十七歳・残された日々(9)最後の夏
それにしても。
どうして私はここにいるんだろう……。
数学の授業が終わった後、彼は予備校前のセルフカフェで、私の好きなベーグルサンドとアイスラテという軽いお昼をおごってくれた。
それだけでも充分、事件なのに、いくら予備校から歩いていける距離だからと言って何故、彼は私を自宅へ招いたりしてくれたのだろう。
けれど、誘いの言葉をかけられたからと言って、それにのこのこと附いて行ってしまう自分も自分だとつくづく思う。
彼の音楽の趣味なのか、部屋にはテンポのいい軽快な洋楽が響いている。
しかし、耳を澄ませば微かに蝉の鳴き声が聞こえてくる。ここは、街中にしては緑豊かな場所。
一歩外に出れば、じりじりと照り付ける真夏の太陽と、うるさいくらいの蝉の声が全てのような風景だった。
「……退屈?」
彼がふと雑誌から目を離し、私に問いかけた。
「え、ううん。そんなことないけど私……私、男の子の部屋に来るの中学卒業以来かなあ、なんて……」
私はぼんやりと思っていたことを、馬鹿正直にもつい口にしてしまった。
「へえ。じゃあ中学の時は彼氏、いたんだ」
「違うの。中三の卒業間際、仲のいい男女五人組でつるんでててね。春休みに五人で野球観戦や、絵図湖で遊んだりとかして。男子の家にも遊びに行ったりしたのよ、みんなでね」
と、私は言わなくてもいい余計なことを口にしてしまったのかもしれない。
「じゃ、男とつきあったことないの」
と、彼は一言、投じてきたのだ。
とりたて好奇心があるとも思えない声と表情ではあったけれど、私は一瞬、何と答えていいものか言葉に窮してしまった。
「ないこともない、けど」
高一の夏、実に僅かな日々で別れた相手のことを思い出しながら、私は言葉を濁していた。
つきあったといってもおままごとのような他愛ないもので、数の内には入らないとは思う。
しかしだからといって、「つきあったことがない」などと答えたならば、去年の冬のあの出来事が、私のファーストキスだったと彼に白状するようなもの。
それは避けたかった。
何故ということもないが、やはりそんなことは知られたくないことなのだ。
ましてや、海千山千であろう彼には……。
ふと見れば、彼は雑誌を手にしてはいるもののページは広げたまま床の上に放りだし、片膝を立てぼうっと何かを考えているようだ。とっくにCDが終わっていることにも気付いていないのか、動こうともしない。
部屋は再びエアコンがフル回転する音だけが聞こえるだけで、静寂に包まれている。
彼は今、何を考えているのか……。
そんな想いを感じながら、私もまたこの静かな時間を楽しんでいるように思う。
自分が何故、この場所にいるのか未だわからずにいながらも、私にはこの空間、この時間はそう居心地の悪いようには感じない。
最後の夏。
それを私は、今このひとときだけかもしれないにせよ、守屋君と二人で同じ時間ときを共有している……。
巡り合わせの妙を私はしみじみ感じていた。
「あ…また煙草、吸ってる……」
その時、私はつい言葉にしてしまった。
彼はどこに隠し持っていたのか、いつの間にか煙草を口にくわえている。
「どうしてそんな顔するの」
火の点いた煙草を指で挟んだまま、彼はそう言った。
私は、未だ彼の喫煙風景には目を奪われてしまうらしい。
彼の持つ陰に煙草という小道具はよくマッチしている。
そして、それを吸う時の彼の表情はストイックというのか、一種セクシーさすら漂わせているように思えるのだった。
「守屋君て……いつから煙草、吸ってるの」
「中学あがった頃から」
眉一つ動かさずそう答えると、彼は一息白煙を吐いた。
むべなるかなという答えではあるものの、ほんとに。
私は呆れ顔をしながらも何となく、彼の傍らに投げ出されている煙草を一本、手に取ってみた。
そして、それを指で玩びながらふと、遊び心で口にくわえようとした時、横から彼がそれを取り上げてしまったのだ。
「女の子が煙草なんて吸うもんじゃないよ」
「いいじゃない、一本くらい」
「ダメ」
「自分はヘヴィスモーカーのくせしてえ」
「俺はいーの、男だから」
「何で女の子はいけないのよ」
人前で、ましてや男子の前で煙草なんて吸うつもりなど更々なかったのに、成り行き上、引き下がれなくなってしまった。
そんな私に彼は一言、言ったのだ。
「キスした時、男としてるみたいだろ」
私はとっさには何て返していいのかわからない。
「じゃあ。守屋君って男同士でキスしたことあるんだ」
それでも、ジョークのふりして言ってみせる。
「そう。俺、ホモセクシュアルなんだ」
「それでどうして女の子とキスしたりするのよ」
「実はバイセクシャルだったりして」
ジョークなのか本気なのかわからないような言葉を、淡々と彼は口にする。
そして、次の瞬間。
彼の瞳が私を捉えた。
彼の視線と私の視線とが奇妙に交錯しながら、その場の空気が一瞬にして変わってしまったことを、私は悟った。
彼の表情が、変わる。
薄いフレーム越しに心持ち目を細めた彼の顔が、すっと近づいてきたかと思うと、まるで私の気持ちを探るかのように私の口唇を掠め、そして離れた。
逃げる暇もない一瞬のその出来事を、私は瞳を開いたまま、身動きもせず受け入れていた。
そして私は、再び彼の瞳の中に、自分の姿を見る。
彼は片手でゆっくりと、眼鏡を外した。
彼の膝の上にあった彼の右手が私の首元にかかり、彼は今度こそ私の口唇を覆ったのだ。