行灯
「なぜ殺してくださりませなんだ」
炎が爛と踊っているような双眼で、光美は容兵衛を睨みつけた。
三重襷の清楚な着物が、彼女の容貌を引き立てている。漆黒の髪は結い上げられ、珊瑚と鼈甲の簪が挿してある。それら全てが、彼女を美しい一つの芸術へと成していた。
秋の虫がすだく清かな晩である。光美のこぼす涙は、春の蛍と見紛うほどに美しかった。
「殺す理由がなかったゆえに」
「わたくしは、生きる価値のない女でござります。また、その希望もございません」
「死を望むはなにゆえ」
「知れたこと。愛する者に先立たれたからでござります」
「それでも生きる者は、生きる」
「死ぬる者とておりまする」
二人は畳の間に行灯の明かりのみを頼りに双方の姿を認めながら話していた。容兵衛のものである日本刀と脇差は今も彼の腰にあり、その重みが光美の言葉とないまぜになって容兵衛を地へと圧する。行灯の光源に惹かれて飛んできた羽虫たちが密やかな音を立てている。
「私はそなたに生きて欲しかった」
「勝手を申されますな」
「そうだな。これは私の望み、私の……」
容兵衛は視線を刀に落とした。黒漆塗りの鞘が艶めいている。
艶めいて誘う。光美の願いを叶えてやれと。だが容兵衛はかぶりを振った。
代わりに腕を伸ばし、光美の細い手首を捕らえて引けば、その華奢な体躯は呆気なく容兵衛の胸の内に入った。もがく光美を、容兵衛は小動物をあやすように抱き締める。やがて抵抗する力が段々と弱くなり、光美は容兵衛の胸に荒い息を吐きかけていた。
「私の、愛」
「お戯れを」
「戯れではない。光美。そなたを慕っていた。恋い慕う者を斬れる男がおろうか」
「――――貴方様に斬っていただきとうございました」
「酷なことを言う」
火に炙られ、焼かれた羽虫が落ちる音がする。
「あの子はもう動きません」
「そうだな」
「与四郎は」
「ああ」
「わたくしの。可愛い子」
「…………」
座敷の畳はこの春、代えたばかりなのでまだ青い。散る桜が舞い込んで、青々しい畳の上を彩っていた。与四郎はあどけなく「だあ」と鳴き、光美の目元を綻ばせた。
数えで二つになる与四郎が、流行り病に罹ったのは夏だった。油蝉がみんみんと姦しかった。おろおろする光美と共に、容兵衛も医者を訪ね歩いた。だが、医者は誰もが首を横に振るばかり。
大人でさえこの病で落命している。
幼子には耐え切れまい。
そう言われた。
そうして与四郎は死んだ。
容兵衛は今も思い出す。与四郎が死んだ晩夏。
縁側に座り、もう動かない与四郎を抱えてでんでん太鼓を鳴らす光美の姿を。
かける言葉がなかった。
「なぜ殺してくださりませなんだ」
光美が容兵衛の腕の中、繰り返した。
「済まぬ」
光美の涙は流れ止むことなく、容兵衛は彼女の頬を拭ってやった。
それくらいしか出来なかった。
それくらいしか。
やがて光美の姿が半透明になり、すっかり消えてしまうまで。
容兵衛は妻を抱き締めていた。
与四郎が死んで、光美はおかしくなった。口を開けば殺してくれと言う。容兵衛は光美の願いを叶えなかった。
与四郎が死んだ数日後の晩夏、容兵衛が家に戻った時、座敷で倒れた光美を見た。駆け寄り、抱き上げ、もう命のないことを知る。傍らには懐剣。咽喉を突いての自害だった。容兵衛は慟哭した。獣のように叫んだ。子に続いて最愛の妻まで亡くしたのだ。
それから。
光美の亡霊が出るようになった。
嬉しかった。恨み言を言う為であっても。
行灯にはまだ羽虫が群れている。
その行灯を、容兵衛は蹴り倒した。
火が青い畳を舐める。容兵衛は動かない。
やがて炎が座敷を包み込むまで、容兵衛は座して動かなかった。