きもち
温かい目で読んでみてください(。_。*)
私は高校一年で、もうすぐ二年生になる。
周りに合わせたり、強く自分の主張を言えなかったり、嫌なことがあっても自虐ネタにして笑い飛ばしてしまったりする。
誰かに嫌われるのが怖いのだ。
心が休まるはずの自宅ですら家族の間に循環油の代わりとして働いている。誰に言われた訳でもない。
だがしかし、そうしないとばらばらになってしまう気がするのだ。
たまにそんな自分を変えていこうとして自分の思っていることを言ってみたり、自分のしたいことを言ってみたりする。だがそういう時は決まって後からあの時の私は自己中心的だったのでは?と自己嫌悪に陥ってしまう。
そうしてまた誰かに合わせる自己主張のない人間になるのだ。
自分のことは自分がよく知っている。
私はよくこのことを耳にする。
病気になった時、どこがどう辛いか、症状はどうか、自分がよく知っている。
靴のサイズ、親指は当たっているか、ぶかぶかなのか、自分がよく知っている。
それは自分の能力でもそうだ。
自分は何ができて、何ができないのか。
何が得意で何が不得意か。
それを感じとって限界を超えずに辞める人たちが多い世代を悟り世代と言うそうだ。
だが別にそのことを言い訳にしたいのではない。自分の実力は自分が一番知っている。これが言いたいだけだ。
何故選ばれるのがあなたなのかわからない。
不思議だね。
運が良かっただけ。
ラッキーだったね。
たいしてうまくもないくせに・・
そんな言葉を言われるたびにわたしは自信を失っていく
わたしが一番わかりません
なんででしょうね
ほんとにそう思います
そうですね
そうですか、、、
そんな言葉が口から出るたびに私自身が本当にダメな人間なんだと認識してしまう。
がむしゃらに頑張って手に入れた栄光も、そんな言葉一つで自分は頑張ってなかったのかもしれないと考えを改めさせられる。
あぁ、結局運が良かっただけ。
それだけのこと。
勝って嬉しかったあの時の気持ちも
賞をもらって、練習した甲斐があったと思えたあの瞬間も
自分はやればできると信じられたあの時も
全部、そんな言葉一つで無に変わる。
あ、そうか、わたしは運だけでここまできたのか。
そのくせ誰かが褒められていると何故あの子は褒められて、何故わたしは馬鹿にされるのかと怒りがわくことがある。でもそんなのは自分のせいだ、と心に言い聞かせ、何事もなかったかのように温和で静かなわたしを演じる。
勝っても責められるわたし
負けても褒められるあの子
賞にはいってさすがだと言われるあの子
賞にはいってもおまえが何故入るのかと問われるわたし
家では父と母の喧嘩が勃発し、父と反抗期真っ只中の妹の口論が開始される。わたしはそれをなだめる仲裁役。
妹が拗ねて、部屋から出てこない
父が怒り、手がつけられない
母が泣き、話が通じない
そんな時、決まってわたしが出動する。
妹と話し、部屋から出す
父の怒りを沈め、落ち着かせる
母の気持ちを聞いてやり、そうかと肯定してやる
それに少しでも失敗すれば連鎖反応が起こり、よければまた一からのスタートになる。
悪ければ怒りの矛先がわたしに向くだけだ。
わたしは言えば家族の潤滑油であり、カウンセラーであり、ドロドロした黒い気持ちの吐き捨て場である。
わたしの気の休まるところはどこだ。
誰に話せばいい
誰が信用できる
誰も信用できない
誰にも言えない
そうやって今日も生きている
みんな好きなものはあるだろうか
わたしもある
お菓子、漫画、小説、肉まんは大好物だ
ならばしたいことはあるか
あると言えばある
オーロラを見てみたい、コミケに行きたい
だが職業を決める時、したいことと言われてこのことが職につながるか。否、全く関係ない。
わかっている。これは、なんの関係もない事だ。ただの言い訳だ。
だが、夢をもって、自分のしたい仕事が出来ている人が100%という訳では無い。自分のしたいこと、仕事がない人は一体どうやって仕事に就いたのだろうか。
ただ、私は流されるままなにかの職に就くのだろうなと曖昧な考えのままこのときを迎えているのだと思うと、不安だ。
変えなければと何度思ってもなかなか変えられないものだなと感じるのは毎度のこと。
楽な方に流されるこの性格は、並の努力じゃ治らないだろう。
今日一日を大切にしていこう
大事に
慎重に
考えて
充実させよう
そうすれば近いうちになにか目標が見えてくるのかもしれない