幸せに泣く(前編)
「バス、後三分だな」
予備校前のバス停で、守屋君が呟いた。
「うん……」
約十分刻みで来るバスのタイムテーブルは、午後五時八分に次のバスが来ることを示している。
「守屋君は予備校、午前中だけ?」
「ああ。朝一の英語60分と11時からの数学60分。神崎は難関英語と、俺と同じ数学だよな?」
「うん。後は自習室で自習するつもり」
「一緒にベンキョーしない?」
「いいの?」
「つきあってんだろ、俺たち」
守屋君が私の瞳を見つめて言った。
「つきあう……て?」
私は少し戸惑った顔をした。
つきあう……。
私の青春にはなかった単語だ。
「一緒に遊んだり、ベンキョーしたりすることだよ」
彼が軽く答える。
「あ、それから──────」
「も、守屋君……!」
彼が不意に、CHU!と軽いキスをしかけてきたのだ!
「こういうこと」
穏やかに、彼が頭上から私を見下ろす。
私は真っ赤になって俯き、下を向いた。
「あ、バス来た」
見れば、目の前にグリーンと白のコンビの車体をしたバスが停まっている。
「じゃ、明日な」
「守屋君……」
私はバスに乗りかけた。
彼が小さく手を振る。
その姿を見た次の瞬間──────
「神崎……!」
守屋君が驚いて、大声で私の名を呼んだ。
私はバスを発車寸前で飛び降り、彼の胸の中に飛び込んだのだ。
「帰りたくない……」
彼の胸に顔を埋めながら、小声で呟いた。
自分のどこにそんな勇気があるのか、自分でもわからなかった。
「帰りたくないって……」
彼が呟く。
「じゃ、俺ん家、泊まる?」
「う、ううん! そんなこと……」
私はまた真っ赤になった。
「ジョーダンだよ」
彼は溜息を吐く。
「じゃあ。俺の夕飯につきあって」
「夕食?」
「そ。飯、これからだろ」
ついてこいよ、と彼は歩き始めた。
「守屋君、待ってよ」
そんなぶっきらぼうな彼の後ろ姿を私は追っていた。
***
「サキさーん、いる?」
彼は玄関先から、大声を張り上げた。
彼は再び私を伴い自宅へと帰ったのだけど、誰もいないと思っていた彼の家には誰かがいるらしい。
「はいはい」
そう言いながら家の奥から五十歳近い小太りの女の人が、前掛けで手を拭き拭き、出てきた。
「サキさん。悪いけど今夜は彼女と二人分、夕飯作ってくれる?」
靴を脱ぎながら、彼がそう言った。
「このお嬢さんの分もですか? お安いご用ですよ。食堂で召し上がられますか? それともお部屋で」
「部屋に運んできてよ」
「はいはい、お部屋に伺います」
にこにことその女の人はそう答えると、また奥へと消えた。
「守屋君。今の人は……」
「家政婦の山崎さん。俺が生まれる前からいて、俺は「サキさん」て呼んでる。俺のお袋、とっくに家事・育児放棄してるから、俺はサキさんに育ててもらったようなもんだよ」
そう言うと、「上がって」と彼は言った。
彼に附いて家の中へと入る。
彼の家は驚くほど広い。
お手洗いに行くだけでも迷子になるのではないかと思う。
同じ一戸建てと言っても、普通の4LDKの私の家とは部屋数も広さもまるで比較にならない。
彼の部屋は、屋敷の一階の一番東側の庭先にある。
「入って」
と、彼はドアを開けてくれた。
「守屋君。ひょっとして、この部屋。防音設備になってる?」
「ああ。俺がギターなんか弾き始めたから、親が外聞、憚ってさ。……でも、よくわかったな」
「うん。何となく……お杏のマンションのピアノ室と感じが似てるな、て」
そう言いながら、私は部屋の隅のベッドにゆっくりと背もたれた。
「何か、聴く?」
「え?」
「音楽。色々あるけど」
そう言うと、彼は部屋の隅にあるステレオを操作し、部屋の中には彼の趣味なのかもしれない軽快な洋楽が響き始めた。
「守屋君は。何が好きなの?」
私は何気に尋ねてみた。
「何が好き、て?」
「何をしている時が一番楽しいか、てことよ」
「俺は。……やっぱり、音楽聴いてる時が一番楽しいかもな」
「だったら、大学で軽音部に入れば? またバンド組んだらいいじゃない」
「バンド……」
「そう、ギター」
「ギターか……」
彼は一瞬、眉を歪めたが、
「いいかもな……。また、演りたい」
と、噛みしめるように呟いた。
「問題は大学だよな……。俺の偏差値で入れる大学なんて限られてるし、何学部に進学するかすらまともに考えてなかったからなあ」
そんな彼に、
「何の学科が好きなの?」
と、尋ねてみた。
「好きなのは地学と地理」
「私と真逆ね。私は化学、世界史が苦手だわ」
「そんなん選択するからだよ。地学と地理なんか楽勝だぜ」
そんな会話を交わしていた時、トントンとドアをノックする音がした。
「失礼します」とサキさんが入ってきて、
「お夕食が出来ましたよ。おかわりはこのお櫃に入ってますから、お嬢さんもたんと召し上がって下さいね」
と、部屋の中央のガラステーブルの上に食器を並べた。
「わあ、美味しそう……!」
私は思わず声を上げていた。
彩り豊かな五目寿司に、松茸のお吸い物、お新香という素朴なメニューだったが、一見でかなり手が込んでいることがわかる見栄えだった。
冷えた麦茶をコップに注ぎ終わると、
「どうぞ、ごゆっくり」
と、サキさんは部屋を出て行った。




