DEAREST EPIGRAPH 〜最愛の墓碑銘 (前編)
夏休みも終盤のある日の午後。
「長いようであっという間だったわねえ。「久磨予備」の夏期講習も」
守屋君の部屋で音楽を聴きながら、私はこの夏休みのことをしみじみ振り返っていた。
「でも。毎日、守屋君に逢えて、嬉しかった……」
八月に入ってこの約一ヶ月間、私は「久磨予備校」で平日の午前中の授業を聴講し、お昼を守屋君と一緒に食べた後は彼の部屋でお茶をしながら、自分の勉強をする傍ら、彼の英語・現国・古典・数学を見ていた。
守屋君に教えるということは、私の復習や学習の認識を深めることに役に立ったし、元々頭のいい守屋君は、乾いた大地が水を吸収するかのように私の教える内容を理解し、短期間でめきめき実力をつけていった。
そして、講義が休みの土日祝日。「学習完全休養日」と称し、私達は一切受験勉強から離れて、カフェをはしごしてゆっくりお茶を飲んだり、映画を観に行ったり、話題のスポットを訪れたりして、朝から晩まで丸一日思う存分一緒に遊んだ。
まともに男の子とつきあったことのない私にとって、守屋君とのおつきあいは、それは全てが新鮮な体験の連続だった。
何処に行っても、何をしても、何を話しても、何もかもがとにかく心底楽しい。
毎日が「夏の光」のようにきらきらと輝いている。
それは、まさしく私が憧れていた「青春」そのもの。
期せずして私は守屋君と一緒に、高校生活最後の最高に楽しく、有意義な夏休みを過ごしている。
しかしその時──────
「守屋君……? 何考えてるの?」
ふと私は口にした。
私が一人でお喋りするのはいつものことだけど、彼は私の瞳を全く見ていない。相槌を打つこともない。
「え……、ああ。ごめん」
彼はようやく私の言葉に気づいたのか、慌てたように手元のコーラに手を伸ばした。
守屋君。明らかに精神がトリップしていた。
何だかおかしい……。
そういえばこの数日、彼の態度はどこか不自然。
極端に無口で、何を考えているのかわからない。
「明日からどうする? 久磨予備、今日で終わっちゃった」
それでも私は、彼の不審な挙動も、もたげてくる不安にも気づかないふりをして、努めて明るくそう言った。
「明日は……逢えない」
「何か用事?」
「ああ……」
私の言葉にも、彼は心あらず。
「守屋君、顔色が悪いわ」
「何でもない」
私は、途方に暮れた。守屋君の固い手触り。
それは、自分の世界に入り込み、誰をも立ち入らせないような……。
そう言えば、と私はうっすらとした記憶を掘り起こす。
以前、高二の頃、こういう経験があった。
そう……玲美さん。
玲美さんの話題には守屋君、触れさせてくれなかった。
何か関係があるんだろうか……。
その時。
「も、守屋君……!」
急に彼が私の躰を引き寄せ、口づけてきたのだ。
そして、折れんばかりに抱き締められる。
そのまま押し倒された。
「あ……」
守屋君……。
狂おしく私を抱き締める。でも、彼から「男」の気は何故か感じられない。
そう。それはまるで。
ただ、辛いから。悲しいから側にいる「誰か」にただ縋るかのように──────
「悪い……」
しかし急に、守屋君はそれまでありったけ込めていた腕の力を抜いた。
彼の顔色は、やはり酷く悪く見える。
彼は起き上がると、立膝をつき、また何かをじっと考えている。
「守屋君……?」
訝る私に彼は一言、低く呟いた。
「悪い。今日はもう帰ってくれないか」
「守屋君……!?」
「明日、電話する」
そう言い残し、彼は足早に部屋を出て行った。
私は呆然と広いそのだだっ広い部屋に一人取り残されている。
私、何かした?
それとも、何か心境の変化でもあったんだろうか。
考えるほどに、どくどくと脈打ち、鼓動が激しくなっていく。
もう……私とのおつきあいには飽きた……?
私は、白い帆布に赤い牛革の持ち手のトートバッグを持つと、そっと守屋君の家を後にした。
家路につきながら、私は守屋君のことだけを考えている。
わからない。不安でたまらない。
守屋君のことが好きだから。
本当に……本当に愛しているから……。
ずっと、あの高二の秋の放課後からずっと好きで。
そしてこの夏、夢にまで見た彼からの告白を受けてからこのひと月、幸福の絶頂にいた。
でも──────
道端で立ち止まって、下を向く。
涙が溢れてきて、ぱたぱたと零れた。
弱気な自分の心が呟く。
こんなに。
こんなに辛く心細い想いするなら。
恋なんてするんじゃなかった……。




