。
それでも、ひょっとすると、と思って玄関の扉を開けて、妻の名前を呼んだ。
しかし、返事はなかった。
柴犬にエサをやり、遅い朝食兼昼食を作った。
冷蔵庫の中には、しっかりと食料品が備えてあった。
買ってきた食料を冷蔵庫の中に収め、それから久しぶりに、自分で料理を作った。
それまで、自分の料理の腕は悪くないと思っていた。
妻が働いている間、食事の用意をするのはぼくの役割だった。
だが久しぶりに作った料理の味は、妻のものと比べると、雲泥の差だった。
食事を終えた後、二階の洋室へと行き、妻がいつもそうしているように、ソファーに寝そべってテレビを見た。
犬もぼくの後についてきて、そしてソファーの端に横たわった。
部屋の中は、静かだ。
妻がいるといつも余計な音がする。
人が仕事をして、頭の中で文章をこねくりまわしているのに、平気で話しかけてきたりもする。
そんな環境にも、もうずいぶん慣れてしまっていた。
我ながら、よく、小説の登場人物の会話文を打ちながら、妻と会話できるものだと感心する。
だけどまあ、やれば出来るものらしく、逆に妻と話しているからこそ出てくるフレーズなんてものもあったりする。
「洋子はいま、どこで何をしてるんだろうな」
柴犬に話しかけると、くいっと顔をあげ、ぼくの目を見返してくる。
「危ない目とかにあってないといいけど」
声でぼくの心配を聞き取ったのか、犬はくーん、と心細そうな声をあげ、ぼくのすねあたりに鼻づらを擦り付けてくる。
「やっぱり、警察を呼んだ方がいいのかな」
義父は明日にでも、と言っていた。
が、もしかしたら、今すぐの方が正しいように思えた。
しかし犬は突然、首を横に振った。
ぶるぶると、何度も振った後に、ぼくを見つめる。
「もうしばらく、待ってみるか?」
ワン、と吠えて犬がうなずく。
「お前、もしかして、言葉がわかるのか?」
そうたずねても、首をかしげるばかりで反応しない。
すべて偶然なのか。それとも、わざともてあそばれているのか。
「洋子がいないと、なんだか、不安になるんだな……」
今度は犬に言ったのではなく、一人でそうつぶやいて、ぼくはテレビ画面を見つめる。
午後の、毒にも薬にもならないバラエティ番組で、芸能人が笑顔を浮かべている。
妻はよく文句を言いながら、この番組を見ていた。
その妻が、今はいない。
これは、妻をないがしろにした夫への罰なのだろうか。
なんてことを考えながら、テレビ番組を見るともなく見ているうち、昨夜の疲れが出たのか、ぼくは徐々に眠気に包まれていった……。
そして不意にごそごそ、犬が体を起こす気配で目を覚ます。
彼女は耳をぴんと立て、それから不意に、ソファーを降りて部屋の入口へ駆け出す。
「おい、どうしたんだ」
そう呼びかけても、こちらを見もしない。
前脚で部屋の扉をひっかくようにしている。
どうやら外へと出たいらしい。
その扉を開けてやると、柴犬はあっという間に、一階へと降りて行った。
「どうしたんだ、あいつ」
一人でつぶやき、犬の後を追って階段を降りる。
飛び出していった柴犬は、玄関のところで、先ほどと同じ動作をしている。
そして玄関の扉の向こう、すりガラスで透けている向こうに、何者かの影がある。
一人じゃなさそうだ。何人かがいる。
かすかに人の声がする。女性の声らしい。
が、あまりよく聞き取れない。
誰か、お客でも来たのだろうか。
しかし複数で誰かが訪ねてくることは珍しかった。
妙だな、と思いながらもぼくはカギを開け、扉を開いた。
扉を開いた先には、妻がいた。
ぼくは何度か瞬きをして、彼女の存在を確かめ、それから聞いた。
「洋子?」
「あ……」と妻は引きつったような笑顔を浮かべた。「ただいま」
ゆっくりと手を伸ばし、妻の両肩をつかむ。
幽霊なんかじゃない。
実体が確かにそこにあった。
なぜかアロハシャツを着ており、白いハーフパンツをはいているけれど。
ぼくの力はそこで抜ける。へなへなとその場に座り込んでしまった。
低くなった視線の先では、犬が盛んに妻へじゃれついている。
妻はその犬の存在に気づいたらしい。
「なにこれ。犬じゃん」
そうだ、犬がいる。
でもぼくは犬の説明をする前に、話しておきたいことがあった。
座り込んだまま、彼女を見上げ、たずねる。
「洋子、どこに行ってたの? 急にいなくなって、心配したんだよ」
「え? 心配?」と彼女が不思議そうに聞き返す。
「そりゃ、そうでしょ」ぼくはそう言って、ズボンのお尻のホコリを払いながら立ち上がる。「朝になったら妻がいなくて、代わりに犬がいるんだから。訳がわからない」
数秒、無言の洋子と目を合わせた。
犬は相変わらず、ぼくらの足元に体をこすりつけている。
そうして洋子は、背後に二人いた、見知らぬ人たちを振り返った。
二人の人間はいずれも黒づくめだった。
右側が女性で、黒いハットとサングラス、そして黒のパンツスーツを身にまとっている。
左の男性もやはり、黒いスーツにサングラスだった。黒い髪はきっちり、オールバックにしている。
「どういうこと」と鋭い声で洋子がいう。怒っているときの声だった。「夫に、心配をかけないって約束だったじゃない。何よ、完璧なダミーを置いておくって」
「ダミー、置いておきましたよ」と男の方が答える。意外と軽い口調だった。「何かの間違いでは?」
「ダミーって、これ、犬じゃん」彼女は足元の柴犬へ目を向けた。そしてもう一度口を開く。「犬じゃん」
「犬」と黒ずくめの女が言う。「私たちには、あまり見分けがつきませんが」
「同じ哺乳類の陸生生物」と黒ずくめの男。「遺伝子配列もよく似ています」
「そういう問題じゃないでしょ。第一にして、見た目が違う」
妻はその場にかがみこみ、柴犬を抱き上げる。
そんな妻を見ながら、黒ずくめの二人が声をあげる。
「あー、なるほど」
「そう言われれば」
「ダメだ、こいつら。話にならん」と、犬を地面に下ろしながら妻が言う。
「あのー」とぼくはそこで口をはさむ。話がまったく見えなかった。「いったい、何の話をしているの?」
少しの間があった。
妻は何やら考え込むように、かかとをつけたまま片足を踏み鳴らし、それからこちらへ振り返った。
「わたし、あなたに内緒で旅行に行ってたの」
悪い? と言うかのごとく、高圧的な言い方だった。
でもそんなのは気にならない。
もっと大きなところが気になる。
「どこへ?」
「ハワイ」
即答した妻の顔を、ぼくはまじまじと見る。
妻は、冗談らしい表情を浮かべてはいない。
「どうやって?」
「そこは、すごく説明が難しいんだけど……」妻はちらりと後ろを振り返り、それから、親指を立てて背後の二人に向けた。「この人たち、なんだと思う?」
「きみの知り合いか、友達?」
「残念、不正解。宇宙人なんだって」
黒ずくめの二人は、ぼくに向けて笑顔を浮かべ、手を振ってみせる。
ぼくにはさっぱりわからず、頭を抱えるばかり。
「……ごめん、本当についていけてない。どこまでが冗談? どこまでが本当?」
「全部、冗談みたいな本当の話。……この二人、地球人を研究に来たんだってさ。サンプルとしてコンピュータが選んだわたしの行動観察がしたいから、好きな実験場をリクエストしてくれって、そう言ってきたの。わたしたちの部屋に突然現れて、わたしをUFOにさらって、ね。それが、今日の早朝、いや、深夜の話」
そう言われて、ぼくはふと思い出す。
眠っている間、何か大きな物音がしていた。
あれは、妻が彼らと接触したときに立てた音だったに違いない。
「ハワイに行きたいって言ったら、それでもOKだというの。その申し出は気に入ったけど、さすがにわたしも深夜三時に突然、旅行に行くのは気がひけた。疲れてたあなたを置いていくのもどうかと思ったし……それで、どうしようかと迷ってたら、この二人が、」とそこで妻は言葉をきり、黒ずくめの二人を見る。
「ダミーを置いていこうと提案したんです」と黒ずくめの男。
もう一人の黒ずくめの女が言葉を続ける。
「この人の代わりのものを置いていって、あなたが心配させないように、行動させる。そのためのことは、ちゃんとすべてを教え込んでいます。それで、みんながハッピーです」
「わたしは何か、パーマンのコピーロボットみたいなのを置いたと思っていたの。だから、UFOに乗ってハワイを訪れて、心置きなく遊んでいたわけ。サンセットも眺めてこれたし。心配をかけることなく、リフレッシュしてきたつもりだったのに」そう言って、妻は足元に再び目を落とす。「犬じゃん」
柴犬が、ワン、と鳴く。
妻が振り返って、黒ずくめの二人に言う。
「犬じゃん」
黒ずくめの二人は、妻のその指摘が、やっぱりぴんと来ていないらしい。
彼らは目を見合わせると、やがて男の方が妻に言った。
「……まあ、あなたも無事に送り届けましたし、ぼくらも研究のデータがしっかり取れました。みんな、ハッピーでした」
「では、そういうことで」
そう言い残すと、黒ずくめの二人は、そそくさと我が家に背を向けて、小走りで駆けていった。
と、塀の向こうが突如として眩く発光した。
午後の日差しの中でもなお、まぶしかったのだから、かなりの光量に違いなかった。
そうして光の塊が塀の向こうから空へと飛び立っていった。
ぼくも妻も、あまりのまぶしさに目を細めていた。
やがて光が遠ざかり、空へと飛び去っていくその形は、アダムスキー型のUFOだった。
風も音もなく去っていたそのUFOが空の向こうへ消えてしまうと、妻がぼくに言った。
「あれ、すごいんだよ。ハワイまで、わずか三十秒」
そんなのんきなことを言っている、アロハ姿の妻を後ろからぼくは抱きしめた。
「なに、急に」
妻ははじめ、恥ずかしがって軽く身をよじった。
しかしその肩をぼくは、より強く抱きしめる。
「本当に心配したんだから」
そう言ってから、体を離し、妻の肩をつかんでこちらを向きなおさせる。
「警察まで呼ぶところだった」
「……そっか。ごめん」素直に謝って、それから妻は、頬をぽりぽりとかく。「だけど、そんなに大事に思ってくれてることがわかって、よかった」
そしてぼくらは見つめ合い、なんだか久しぶりに夫婦でいい感じになったそのとき、足元から突然、ワン、と声がする。
二人で、足元へ目を向ける。
そこには柴犬が、嬉しそうにしっぽを振りながら、ぼくらを見上げている。
ぼくらは共に道路の方を見る。あの黒ずくめの二人の気配は、もうどこにもない。
「もしかして、この犬、置いてかれた?」と妻。
「あれ? ……え?」と、ぼくはうろたえるばかり。
そうしてその騒動が終わり、我が家には一匹、家族が増えた。
家事の天才たる妻は、獣医の娘のくせに、どうやら犬の世話の天才ではないらしい。
犬のエサやりにトイレ、ブラッシングと、毎日大騒ぎをしているが、どうやらその方が、退屈でなくていいらしい。
あれだけ賢かった柴犬も、宇宙人たちがぼくの相手をさせるために「すべてを教え込んだ」のを忘れたのか、すっかり普通の犬になっていた。
ぼくがしゃべりかけても、何の返事もしない。
洋子、と呼ぶとわずかにしっぽを振って反応を示すばかり。
でもさすがにその名前は妻が嫌がり、彼女を再び命名し、我が家の柴犬の愛称は「オノ」になった。
つまり、正式名称は「オノ・ヨーコ」。犬の名前としては破格だろう。
妻は日々、「オノさん、どっか行こう」と柴犬に呼びかけ、散歩に出かけたりして、ぼくにかまうことも少なくなった。
そうしてぼくはすっかり静かになった部屋で一人、ヘンテコエッセイを書いている時間が増えた。
相変わらず仕事は忙しい。
そうして、日常をヘンテコなエッセイに変えるのも困難だ。
ネタに詰まったときにはたびたび、我が家に犬がやってきた経緯をエッセイにしてはどうだろうか、なんてことを考えなくもない。
だけどあまりにも荒唐無稽で、くだらなすぎて、きっとみんな、呆れかえってしまうに違いないから、この話はエッセイには出来そうもない。
でも、こうして出会ったヘンテコな現実が、筆と心を軽くしてくれるのを感じながら、ぼくはエッセイを記すのだ。