下弦の月(1) 帰したくない
「あー、もうダメ! 死ぬ」
守屋君が、シャーペンを投げ出した。
「もうギブアップ? 根気がないなあ」
私は軽い溜息をついた。
八月──────
守屋君とつきあい始めて三週間が過ぎた。
私達は毎日、午前中は予備校の授業を受け、午後はセルフカフェでお昼を食べた後、守屋君の部屋で私が彼の勉強を見ている。
パッとしない成績の彼なのに、本当はすごく頭がいいことに私は驚いた。
教える内容をどんどん吸収する、その理解の早さには舌を巻く。
知的好奇心も強い彼は、時々ハッとするような質問も投げかけてくる。
しかし、欠点は集中力がないことだった。
私が教えていてもすぐ欠伸。つまらなさそうに、横を向く。
それで仕方なく時々、彼が淹れてくれる珈琲でブレイクタイムを挟み、彼の趣味の洋楽をBGMに他愛ないお喋りに興じながら、真夏の午後を過ごしている。
「今日はここまでにしましょう」
私は、予備校の数学の問題集をパタンと閉じた。
「珈琲、淹れなおしてくるな」
守屋君は空になったグラスをトレーに乗せると嬉しそうに席を立ち、部屋を出て行った。
もう夕方だ。
ベランダから見える西の山の端の空が赤い。
今日はこれから、どうしようかな。何時に帰ろう。
あれ以来、サキさんの美味しい夕食をご馳走になることも多い。
私は本当に毎日、守屋君と朝から晩まで一緒に過ごしている。
考えもしなかったことなのに。
未だに信じられない。
でも、ふとした瞬間、面映く頰が緩んでいる自分に気づく。
幸せな恋……それは、十七年間の人生の中で生まれて初めての経験だった。
「おまたせ」
感慨に耽っていると程なく彼が部屋に戻ってきた。
テーブルに新しい珈琲グラスとポテチの袋が並ぶ。
「美味し……」
水滴のついたグラスを片手に、呟いた。
「珈琲、好きだよな。神崎」
「大好き」
「俺も」
彼が柔らかく笑う。
そんな穏やかな夕暮れのひとときを過ごしていたはずの、その時だったのだ──────
「神崎」
急に守屋君が真剣な瞳で私を見つめた。
「守屋君……?」
次の瞬間。
私は、あっ…!と軽い叫び声をあげていた。
彼に手を取られ、強引に押し倒されたのだ。
私は真上に彼の顔を見上げていた。
彼は切なげにまなじりを歪め、私を見る。
「今夜は……帰したくない」
彼はそう呟き、そして、私を強く抱き締めた。
彼が激しく口づけてくる。
「あ……」
胸元に指が這う。
彼の狂おしげな息遣いを耳元で感じながら、私はどうしていいかわからない。
こんな……こんなこと。
あの八月初日に性急に求められて以来、こんなことは初めてだった。
毎日、部屋で二人きりで勉強していても、守屋君、軽くキスするくらいでそれ以上は何もしない。
時折、ただ優しくハグしてくれるだけ。
きっと、あの日。
私が……怯えたから……。
それなのに。
何故。
どうして、突然……?!
──────苦しい。
そんなにきつく抱き締めないで、守屋君……!
「離し……」
のけぞろうとして、その手首を掴まれ、また口唇を塞がれる。
「帰したくない」
耳元で囁く彼は尚、私を固く抱き締め離さない。
「たまらないんだ。お前見てると。どうしたって、触れたくなる。本当は大切に、そっと大事に守ってやりたいのに……時々、この手でメチャメチャにしたくなる。俺の……この手で……」
守屋君、どうして。
いつもの守屋君らしくない。
いつもの静かな彼じゃない。
激しい……。
激しくて、怖い。
たまらなく。
──────守屋君が怖い……!
幾度も口唇を塞ぎ、私の髪をくしゃくしゃに掴み、彼は闇雲に私を抱き締める。
「初めてだよ、こんなの……。女なんて誰も同じだと思ってた。一枚脱がせば後は変わらない。抱けば抱く程つまらなくなって……ほとんど惰性だった。ちょっと優しくすれば、すぐひっかかる。自分から脱いでくる」
守屋君……私を見つめた。
「初めてだよ、玲美以外の女で……本気で好きになったのは」
守屋君……!
「手を出すまいと思った。何があっても。あの日、泣き出しそうになったお前を見て、いつか自然とそうなる時を、待とうと思った。──────けれど、ダメなんだ……。どうしても。もう限界だよ」
耳元で囁いた。
「今夜は、帰さない」
守屋君、守屋君……!
苦しい。
激し過ぎる。
守屋君は。
いつも静かで。
いつも優しくて……。
本当の守屋君はこうじゃない。
こんな守屋君じゃない……!
こんな。こんな守屋君、は……。
いやよ……。




