下弦の月(3) 空には月が
「どこか犯し難い雰囲気があるんだなあ。しっかりしているようで、どこか危なかしげで。でもね。そういう女の子は一番狙われやすいのよ。守ってあげたいんだけど。大切にしたいんだけど、でも……てね。全く、罪作りよ、純は。……けど、守屋君。そういう純なとこあったのね! 意外。ま、彼の気持ちもほんとよくわかるわ」
お杏は、独り言のように、含み笑いをしながらそう言ったのだ。
「ちょっと、待ってよ! お杏。私、そんなんじゃないわ。私……知ってるのよ。自分のほんとの欲望。私、守屋君が今まで遊んできた女の子達とちっとも変わらないのに」
「純。こういうことは自分で意識するものじゃないわ。私は知ってる。そして、守屋君も見抜いたのよ。もっとも、本当に純のことを理解する人間なら、誰でもわかることだわ」
「でも……」
「とにかく、悲観することないの。守屋君の言ってること、間違いじゃない。私の言うこと信じなさいって」
お杏の落ち着いた声。
優しい瞳──────
私は、いつもこういうお杏を見ると、安心して、そして信じてきた。
お杏の目に狂いがあったことなんて、一度もなかった。
だとすれば。
今のお杏の言葉も信じていいの……?
「お杏って……何か違うのよね。いつも思ってたけど、とても同い年とは思えない」
別に背伸びしているわけじゃない。
それなのにどこか、違う。
フツウの女の子と……。
やっぱり、早くにお母様が亡くなっていて、お父様もお仕事で滅多に家にいらっしゃらないせい?
「……守屋君ね。この前、私とお杏のこと、姉妹みたいだって言ってたわ」
「姉妹?」
「そうよ。双子じゃなくて、姉妹ですって。その上、何て言ったと思う? もっとも本当に姉妹だったら、お前はすげえ美人で落ち着いた姉さん持っていいだろうけど、お杏さんの方は大変だろうな。世話の焼ける妹持って……だって!」
お杏はアハハ…と、明るく笑った。
「ま。これで、あとは純次第、よね。これからどうしたいの?」
お杏は、まっすぐ私の瞳を見つめて言った。
「私……。守屋君に謝りたい」
私は呟いた。
「謝る? どうして?」
「わかんないけど、とにかく……。あの時、私。突然、逃げて……」
立ち上がると言った。
「ごめん、お杏。私、ちょっと行ってくる」
「行くって、何処に?!」
「守屋君のとこ」
「ちょ、ちょっと、待って純! こんな時間に危ないってば!」
「すぐ帰ってくるから」
「……純。その格好で行く気?」
お杏に言われて気がついた。
私、バスローブのまま……!
「全くもう。止めたって無駄よね」
お杏は溜息を吐いて、立ち上がった。
「ちょっと待ってて。てきとーな服、持ってくるから」
「ごめん、お杏……!」
***
トゥルルルルル…… トゥルルルルル……
『……神崎』
「……あ、私……」
戸惑ったような躊躇いの色を滲ませている彼の声を聞きながら、私は言った。
「今ね。守屋君の家の近くまで来ているの」
『ちょ、近くって……どこだよ?!』
翳りのある低い声が一転して、怒声に近い激しい口調に変わった。
「予備校前の公園」
『ば、馬鹿っ!! 今、何時だと……いや、とにかく。絶対そこから動くなよ! すぐ行くから。いいなっ! 俺が行くまで絶対!!』
そうやって、言葉半ばでプツリと携帯が切れた。
***
「馬鹿野郎、どうして今頃……」
息せき切って駆け寄ってきた彼は、ハアハアと肩で息をしている。
そして、乱暴に私の両腕を掴み、揺さぶりながら言った。
「何かあったらどうするつもりだったんだよ!? こんな公園、誰も助けになんか来やしないんだぜ!!」
彼の瞳は痛いほど真剣で、怒気に溢れていた。
守屋君、本気で怒ってる。
彼の怒った顔を見るのは、初めて。
何があっても怒るような感じじゃないのに……。
「ごめんなさい。私……一言、謝りたくて……」
初めて触れる彼の怒りへの驚きと、それでも彼の顔を見た安心感とがないまぜになり、私は自然、涙が頬を伝い始めた。
しかし、彼は声を和らげると、
「なんでお前が謝るんだよ……。謝らなくちゃいけないのは俺の方だろ」
そう言って強く私を抱き締めた。
「私。私は……守屋君が思ってるような女の子じゃないわ」
彼の胸の中で、ポツリと呟いた。
そのまま彼のシャツを濡らし続ける私に、彼はゆっくりと囁いた。
「お前は……他の女とは違うよ」
それは、とても耳に優しい響きだった。
益々、涙が溢れてくる。
守屋君──────
「もう……。もうお前を二度と泣かさない。約束する。……あの月に誓うよ」
そう言うと彼は私を抱き締めたままスッと夜空を見上げた。
空には、弓なりに形を変えた美しい下弦の月が輝いていた。




